南の風・末尾記事(2004・ぶんじん日誌)
1300号(7月7日)
★<台湾「開放大学」構想>
日本の「大学改革」が混乱・低迷をきわめる中、台湾では新しい開放大学構想が法草案としてまとめられ、すでに昨年秋に立法院(国会)に提出されています。立法院議員51氏の連署による意欲的な大学改革への挑戦といってよさそうです。
制度的には、これまでの「空中大学」(放送大学)と、2002年・終身学習法で盛り込まれた「社区大学」(コミュニテイ・カレッジ)を統合するかたち。私たちの『東アジア社会教育研究』第9号にむけて法草案の日本語訳がおこなわれ、このほどその「解題」もまとめられました。楊武勲さん(早稲田大学で博士号取得)の努力によるもの。
台湾では今年末に立法院議員の総選挙が予定され、この法案が最終的にどのように展開するかは予断を許さないそうです。また単位互換や学位の位置づけ等についても、既成の一般大学との調整が難航することも当然予想されます。しかし大学改革の新しい法制化動向として注目されますので、私たちの第9号に収録し、また一足先にTOAFAEC
ホーム・ページにもアップさせていただきました。関心をおもちの方、のぞいてみて下さい。
風1294号に報じた通り、台湾の生涯教育の最近動向について鄭任智さん(早稲田大学・院)が黄富順氏論文(1)を訳出、さらにその続編(2)を白メイさん(中央大学・院)から送付していただきました。鄭さん、お手元に届いたでしょうか?
どうぞよろしくお願いします。
黄富順氏(台湾・国立中正大学成人及継続教育教育学系・教授)にはいまメールで了承を求めているところ。こんどの研究年報第9号は台湾関連の報告がとくに充実したものになりそう。楽しみです。
1299号(7月6日)
★<風の私信>
南の風に寄せられるメールのうち、「私信」の取り扱いに案外と気をつかっています。「私信」としてのご指示があれば問題ない(風には掲載しない)のですが、そうでなくて・・・内容が私信的な場合、載せるかどうか、悩むのです。概して、そういうお便りは、面白い。
本号収録・新保さんのメールは、もしかすると「ぶんじん」への私信かな、と思いながら、日中教育研究交流会議のことでもあり、久しぶりなので、掲載させていただきました。お許しください。
胡興智メールは、後半部分は「私信扱い」の指示でしたので、「以下、略」としました。しかし、実はたいへん面白く、載せられないのが残念。
来日20年の率直な心情あり、また「漢俳」だけでなく「和歌」づくりにも励んでいるそうで、そのうち、本にもしようかという構想らしい(バラしてしまった!)。「挙頭望明月 低頭思故郷」(こうべを挙げて明月を望み、こうべを低くして故郷を思う)の詩などあり。ときに風に投歌して下さい。
ぶんじん自身の文章については、戯れ歌を含めて、私的な内容をあまり遠慮せずに出しています。私ごとを他人様に読んでいただくことを恐縮しつつ、他人様のご迷惑にならない限りにおいて、お許しを頂こうかと・・・思っているわけです。かって「風」は公的な通信なのかどうかの論議が交わされたことがあります。なにをもって公的というのかにもよりますが、私的なものの「共」有化という側面もあっていいのではないだろうか、などと考えながら・・・。
もちろん行き過ぎ(ありうる!)、ご迷惑な部分については、遠慮なくご指摘をいただきたく、あらためてお願い申しあげます。
1298号(7月4日)
★<雀たちとの付き合い>
いま家では一人のくらし、朝はパンです。
永福は便利のいいところですが、ひとつだけ難点あり。いいパン屋さんが近くにないこと。散歩がわりにすこし歩いて、焼きたてのパンを買いにいきます。次の朝、また焼きたてがほしくて・・・、当然のこと、前のパンが残ってしまう。
神田川沿いの道を歩くと、ある橋のたもと、鯉たちが寄ってくる場所があります。いつも誰かがエサをあげるらしく、鯉が群れているのです。そこで残りのパンを投げる日もありました。鳩たちもすぐに飛んできて、パンくずを奪いあい、なかに勇敢な若い?鳩は手にのったりします。しばしの安らぎ。
ここ2週間、ベランダの植木鉢の一隅に、古いパンを小さくちぎって置く習わしとなりました。最初はそのまま残っていて失望でしたが、1週間ほど前、すっきりとパンくずが消えている。鳥が来てくれたのです。これで嬉しくなって、毎夜のように残りのパンを置いています。朝早い彼らのために。
昨日午後、窓外に鳥の気配あり。そっと見ていると、雀の家族でした。パンくずをついばんでいる。しかし、こちら側(室内)のわずかの動きに、実に敏感に反応し、身をひるがえして飛び去りました。さすが!
どうやら雀たちと新しい付き合いが始まったようです。怪我の功名というべきか。これでまた、焼きたてのパンを買いにいく理由もできました。富美の怪我が快方に向かって、二人の生活が戻っても、この付き合いを続けたいもの。
1297号(7月2日)
★<『私たちの学校、私たちのまちづくり』>
貝塚市立北小学校の校区を舞台にしたまちづくりの記録(「ふれあいルーム」運営委員会編、解放出版社、2003年)。公民館からの呼びかけにこたえて地域の集いが開かれました。手づくりの「北校区ふれあいまつり」。大成功! みんな満足した雰囲気の一方、「せっかく知り合えたのに別れるのがつらいな」というさみしい気持。涙の解散式。その席で、こんな会話がかわされました。
「私たち地元で集まる場所がないんです。公民館は遠いし・・・」「学校の空き教室ほしいていうてみたら? 私その話ひろうから。北婦人会も実は集会の場がほしいのよ。」
そして、余裕教室が「ふれあいルーム」として提供され、まちづくりの新しい活動を生みだしていく。公民館からの風が吹いて集いが成功し、その涙の解散式は一転して新たな「ルーム」運営委員会の発足式へ。
こんな記録を読みながら、東京・多摩社会教育会館・市民活動サービスコーナー・図書室の廃止問題、私たちが思いをこめて収集した戦後社会教育資料の廃棄問題、のことを考えていました。
あちこちの「学校の空き教室、なんとかならないものか?」と。しかし問題は、単なる施設空間のことではないのかもしれぬ。もっと大きな何かの空洞化、精神の退廃現象が始まっているのかも・・・と。
この本は、貝塚の村田明子さん(社会教育主事)から頂きました。福井県生涯学習担当者研修会(7月1日)に同席して。
1296号(6月30日)
★<ぶんじん日誌>
本欄は、毎号の編集後記として、あるいは、ぶんじん日誌風に、折々のことを自由気ままに綴っておこう、というわけで(1001号から)始まりました。すでに300回近くになります。
「南の風」各号をそのままホームページにアップしてはどうか、という意見もありますが、いろんな方の文章(著作権)があり、そこまでは踏み切れません。しかしこの欄については「ぶんじん」の責任の範囲ですから、毎号ともに「目次」と合わせて「ぶんじん日誌」としてHPに掲載しています。南の風メンバー以外の方も読んで頂いているわけです。
こういう欄は長文になってはいけない、せいぜい10行前後の文章で簡潔に、というのが当初の方針でした。しかし、最近だんだんと長くなり、読むのに疲れる・・・という方もいるに違いない、そんな反省をしています。本号はすでに14行。禁欲して、このあたりで・・・おしまいにしましょう。
1295号(6月29日)
★<「東アジア社会教育研究」第9号の発行に向けて>
もうすぐ7月。本年度の第9号、企画段階からいよいよ本格的な編集作業の季節となります。また暑い夏の到来です。
風前号に記載したように、台湾・生涯教育関連の訳文も送られてきました。他の方々の執筆状況はどうでしょうか。執筆予定の皆さんに、期限厳守のお願いを含めて、あらためての執筆依頼(確認)を送ってはどうでしょうか。7月6日夜の編集会議(事務局会議)で一覧をもとに検討しましょう。
そんなことを考えているときに、慶応大学(院)の王雪萍さんという方から電話あり、私たちの「研究」第9号へ投稿したいとのこと。まったく初めての人です。「投稿要領」記載の6月末期限に合わせて、原稿も送られてきました。図書館で「研究」第7号をみて投稿しようという希望をもたれたそうです。中国の留学生制度をめぐっての、なかなかの好論文。こういう若い世代からの投稿希望は編集部にとって嬉しいことですね。すこし手直しを含めて、7月末の最終締切までに再送して頂くようお願いをしました。
数日前の風1292号で紹介した「琵琶湖畔のむらからアジアが見える」という雨森(あめのもり)の集落活動。平井茂彦さんへの執筆依頼は渡部幹雄さんを通して内諾をいただいたかたち。ただあまり日数がないので、あらためて7月6日編集会議で相談します。文才がある方で短いエッセイ風の記録が絶妙。
昨日は平井さんから、お願いした字誌1冊、区報縮刷版2冊(創刊〜1,000号),新聞に見る「雨森のまちづくり」2冊、写真とエッセイ「雨森の四季」4冊など、ダンボール1箱が送られてきました。あらためてびっくり。これほどの出版活動を重ねてきた集落はないでしょう。
1294号(6月28日)
★<台湾の生涯教育、第9号へ向けて>
楊武勲さま、鄭任智さま;
メール(上記)と訳文を拝受しました。いま大急ぎで読みましたが、立派な日本語訳だと思います。文法的だけではなく、内容的にもよく分かります。まことに有り難うございました。
楊さん訳「開放大学法草案」については、法律ですので、慎重を期し細かな法律的な表現のところを最終的につめる作業をお願いできればと思っています。一度お会いして「定訳」といたしましょう。楊武勲訳を、第9号に掲載すると同時に、TOAFAECのホームページにアップすることもご了承ください。できれば、この訳文に楊さんのコメントがほしい、ぜひ!
原稿の最終締め切りは7月末です。
鄭任智さんが訳していただいた黄富順氏論文『台湾の生涯教育(一)』については、続編があります(『台湾の生涯教育(二)』)。福建師範大学・継続教育学院発行『終身教育』2003/2収録。現在、中央大学(院)白メイさんの手元にあると思います。<続き>として、ぜひ日本語訳をお願いできませんか。白さんから続編のコピーを鄭任智さんに送っていただければ幸いです。白さんには「南の風」は届いていたのかな? 念のため近藤恵美子さんからもお伝えください。
鄭任智さんへのお願い、住所(送り先)を「風」にお寄せ下さい。
1293号(6月26日)
★<6月定例研究会中止の顛末>
25日(金)夜はもともと定例研究会でした。しかし次のような理由で中止といたしました。「6月5日にTOAFAEC総会、7月11日に恒例の七夕の会(ただし今年はエジプトから来日するアーデルさんの結婚お祝いの会に切り替える)を行うため、定例研究会は中止することになりました。小林ぶんじんはこの日まだドイツより帰国できず、石倉事務局長も帰国直後(おそらく時差ぼけ)という事情も重なっています。ご了承下さい。」(ホームページ・6月スケジュールのサイト)
その後突発的な事情のため、ぶんじんはドイツ行きを中止。それでも「予告通り中止とします」「第99回研究会は7月定例会(7月23日)として行う予定です」と書き添えました。しかしHPの記事だけでは明らかに周知不足!
結果としてご迷惑をかけてしまいました。
当夜6時半頃、定例会場の高井戸区民センター(杉並区)から「横浜の伊東です、今晩の研究会はどうなったのですか?」との電話。恐縮してしまいました。いつも交流会場へ移動する時刻の8時半頃には、山口真理子さんから「イーストビレッジに待っているけど、誰も来ない・・」と。真理子さんにも中止が伝わっていなかったのかと忸怩たる思い。
岩本陽児さんから石倉さんあての同報メール。
「石倉さま、興味深い風の記事、拝読しました。長旅お疲れ様でした。ご報告、楽しみにしています。けど、1時から会議がみっしりで、果たして出席できるかどうか。三番目の将来構想委員会と言うのが曲者です。・・・と思って、念のためHPをチェックしてみたら、なんとお休みなのですね。では、ちょっと残念ですが、こころおきなく会議に没頭?できます。分かってよかった。…以下略…」
すこし救われました。しかし、定例研究会はなかなか中止できなくなりましたね。
1292号(6月25日)
★<琵琶湖畔のむらムラ>
ここ数号の「風」は南から吹くのでなく、一つははるか西のハンブルクから、あと一つは琵琶湖周辺の村からの風でした。前者はもちろん石倉さんの頑張りによるもの、琵琶湖畔の動きについては愛知川町立図書館・渡部さんの紹介によるもの。いい風は、人の思いを介して吹いてくるのですね。
愛知川町の字広報「ながの」縮刷版といい、高月町の雨森区の歩みといい、これまでまったく知りませんでした。滋賀県の図書館施策については注目してきましたが、公民館についてはほとんど知見なく、まして集落の公民館や自治活動がこれほどの豊かな水脈を蓄えてきたのかと驚くばかりです。東京周辺で公民館研究にたずさわってきたものの狭さと無知を恥じ入る思い。
前号のこの欄に書いたように、雨森の集落活動は東アジアとくに韓国との“草の根”交流の、あまり類をみない取り組みです。地域の若者たちが大阪に出かけて本格的にサムルノリ(農楽)を学び、韓国の若者たちと交流し、お互いの友情と信頼を育んでいく記録。受け入れの韓国側の中学校長さんが「日本の子どもたちがサムルノリを踊る」ことに驚き「もっといい加減なものかと思っていたのに・・・」と感動される経過など、読むこちら側もまた感動させられました。
雨森のキイパースンは平井茂彦さん(『雨森の四季』著者)。渡部さんを通して私たちの『東アジア社会教育研究』への寄稿をお願いしたところ、早速「快諾いただきました」(渡部)とのメール。さきほどご本人と電話で話しました。東アジア交流ハウス「芳洲庵」に一度参上したい、「ぜひどうぞ、お待ちします」と。ちかく米原を通る機会に・・・と思っています。
1291号(6月24日)
★<平井茂彦さん『雨森の四季』>
滋賀県高月町の雨森(あめのもり)は人口は500人前後の小さな集落。平井茂彦さんという方が『雨森の四季』(ふるさとづくりの心を求めて)と題するエッセイ・写真集を発刊され、すでに第9集を重ねました。集落の区報「あめのもり」の人気コラム「しゃぎり」から「ちょっといい話」90編を選び写真を添えたもの。風1288号で紹介した集落区報・縮刷版「ながの」と一緒に渡部幹雄さん(愛知川町図書館長)から第8集を送っていただきました。実に面白い!ページをめくりながら熱い「ふるさとづくりの心」を学びました。
雨森芳洲をご存知ですか? 白井白石等と並ぶ江戸中期の儒学者、対馬藩に仕え、中国語・朝鮮語をよくし「日韓」外交の衝にあたった先駆者、外交官にして学者・思想家、高月町・雨森の生まれなのです(雨森区ホームページ)。雨森区にはゲストハウス「芳洲庵」があり、なんと「東アジア交流ハウス」と名付けられています。私たちTOAFAEC
と共通する“草の根”からの国際交流への思い、小さな集落の大きな挑戦!
『雨森の四季』(第8集、2000年記録)の大半のページで、とくに韓国との交流、若者たちの相互訪問、サムルノリ演奏(韓国での公演も)、朝鮮通信使ゆかりの交流、韓国総領事の訪問、などの記録がたくさん収録されています。政治や利権にまつわる国際交流ではなく、お互いの心と思いを結びあった歳月、胸をうつ文章が少なくありません。
雨森では、字誌「ふるさと雨森」をまとめ、区報「あめのもり」縮刷版も刊行されているそうです。第1集(1号〜500号)、第2集(501号〜1000号)各1,000円(送料別)とのこと。また『雨森の四季』も第5号以降(各1,500円)は残部があるそうです。ご希望の方は「南の風」まで。一緒に注文いたしましょう。
付記:本号編集をちょうど終えたところで連載「アルトナ通信5」(石倉)が到着。無事帰国との
こと。連日の送信、ご苦労さまでした。次号に掲載いたします。
1290号(6月23日)
★<ドイツの図書館事情>
風1288号の渡部メール、上記の石倉メールに関連して、ドイツの公共図書館についていくつか。統計的データが手もとにあるわけではありませんが、単純な構図ではないようです。一つは、東西ドイツの統一にともなう問題(西ドイツ図書館の枠組みを統一ドイツに継承した)、二つは16州の独立性が強く、各州によって多様な展開があること、三つに人口比率の図書館平均数は相対的に多いとしても、その実体は複雑であること、など。
数年前に山口真理子さんがコピーしてくれた「ドイツの公共図書館」(三浦太郎、図書館雑誌2001年5月号・海外図書館事情)には次のように記されています。
「ドイツ全土に公共図書館はおよそ1万3500館を数える。ドイツ図書館統計(1999年)によれば、このうち専任職員をおく図書館は3,786
館と3割に満たない。またドイツ国内に約1万6000の市町村があるが、その中で公共図書館に専任職員を配置する自治体数は1,972である。人口10万人以上の大都市に限れば、すべての都市の公共図書館に専任の図書館員が置かれるが、人口2万人以下の都市ではその割合は半分以下となる。」
図書館利用は無料を原則とするが、ここ2,3年の傾向として利用料金を課す公共図書館が増えているとのこと。
ところが・・・。『事典・現代のドイツ』(1998年、大修館)はとくに図書館についての章を設けていませんが、博物館・美術館ガイドと並んで図書館の記述(p710)があり、「手写本、古文書、書物、原稿、草案などを所蔵している一種の博物館は図書館である」とした上で、これらは「ドイツ全国に約2万5,000ある市町村や教会運営の市民図書館」とは異なる学術研究的図書館という説明も。
それにしても概数の水準が違いすぎますね。図書館に関わる「公共」あるいは「市民」の範囲・概念をどう考えるかによって、数字も変わってくるのでしょうか。もっと正確に調べる必要がありますね。
1289号(6月22日)
★<ドイツ社会文化運動への関心>
いま「南の風」には、やや長文の掲載原稿(大前哲彦さんの「ろばこん」や、岩本陽児さんを介しての子どもの労働に関する「ベルリン宣言」など)が滞留しています。そこに毎日の石倉祐志さんのハンブルク・アルトナ通信!
原則隔日送信の風も毎日の送信となり、しかも毎号(本号も)長すぎる! 嬉しい悲鳴です。
石倉さんがおそらく夜を寝ないで記録を書いてくれている様子なので、速報としてこれを優先、大前さんの貴重なメールなどはあとまわしになっています。お許し下さい。
ところで、沖縄・東アジアの視点で出している「南の風」が、なぜドイツ社会文化運動なのか、なぜハンブルクなのか。ビールが美味しい!だけではありません。ちょっとコメントをお許し下さい。
まず「アルトナ」について。ハンブルク(人口170万人)の一つの区(約24万人)、アルトナ駅周辺のオッテンゼン地区(約3万3千人)に区役所があり、市民祭(アルトナーレ)の拠点となっている社会文化センター「モッテ」(館長・ヴェントさん)も位置している。地域の様子は東京でいえば上野か浅草のような下町、さまざまの社会問題、都市問題をかかえたところ。この地域の社会文化(Soziokultur)運動は,駅周辺の開発問題から始まって多くの社会問題に若い市民運動が立ち向かう展開があり、その取り組みのなかで、注目すべき「モッテ」が活発に機能し、市民の祭りとして「アルトナーレ」(今年で第6回)も開催されてきたのです。
社会文化センターの動きは(石倉レポートにあるように)実に多様ですが、地域に位置し地域の諸問題に挑戦するという点では、日本の公民館と類似している施設です。しかしその成立過程や設置形態は典型的に違います。日本の公民館は行政主導の公的設置、ハンブルクのモッテなどはまさに市民運動による設置と運営(行政からの支援と独自性)。
しかし日本的形態の公民館等施設を活性化していく上で、多くの学ぶべき点あり。ぶんじんも谷和明さん(東京外国語大学)に案内され、はじめてドイツの社会文化センターをまわったとき(2000年夏)、毎日が刮目させられる思いでした。そういう視点から石倉レポートを読むとまた新たな活力を与えられるところがあります。
*文献として、小林・佐藤編『世界の社会教育施設と公民館』(エイデル研究所、2001年)
所収、谷和明「ドイツの社会文化センター」等。
私たちのTOAFAEC は、沖縄・東アジアへの研究関心と相互交流を志して、この10年ほど動いてきましたが、東アジア「社会教育」の特質を解明していくためにも、ヨーロッパ近代に胚胎した市民運動や成人教育に関心をもつ必要を痛感、とくに最近のドイツ社会文化運動・社会文化センターに関心を寄せてきたという経過です。長い風でスミマセン。
1288号(6月21日)
★<愛知川町・字広報「ながの」縮刷版>
渡部幹雄さんから、滋賀県愛知川町大字長野西の集落広報・25年の記録「ながの」(大字長野公民館)を送っていただきました。上記メールのように約700頁、ずしりと重い大作。驚きました。
群馬県笠懸村や長野県下伊那地方などでは(公立)公民館報の縮刷版が発行されていますが、「ながの」は集落レベルでの縮刷版、こんな大作は類をみないと思います。1979年に発刊、去年の11月に500号を迎え、25年の記録が一冊に。はじめの年度は集落の「農業組合広報」として発行されていますが、その翌年からは公民館運営委員会による「公民館だより」となり、2000年8月(461号)からは「区民だより」。すべて手書き(毛筆を含む)で始まり、ようやく1992年にワープロによる印刷。集落と公民館活動の記録、文字通り手づくりの地域新聞です。
集落の規模は200戸程度とのこと。10戸前後の21組に分かれて評議員を選出し、評議員会が活発に機能してきたようです。1982年度の組織表では、区長・会計をおき、総務、土木、防災、厚生、福祉、税務の各委員。これに重ねて公民館運営委員会として、総務広報、青少年健全育成、人権擁護、教育文化、スポーツ健康の各部がそれぞれの運営を担って、小さな集落とは思えぬ多彩な活動を展開してきました。
2003年の評議委員会は「長野むらづくり委員会」を発足させています。1村の景観づくり、2村の文化づくり、3村の活動と村おこし、の三テーマによる部会が活動を始めたとのこと。小さな地域の自治的な取り組み。一度参上して、ゆっくりと話を伺いたいと思いました。
渡部さんの同便では『雨森の四季』(2001年)も送られてきました。滋賀県高月町・雨森の地域誌です。これがまた面白い。韓国との草の根の交流があり、私たちの『東アジア社会教育研究』に執筆していただきたいような集落活動です。別の機会に紹介することにします。
1287号(6月20日)
★<「草の根通信」のことなど>
松下竜一さんのご逝去、実は、どなたか風へ一文をいただけるのではないか(来なければお願いしようか)と思っていたところでした。久しぶりに徳永さんからのメール、有り難うございました。
大杉栄・伊藤野枝の没後50年祭(たしか1973年)に遺児の伊藤ルイさんが福岡から上京。国立の小林宅に泊まる夜、団地集会所に集まった市民たちに自らの半生をとつとつと語ったのです。ルイさんの語り口、今でも忘れません。この夜がきっかけとなって、それまで黙していた自分史を自ら解禁して、松下竜一さんの「ルイズ−父に貰いし名は」に結実することになります。(・・・とここまで書いたところで、この話はいつぞや鷲尾真由美さんからのメールに触発されて「風」に記したことを思い出しました。)
松下さんの「草の根通信」は豊前火力発電所の建設差し止め運動の機関誌として発刊されました。息長く30年余にわたって続けられてきた「その力量と持続力はただ凄い!の一語」(徳永)、しかし、この7月号(通算380号)で休刊の予定と報じられています。誰か後を継ぐことは出来ないものか、と残念です。
本号のこの欄は、滋賀県愛知川町の字(集落)広報「ながの」の縮刷版(25年の記録、昨年秋に通巻500号)を紹介するつもりでしたが、次号まわしに。
海を越えて、はるばるハンブルクからのアルトナ通信(石倉祐志)有り難う!さきほど着信。楽しみにしています。何号出せるか・・・挑戦してみてください。先月末に沖縄へ、いまハンブルクへ飛んだ行動力に(ぶんじんは行けなかっただけに)敬意を表します。谷和明さんの持続力にも。
1286号(6月18日)
★<この数日、いろいろ>
皆さまにご心配をおかけし、お見舞をいいただき恐縮しています。富美はかなり痛みがありますので、大事をとって16日午後に入院いたしました。張り切っていた介護夫はひとまず解放されたかたち。「病院通い」を始めています。溜まっている原稿もそのまま。家の中での介護だと仕事は進むと踏んでいたのですが、出歩く毎日となるとそうもいきません。関係の方々、お許し下さい。数日うちに必ず・・・と思っていますので。
ハンブルクを訪問した皆さんは17日夕から始まるアルトナーレ(アルトナ地区の市民祭り)を楽しんでいる頃でしょうね。いま頃はモッテ館長・ヴェントさんの話を聞いているのかな、今年はどんな状況なんだろう、開会式のビールもうまいだろう、行けなかっただけにいろいろ想像をめぐらしています。もしメールを出せれば「アルトナーレの風」速報をぜひ!
アーデルにとって「東京のママ」(富美)の代理もしています。“結婚お祝いの会”案内の送付先について、一橋大学関係の追加分を江頭晃子さんに送りました。「風」先号・タグタッホさんからの馬頭琴演奏の提案について、会場の中村屋に問い合わせました。レストランではときに歌う場合もあり、大丈夫だそうです。どうぞよろしくお願いします。中村屋からは看板などどうしますか?と聞かれました。遠藤さん、ご検討ください。
渡部幹雄さんから興味深い愛知川の集落広報縮刷版や『雨森の四季』(次号に紹介予定)など送って頂きました。上野景三さんからは『生涯学習と地域社会教育』、末本誠さんから『エコミュージアム研究』を恵送いただきました。有り難うございました。
1285号(6月16日)
★<ドイツ・ハンブルク訪問は断念>
先月、エジプトからアーデル氏が来日し、風の部屋に滞在中の出来事。買い物のため小林富美さんはアーデルくんたちと池袋を歩き、一休みした喫茶店で、階段を踏み外して転倒しました(5月22日)。そのとき大したことはなかったそうですが、翌日より痛みあり、整形外科に通いはじめました。当初の診断では、骨に異常はない、1週間程度で治まるだろう、6月16日からのドイツ行きは大丈夫とのことでした。しかし次第に痛苦は増し、2週間〜3週間を経過しても好転せず、数日前からほとんど動けない状態に。
これはおかしいというわけで、14日(月)に別の病院で7枚の写真をとって精密検査したところ、腰部に小さな骨折が発見されました。なによりも安静が必要、入院も検討しましたが、自宅での根気強い治療を開始したところです。ドイツ行きの計画はすべて断念せざるを得なくなりました。谷和明さん、いろいろ準備していただいたのに申しわけありません。残念無念!
15日にルフトハンザやホテル予約等をすべてキャンセル。二人してドイツを遊ぶ計画はしばらくお預けとなりました。
この日、2年前に一緒に沖縄を旅した建築家トールマン氏からはFAXが届きました。「谷和明から小林がハンブルクに来ることを聞いた。到着ゲートに迎える。私の古い車でホテルに向かい、その夜、エルベ河畔のすばらしいサマーガーデンで飲みましょう」とのこと。
あわててメール、ハンブルク行きを断念したところだ、次の機会を楽しみにしています、と好意を謝しました。
しばらくは神妙な付添夫として、新しい体験をいたします。ハンブルク訪問の皆さまへ、Gute
Reise! 一路平安!
1284号(6月14日)
★<10月に上海で国際シンポ企画の動き>
12日午後は上海から来日の葉忠海夫妻の歓迎会(上野・今半)。中国からのお客さんはこれまで公的な訪問団が多く、このような個人的な来訪は珍しいのです。お互いに気軽な語りあいとなりました。中国とのお付き合いも新しい時代に入ったな、という印象もありました。
葉先生を団長とする上海・成人教育関係者の訪日団を迎えたのがちょうど2年前。その架け橋となったのはいうまでもなく呉遵民さん。最終日の歓送会では、上海側(葉忠海氏)より東アジア社会教育・研究交流のネットワークを拡げていこうという提案がありました。しかし、この年(2002年)秋以降、ぶんじんはギックリ腰で不調という事情もあり、翌2003年は上海本「現代社区教育の展望」刊行は成ったものの、ほとんど研究交流の動きは具体化しませんでした。
1年ぶりの葉先生はお元気、相変わらずの積極的な姿勢。聞けば上海では今年の10月に成人教育(社区教育、生涯教育等)に関する大規模な国際的シンポジウムを計画中とのこと。欧米各国を含め10人ほど招聘する計画だそうです。上海市成人教育協会と閘北区当局が企画をすすめていく。「参加できますか?」と打診されました。
TOAFAECとして「いまどんなことに力を入れていますか?」という質問も。同席の伊藤長和さんと一緒に「韓国の平生教育」についての本づくりに挑戦していること。編者の一人・黄宗建先生がいま山東省ウエイバンで招聘教授として滞在中なので、ぶんじんの烟台日本語学校とも近く、そのうち山東省でともに語りあう機会をつくろう、などなど。
会も終わりに近く、近い将来に沖縄で「東アジア」研究交流の集いをもつことが私たちの夢であることも。さて実現するかどうか。
付記:いまNHKアーカイブスが「悪石の海・対馬丸の悲劇」(1977年)を放送中
(6月13日23:10〜)、涙が流れます。
1283号(6月12日)
★<研究会のこの10年>
私たちTOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)は、とてつもない課題を掲げてきました。東アジアの社会教育・生涯学習についての研究視点をもとう、相互に研究・交流のネットワークをつくろう、という夢への挑戦です。
中国や韓国についてのそれぞれの研究は進められてきました(それでも欧米研究と比較すると格段に少ない)。しかし相互にそれぞれを横につなぎ、総体としての東アジアをみる視点は−社会教育について言えば−ほとんど皆無といってもよいのです。一衣帯水の隣の国の社会教育について、その歴史と現在について、私たちはなんと無知であることか。歴史的には、かっての文化交流があり、さらに近現代の軍事的侵略や植民地支配の痛苦の、深い“関係”があるというのに・・・。
思わず、肩に力が入ってきました。非力だから、かえって力むのだと言い聞かせながら、書いています。
今月で、私たちの研究会はちょうど10年。定例研究会は次回で99回を迎えます。当初はすべて断片的、個別的なものが、10年の歳月を重ねると、多少の連続性や関連性が見えてくるところがあります。この間(東京学芸大学や和光大学の)研究室のネットワークだけでなく、心通う友人たちも少しづつ増えてきました。たまたま今日は上海からの葉忠海夫妻の歓迎会。
毎回の研究会でも、毎年の『東アジア社会教育研究』でも、挑戦してきた最大のことは、非力であれ、中国と韓国と、台湾とモンゴルと、そしてもちろん沖縄について、臆せず、必ずテーマに取りあげていくこと。これまで8号を重ねた『研究』を振りかえってみて、一応の努力のあとが見られます。
ただ台湾へのアプローチが、いつも弱いのです。『研究』でも毎号で台湾を取り上げてきましたが、第4号は残念ながら欠落。それだけに早大の楊武勲さんや鄭任智さん、天理大学の高佳芳さん(いずれも第9号の執筆予定者)等の若い研究者に期待するところ大!
とくにさきほど届いた楊さんのメール(上記)は、その意味でほんとに嬉しい!
私たちを励ます若いエネルギー!
さきほどホームページに初めてリンクを張りました。フフ・モンゴル・オドムを含めて6本ほど。しかし台湾についてはまだ相手が見あたりません。
1282号(6月10日)
★<京都「ろばこん」文献>
かって京都府の社会教育を代表する「ろばた懇談会」(ろばこん)の取り組みが注目を集めたました。住民の自治意識を重視した地域活動・社会教育の実践、ほぼ1970年代の歩み。蜷川府政とともに終焉?しました。この歩みを西村弘さんは「栄光去って府民のなかに生きる」と表現しています。(月刊社会教育1991年12月号)
いま社会教育研究者でも「ろばこん」のことを話題にする人はいなくなりました。ところが最近のこと、横浜の伊東秀明さんが「ろばこん」についての関心を(南の風には紹介せず)。岡山の美若忠生さん(奥多摩町→京都府の社会教育主事を歴任)が、これに応えて貴重な文献を送られたそうです(上記メール)。
おや?と思うような、こんな話題が交流されているのは、社会教育研究全国集会の小さな分科会・世話人のメールネット。沖縄集会(2002年)の字公民館・分科会が契機となって、岡山集会(2003年)でも自治公民館に関する分科会が設けられ、さらに今年の猪苗代集会へ向けて、小地域の自治活動と地域づくりについて分科会の準備が進んでいます。このネットが呼びかけて、今年1月には沖縄の字公民館をたずねる旅が企画されました。応援サイトとして、ぶんじんのホームページには「自治公民館・小地域の学習と地域づくり」を掲載。ご覧下さい。
ご参考までに、伊東さんのメールに答えて、ぶんじんが送った文献名は下記の通り。いろんな本がいま稀少なものになりました。
「1,2,3,4,5,…(略)…
6,横浜・伊東秀明さんの“ろばこん”についてのお尋ね。美若さんより届いているかも知れませ
んが・・・、小生からいくつか文献名のみ。
(1)津高正文編『地域づくりと社会教育』(総合労働研究所、1980年)
*「総合労働研究所」は昨年?つぶれました。ここから分立した「エイデル研究所」は
いま元気。この本は貴重。
(2)津高正文編『戦後社会教育史の研究』(昭和出版、1981年)
*「昭和出版」もつぶれました。
(3)宇佐川満編『現代の公民館』(生活科学調査会、1964年)
*生活科学調査会も現存しない。
(4)西村弘「ろばた懇談会」月刊社会教育1991年12月号
その他に論文なども。しかし主要な文献はすぐに手に入らない、図書館で探すほかなさそうです。当時、京都府は「自治意識を高めるために」という記録を刊行してきましたが、いまとなってはこれも入手できないでしょう。美若さんがお持ちでしょうか。」
1281号(6月9日)
★<上海・華東師範大学の葉忠海夫妻の訪日>
5日ほど前に、浦和の葉さんという方(女性)から突然の電話がありました。上海の葉忠海先生の娘さんでした。以前に拙宅(新年会)にお出でいただいたことがあります。いま、お父さんご夫妻が来日され浦和に滞在中とのこと。久しぶりに電話で葉先生と「お久しぶり・・・」とお話ししました。
葉忠海氏とはじめてお会いしたのは、ちょうど10年前。当時は華東師範大学・成人教育学院の研究室主任、その後は同大学・継続教育研究所長などを歴任され、私たち(TOAFAEC)と上海・華東師大との研究交流を推進されてきた方です。1998年に相互の意向書、その後さらに協議書を交わし、いくつかの経過のあと、2002年7月には葉団長のもと上海成人教育関係者の一行が賑やかに訪日されました。
その際、東アジアの研究交流をさらに前進させていこう、国際的シンポ開催案などの積極的な提案をされたのが印象的。2003年以降はとくに具体的な展開になっていませんが・・・。昨年11月の上海本の出版祝賀会に訪中した折にはお会いできませんでした。
5日のTOAFAEC 総会で皆さんに葉先生の電話を紹介し、12日に有志でささやかな歓迎会(上野「今半」、HPに記載)を開くことにしました。もし参加ご希望の方があれば、ご一報を。
1280号(6月7日)
★<上海・呉遵民さんへ>
5日夜のTOAFAEC 総会で、江頭晃子さんは都社会教育資料問題について涙を流して語りました。その場にいたものは、いつまでも忘れないでしょう。東京都・社会教育行政でこの間何が起こっているか、まさか・・・ということが続発している、その事実自体を忘れないで記録しておく必要がありましょう。前号に私が書いた危惧もすでに遅きに失したのか、いまから何が出来るのか、嘆くだけでおしまいなのか。
ところで、TOAFAEC 総会の記録は、昨年に引き続き、石倉・新事務局長から送付いただけるものと期待しています。ホームページに掲載予定。どうぞよろしく。
5日は忙しい日でした。午前は日本公民館学会の新企画本の編集会議、午後から日本社会教育学会六月集会。そして、プログラムが終了したところで、千野陽一さんとお会いしました。上海本(『現代社区教育の展望』)の日本語訳について経過を聞きました。
風1273号・1276号に記した通り、呉さんからは「千野先生はなんと私の執筆部分をすべて日本語に翻訳」という情報があり、こちらでは「日本語訳をしたのではなく(月刊社会教育・書評のために)中国文について詳しく目を通した」ということではないか、情報源の平原春好さんに確かめてほしい、などというやりとりがありました。書評のため訳文を作るなど常識的にはありえないことだからです。
直接のお話しで分かりましたが、千野さんは書評をするにあたって間違いなく呉さんの執筆部分を日本語訳にしたそうです。驚ききました。そのことを上海へ行く平原春好さんに話題として伝えたとのこと。病後にもかかわらず、そのような努力をされたことに敬意を表し(呉さんになりかわって)感謝を申しあげておきました。あらためて『東アジア社会教育研究』第9号へ掲載することについても承諾を頂きました。7月末原稿締切までに成稿をいただくことになりました。以上、ご報告まで。
なお『中国教育学科年度発展報告―2003』に収録される書評を黄丹青さんに訳してもらって、第9号(今年9月刊行予定)に掲載しようという計画をもっていますが、如何でしょうか。呉さんの意向をお聞かせ下さい。もし控えた方がよければ、ご一報を。
1279号(6月5日)
★<都立社会教育会館・資料室の危機!>
上記・江頭メールに関連して。都立多摩社会教育会館におかれていた市民活動サービスコーナーが廃止され、少なからぬ人が思いをよせて創りあげてきた専門資料室も閉鎖、そして、社会教育会館それ自体の実質的な解体、まさか・・・と思っていた事態が、この一両年で・・・あっという間に現実になってしまいました。思うところ少なからず。
都社会教育行政・施設の公共的体制はこれほどまでに基盤の弱いものだったのか、社会教育の職員集団や労働組合のエネルギーはどうなっているのだろう、関係の審議機関はどんな議論をしたのだろう、など複雑な思い。これで、行政の条件整備任務にかけた期待や信頼はもろくも消え失せ、あらためて市民の立場から、政策決定の仕組みや行政・施設のあり方を問い直す必要を痛感させられます。いま、行政と市民の関係性の構図を基本的に組み直していく課題にわれわれは直面しているのではないか。転換の時代にどのような新たな視点をもつことができるか。
専門資料の移管問題について、一つ気になることがあります。時代が昭和から平成へ移るころ、私たちは会館事業として「三多摩の社会教育の歩み」研究に取り組みました。15年近く続きました。刊行した報告書13冊。その間に、稀少資料を収集し(あるいは関係者から提供を受け)て会館“研究室”に所蔵してきました。戦後東京の代表的な社会教育主事であった斉藤峻さん(詩集『夢にみた明日』、「月刊社会教育」編集長)資料ほか多数の稀少史料が含まれています。貴重なものが少なくありません。これらは会館資料室とは別に収蔵されてきました。
もし(悪い予想があたって・・)この社会教育史料が危ないのであれば、早急に「戦後東京社会教育資料室」をつくる必要があります。先人の思いのこもった宝物をゴミにしてはならない!
1278号(6月4日)
★<新しい宜野座の風景>
前号の続き。6月1日午後の宜野座区への道は、昔よく通った同じところとは思えぬ新しい風景になっていました。あの懐かしい(これまでも立派な)区事務所・字公民館は見事に建て替えられ、車寄せもある真新しい建物へ(今年4月)。すぐ傍には、威容をほこる村立「がらまんホール」「文化センター」が昨年完成。国道をはさんで位置する役場や小学校はすでに最新の施設。まれにみる諸施設充実の地域空間。
宜野座との出会いはたしか1980年、私たち本土からの訪問団と北部(やんばる)社会教育主事会との交流会でした。寒い日、赤い柱の今帰仁村中央公民館、みんなで輪になってヒージャー汁を食べたなかに宜野座の字公民館長・城間盛春さん(現在・村議会議長)がいました。教育委員会の長浜宗夫さん(のち村収入役)に誘われての参加、当時25歳、住民公選による若い館長さん。あの頃は私もまだ字公民館の実像をよく知らず、字公民館の公選館長と聞くだけで興味をそそられました。
その後彼は宜野座区の若いリーダーとして活躍。地域活動に取り組み、郷土芸能「京太郎」(ちょんだら)を率いて、東京・国立小劇場の檜舞台に立ったことも。私たちはもちろん在京の応援団。東京からは宜野座調査に出かける(野村さんなど)院生もあり。宜野座区の盛大な豊年祭(八月遊び)に魅せられ、いろんな方を誘って何度行ったことか。
研究室の沖縄訪問日程は、名護の次の日は宜野座と決まっていました。そう、盛春さんは(議員になる前)ランをつくっていた。また、宜野座村各区の区長が研修と称して揃って上京し、東京学芸大学の社会教育研究室を訪問、ぶんじんが何か短く話をして、そのあとひたすら国分寺で飲んだ年もありました。
というわけで、この20数年、私たちにとって宜野座区は忘れがたいところなのです。この日あいにく長浜宗夫さんも城間盛春さんも、区長(公民館長)さんも不在。留守を守る区職員に育英会の話を聞いて辞しました。最終便で那覇へ。
翌2日に帰京。今回もまた充実した沖縄の旅となりました。お世話になった皆さんに御礼を申しあげます。さきほどホームページへ写真10枚ほどアップ、桑原さんから送られた画像2枚(豚の丸焼きと水族館)も。どうぞご覧ください。5日夜、TOAFAEC
総会(調布市)でお会いしましょう。
1277号(2004年6月2日)
★<金武町・伊芸区ヘ−おきなわ日誌>
名護で同行の皆さんと別れ31日午後に那覇へ。一人になると、なぜかまた、むらむら?と、フィールドワークの血が騒ぐのです。
まず県へ。生涯学習振興課は行くたびに新しい顔ぶれ。要覧など最近の県資料をお願いしました。公民館担当の棚田彰夫氏(社会教育主事)は2年目だそうですが、課長の上原勝晴氏は今年の4月に着任されたばかり。私たちの『おきなわの社会教育』(エイデル)もご存知ないようでしたので、お送りするつもり。
同じ教育庁・県立学校教育課の奨学金担当、そして東町会館の沖縄県人材育成財団へ。日本育英会の関連や県の育英奨学事業については、これまで4冊の詳細な記録(「琉球育英史」「25年の歩み」「財団50年の歩み」等)が作成されています。しかし市町村の事業はわずかに触れられているが、沖縄独自の集落レベルの育英活動については、まったく把握されていないことが分かりました。その意味で、この間の字誌記録は貴重ですし、内容もそれぞれ興味深いものがあります。
6月1日は金武町伊芸区公民館へ。同区の『村の記録』には伊芸区育英会の記述があり、その後の展開について聞き取りするためです。しかしキャンプ・ハンセン内の都市型戦闘訓練施設の阻止活動のため、池原政文区長はこの日から上京(並里区の嘉数氏なども同行)。館長補佐の宜野(よしの)憲一さんが対応していただきました。
伊芸区は362戸。伊芸区育英会の「平成16年度歳入歳出予算」はなんと1048万円。区の総予算は約8000万円。区の財産保全会への軍用地収入は約2億3000万円・・・。
そんな聞き取り中に、雨で土砂がながれ不発弾が発見されるという情報も飛び込み、反基地闘争に直面してきた字公民館の緊迫感まざまざ。基地問題を背景にして集落の育英事業の歩みも理解する必要を実感させられました。一晩中でも聞きたいところでしたが、慌ただしい雰囲気のなか、次の機会をお願いして退去。
その後ふと思いついて宜野座区へ。だんだんと再び名護に近づく。この4月、字公民館は改築され、宜野座のあまりの変貌ぶりに驚いてしまいました。
(ながくなりますので本号はこの辺で・・・)
1276号(2004年5月31日)
★<名護東海岸・天仁屋は雷雨−29〜30日の日誌>
29日夕の島袋正敏さんお祝いの会場・天仁屋小学校は、雷鳴とどろく豪雨となりました。名護市中心部はご機嫌の太陽が輝いていたのに、山を越えて、東海岸に入ったとたんに雨足激しく、屋外のモウアシビは実現せず。緑の木々に囲まれた小学校の校庭は、晴れていれば星が素晴らしく、天の川が運動場に流れる(仲地校長談)そうですが、これはまた次の機会の楽しみ。
水不足のやんばるに東京・高知グループは、恵みの雨をもってきてくれたと歓迎していただきました。沖縄大学の上地武昭研究室からは、留学生(伊、バリ島、韓国など)6〜7人が登場。比嘉佑典、中村保、中村誠司、宮城満など旧知の皆さん、正敏さんの小学校の恩師も。丸焼きの豚くんも私たちを迎えてくれて、当然、学大研究室時代のアーデルの話がでました(豚論争)。お母さんと一緒に参加された近藤恵美子さん、また山口真理子さんなど、当夜の様子を風に寄せていただけませんか。
30日午前は中村誠司・愛子ご夫妻のご案内で、まず「美ら海水族館」へ。1年ぶりにジンベエ鮫やマンタと語りつつ、ビールで至福の2時間。昼食は渡口のマース屋でビール。その後、今帰仁上り(なちじんぬぶい)。北山城は鳥居が取り払われ、城壁がかなり復元され、見違えるほどの風格を回復中。その後、待望の乙羽岳頂上でまたビール。夜は名護にもどり、正敏さんが再び現れ、こんどはビールを棄てて、島酒。朝10時から夜10時まで飲んでいたような1日でした。
飲んだくれていただけではない!いい議論もしました。沖縄の(研究者だけでない)研究会をどうつくっていくか。10時過ぎから(さすがに疲れて)お酒抜きの語らいが続きました。余力があれば次号に。
皆さん、お疲れさまでした。幹事役の中村保さん、準備の中心を担った島福善弘さん(源河)、司会役の比嘉久さん(屋部)など、有り難うございました。また松本から名酒を送っていただいた村田正幸さん、たしかに名護の皆さんに届けました。御礼申しあげます。
1275号(2004年5月29日)
★<海中道路を渡って−5月28日の日誌>
恐縮したことに東武さん(あずまたけし、金武湾を守る会・復帰の頃の沖青協会長)は私のために休暇をとって車を出してくれました。昨夜のパピリオンでも12時過ぎまで付き合ってくれたのに・・・と申しわけない思い。この夜の上原文一さん、名城ふじ子などの皆さんも、私の沖縄研究初期からの出会い、もう30年近くになります。
勝連への道中、東さんとの語らいは、どうしても当時の青年運動のことになります。そのうちに資料を前におきテープを回しながら、ゆっくりと話を聞く必要があります(約束しました)。
70年代の終わりから80年代にかけて、沖縄研究との関連で、社会教育関係のいろんな人が訪沖しました。故・横山宏さんなど。あの当時、東大の可愛い学生だった新保敦子さんが、いま早稲田大学の教授になっていること、東さんは驚いていました。海ん人の血が流れる東武は、金武湾のスヌイ(もずく)をドラム缶で東京のマンションに送り、ぶんじん宅では「どうして塩を抜くか」など大騒ぎ、そんな想い出、いろいろ、話は尽きず。以下、28日の行動記録。
まず勝連町の平敷屋公民館へ。1996年に刊行された字誌をもとに西新屋光男区長からの聞き取り。高等弁務官資金で建てた公民館が老朽化し、約3億2千万円で建て替え決定。いまプレハブ住まいでした。なにしろ、ホワイトビーチ関係の軍用地収入あり、字は超黒字財政。
海中道路を駆け抜けて平安座区の自治会館(公民館)へ。安村和子・自治会々長(区長)、新垣一博・同会計の両氏。平安座自治会館の新築(1985)記念で字誌と写真集の刊行。大作(708頁)、知りませんでした。CTSからの企業撤退の影響で、字財政はかなり縮小。
5時過ぎ、再び海中道路を渡って与勝半島へ。きむたかホールはあいにく平田大一館長不在。しかし大阪からの約200名の中学生が「あまわり浪漫の会」と熱烈交流中。唄い踊り、ホールいっぱいの若いエネルギー。松永太郎くん(事務局長)など若者だけで、しっかりと交流会を仕切っていました。「ひとこと感想」を求められましたが、圧倒されて、言葉にならず。
西の海に日が落ち、東に月も出るころ、東さん親族お揃いのガーデンパーティに飛びこみ乱入。ご馳走になりました。
那覇に着いたのは10時過ぎ。「苗」でカツオめし。この頃、石倉祐志も国際通りにいたらしい。
1274号(2004年5月28日)
★<那覇への旅>
4ヶ月ぶりの沖縄への旅。こんどは本島(やんばる)だけ。ところがいまのJAL機内誌・スカイワードは、西表島の「唄う、舞う、染める、出会い」のページを組んでいて、しばし西表の海の色と風の音に出会った思いでした。
唄うのは石垣金星さん、舞うのは新城知子・音絵さん親子、染めるのは石垣昭子さん(いま金星さんと染織)。新城知子さんはご存知・東京学芸大学音楽科の出身。東京公演の折りに学芸大学社会教育研究室に来て舞っていただいたことがあります。もう10年前?のこと。白足袋が研究室の床で真っ黒くなったのを(恐縮しつつ)憶えています。石垣の自宅の小劇場でお二人の舞を観たこともあります。たしか群馬の石川敏さんや稲葉さんも一緒でした。
とりわけ印象的な画像は、愛用の三線を抱き、沈む夕陽を見つめながら、祖内の浜で唄う金星さんの後ろ姿。リゾート問題で激しく闘っている実像を知っているだけに、島の自然と文化を守ろうという祈りを秘めながら唄っている静かな浜の風景が目にしみました。
島の古い歌謡は次のような意味だそうです。「井戸端の蛙に羽が生えて飛ぶまで・・・家のまわりのトカゲが海に降りてジュゴンになるまで・・・屋戸の桟のヤモリが海に降りてフカになるまで・・・私たちの命も島とともにあらしてください。このような願いであります。神さま」
静かな浜の風にのって、三線の音が聞こえてくるよう。
1273号(2004年5月27日)
★<上海本の評価>
去年11月に刊行された上海本(『現代社会教育の展望』上海教育出版社)、その後、中国でどう受けとめられているのでしょうか。
日本では、上記・呉メールのように、「月刊社会教育」最新号(6月号)が書評に取り上げ、評者・千野陽一さんからは過分の評価。編者としては、いろいろ課題も少なくないことを自覚していますから、「画期的挑戦」「見事に成功」「快挙」(千野・書評)などの好意的な言葉は、いささかくすぐったい思いなのですが・・・。
呉さんからは前に『中国教育学科年度発展報告―2003』に掲載されたことが伝えられました(風には紹介せず)。これについて、黄丹青さんより「本が中国教育学科年度発展報告に載せられたことはすごいことだと思います」「特に呉さんの中日両国の比較や先生のアジアの視点を紹介しており、内容とともに、初めてのスタイルと、本を高く評価しています」とのこと(風1264号)。
千野さんは、「本文が中国語なので今から日本語訳が期待される」と書いています。日本側執筆者(黄丹青さんを含めて)の文章はもともと日本文ですから、中国側の執筆分が翻訳されれば、可能です。ただ、誰が日訳の労をとってくれるか、また、どこか出版社が引き受けてくれるかどうかが問題。
さしあたり、いま編集中の『東アジア社会教育研究』第9号で、序文(郭伯農氏)の日本語訳が進んでいます(黄さん)。千野さんの書評も転載できないか相談するつもり。『中国教育学科年度発展報告』掲載の評文についても、黄さんに翻訳をお願いできないでしょうか。
1272号(2004年5月25日)
★<アーデルくんの滞在>
風の部屋にちょうど1週間泊まっていました。今回の来日は1年半ぶり、驚くほど大きな荷物を抱えてやってきました。多くは日本留学中の教え子たちへ託された荷物だったようです。それでも、風の部屋への土産にエジプトのワインを2本。1本は18日のTOAFAEC 事務局会議で飲み、1本は21日の研究会(上記)へ。なかなかの逸品でした。
イスラームの人たちは豚を食べませんが、お酒もダメ! それでもはるばるとワインを抱えてきてくれたのです。豚についてはかって島袋正敏さん(豚についての本がある)との間で面白い論争があり、お酒については小林研究室(よく酒を飲んだ)メンバーのなかでいつも悩んできました。学問研究の発展?のためにともに酒を飲もうと、教授としてアラーの神に許しを乞う祈り・・・しかし・・・彼の悩みは深まるばかり。
東京学芸大学の研究生から一橋大学大学院へ。田中克彦教授のもとで社会言語学を専攻。助手をつとめたあと、エジプトへ帰国し、現在はカイロ大学日本語学科の助教授。博士論文をもとにした『エジプトの言語ナショナリズムと国語認識―日本の「国語形成」を念頭において』(サーレ・アーデル・アミン著、三元社、2001年、¥12,000)が公刊されています。『方丈記』のアラビヤ語訳も。
彼は学者の道を歩いていますが、心では政治家への思いがあり、自分の故郷ではすでに地域医療や公民館的施設の建設など、地域開発の実績で評価が高い。2002年に伊藤長和さんたちと訪問したことがありますが、ムラの長老が彼を迎え、彼が歩けば子どもたちが群れていました。
6月には(新婚の妻とともに)再来日とのこと。みんなでお祝いのパーテイを開いてほしいと注文して帰国。
1271号(2004年5月24日)
★<29日、名護へ>
中村誠司さま:
古宇利「島しまへの夢」「遊歩マップ」、有り難うございました。いいものが出来ました。仕事に疲れると、子どもたちの作文やマップを手にとって楽しんでいます。区長の小浜美千子さんはじめ、関係の皆さまによろしくお伝え下さい。
風でなんどか書いたように、島袋正敏さんの退職お祝いの会と称して、5月29日に名護に参上します。東京や高知などから7〜8人、午後4時に山田荘に集合ということになっています。その夜の会場は天仁屋小学校、久しぶりにお会いできるだろうと楽しみです。
29日は、同行予定の桑原重美さん(もとNHKカメラマン)が「なちじんぬぶい」をしたいというので、4〜5人で今帰仁へ行こうという計画。いま今泊の仲尾次吉澄さん(今帰仁村収入役)に連絡をとっているところですが、なかなか忙しい人でまだ直接に接触できていません。時間があれば、いつかご案内いただいた「美ら海水族館」のマンタやジンベエザメにも会いにいきたいところですが、日曜日だから混むでしょうね。同行の皆さんも日程に追われて、月曜日には帰京するようです。小生のみ数日は滞在の予定。
その後、やんばるの字誌づくりの新しい動きはどうですか?
10年ほど前、名護の「ぐすく育英会史」をいただいた経過がありますが、研究室から誰かが借りていって行方不明になってしまいました。まだ頒けていただくものがあるでしょうか?
かねて沖縄の集落自治による独自の育英事業を少し調べてみたい(そのむかし日本育英会で仕事をしていたこともあり)と思っています。お会いした折りにいろいろ教えて頂けませんか。先便の名護市・山本英康さんへの風、承知しました。まだ連絡がありませんが、アドレスなど届いたら直ちに送信を開始いたします。
1270号(2004年5月23日)
★<いま“NEW”マークがゆれている>
TOAFAEC ホームページをご覧ください。この1週間で新しい頁が四つも出来ました。“NEW”マークがゆれてます!
韓国から帰って「川崎と韓国・富川」(既報、1266号)のページ、二つ目は懸案の「東京の社会教育・地域史」、三つ目は今年の社会教育研究全国集会(猪苗代湖)に向けた分科会世話人・美若忠生さんメールに触発されて「自治公民館・地域自治活動」、そして、昨日の定例研究会「フフ・モンゴル・オドム運動のこれから」に少しでも役立ちたい思いから、四つ目の1ページ。数枚の写真など盛りこんで、まあまあの出来映えか。
21日・定例研究会のモンゴル留学生たちの「母語であるモンゴル語を引き続き学ぶことができるのか」レポートでは、実に切実な思いが語られました。
草原の砂漠化、経済的困窮、改革開放政策の反面としての格差拡大、中国語化の進行、モンゴル民族学校の衰退などなど。民族のアイデンティティ、文化と言語の将来への憂い、在日のモンゴル留学生たちの「モンゴルの子どもたちのために」運動が始まりました。それからすでに3年、ぶんじんはフフ・モンゴル・オドムの顧問役です。
しかし現実はなかなか厳しい。彼らはバイトで食いつなぎながら、月に1000円を貯め、ネットワークをつくり、故郷の子どもたちへの学費を手渡しする努力をしてきました。2002年9月には宋慶齢基金会の方々と一緒にモンゴルへの(“手渡し”)旅。(ただし、この旅は直後にギックリ腰!)
TOAFAEC は資金的にはまったく無力です。だが・・・彼らの思いに応えて、心ではなんとか支援していきたい・・・、その一つとしてのホームページづくり。皆さん、のぞいてやってください。
付記:代表のタグタッホさん、ホームページについて意見をください。副代表ショウグンさんのアドレスを入力したい。いい画像(デジタル)があれば送って下さい。写真の入れ替えをしたい。包聯群さんの発表原稿なども掲載できますよ。
1269号(2004年5月21日)
★<沖縄・古宇利「島しまへの夢」>
中村誠司さんを介して、古宇利島しまづくり実行委員会発行「島しまへの夢」「古宇利島・遊歩マップ」を送っていただきました。有り難うございました。文部科学省「生涯学習まちづくりモデル支援事業」によるもの。こんな資料づくりはあまり例がないのではないでしょうか。
「島しまへの夢」は古宇利の小学生たち25名の夢や未来への思いの作文、それに彼らが撮った写真がたくさん!裏表紙には25名全員の顔、かお、カオ!
作文はそれぞれに個性的、子どもの心がどのあたりにあるかを感じます。みんなを紹介したいけれど・・・紙数の関係で・・・いちばん短い“こうりじまをまもろう”を一つ。
「ぼくはしぜんがすきです。でも、こうりじまは、くるまがいっぱいです。そしてその車からはいきガスがたまにみえます。それにタバコ。ぼくは先生に・・・(中略・125字)。このままじゃこうりじまがよごれるのかなと思います。
もうすこしで、はしができます。それにこうりまるがなくなるのでさみしいです。はしができても、ぼくはこうりまるにのりたいです。
いつかぼくは、うみをはしの上でみているでしょう。こうりのはしもぼくたちをささえながら島を見ているでしょう。ぼくのねがう島はきれいで、魚がいっぱいとれて、しぜんな島にしたいです。」(二ねん なかそね
かいと)
1268号(2004年5月19日)
★<私たちは共に森になろう・光明市生涯学習院>
韓国はソウルと仁川のちょうど中間、富川市に隣りあう光明(くゎんみょん)市、人口35万の近郊都市、ここに「生涯学習院」が誕生したのは2002年のこと、聖公会大学に委託して運営されています。
韓国の「平生(生涯)教育法」成立が1999年夏、同「施行令」公布は2000年春(従来の社会教育法は廃止)。光明市ではそのような国の動きを背景として1999年に生涯学習都市宣言、新しい世紀に入って、これまでにない「生涯学習」の潮流が始まっている!
日本の公民館と近似した施設が「生涯学習院」としていま姿を現していますが、光明市を通して見る限り、日本とは違った構図が動いているようです。一つは、上記の聖公会大学に運営を委託していること、一つは、いま地域で大きく躍動している市民団体・運動と結びあっていること、そして何よりも創成期のみずみずしい精神。
本号冒頭に紹介した光明市生涯学習院のパンフレットからも、その雰囲気が伝わってきます。私たちは共に森になろう、一人のリーダーより十人の同伴者を、誰もが疎外されることのない共に生きる教育共同体をなど、詩的な呼びかけが印象的。住民自治センターや市民教育支援センターへのまなざし、疎外階層に対する教育プログラム、教育通貨・地域通貨との連動、学びの地域共同体へ、といった取り組みの視点。いま何かが実像的に動き始めているように思います。
運営を受託している聖公会大学についても、国家や企業のためだけではなく、それを牽制する市民社会の新しい創造に向けて大学の役割を積極的に位置づけていきたいという学長のメッセージが胸に響きました。人権と平和、民主主義の発展と社会運動の活性化のための総合的教育機関として構想された「民主社会教育院」。これから、どんな展開になるのか、注目に価いします。(ホームページに資料を掲載)
1267号(2004年5月17日)
★<米原駅の駅弁>
12日は米原(まいばら)を通り福井へ、翌日また米原を経由して滋賀県愛知川町へ。愛知川町では注目の図書館、同館長・渡部幹雄さんに案内された蔵元「藤井本家」、頂いた銘酒“旭日”(欅)など話題は尽きませんが、この機会に米原駅のお弁当を紹介させていただきましょう。
最近は駅弁が美味しくない。もともと旅への憧れを象徴して、幼い頃から駅弁にはたくさんの思い出がありますが、今は・・・あまり食べない。ただ米原駅を通るとき、必ずといっていいほど買い求める駅弁があります。
鴨のローストが真ん中に位置して、まわりに玉子焼、田舎風こんにゃく、ネギの“ぬた”、小芋の丸煮、かしわ、赤かぶらのおつけもん、梅干や山牛蒡、しめじや黒豆、そして白おこわ。それぞれ実に味わいふかい。これにビールでほぼ1時間を楽しみながら東京に帰りました。
「いづつや」弁当。駅弁全国コンクールで4位?になったとか。包みにはさまれていた「湖北のおはなし」の一文。棄てないで、会う人ごとに見せています。
「伊ぶきおろしは逃げるように去った。耐えに耐えた白梅、紅梅が湖北にも香しさをまきちらすかのように。余呉湖に桃の花を見るとき、嫁いだ娘を案じる。お城の桜がいまをさかりと咲き乱れるころ孫の入学をおもう。夏にはびわ湖に帰っておいで。秋まつりにはみんなで元気な顔を見せておくれ。江洲ではぐくんだこのお弁当をきょうもおばあちゃんはつぶやくように、つくりつづけています。」
ひとつ、壱千円です。
1266号(2004年5月15日)
★<HPに「川崎と韓国・富川(プチョン)」>
この欄で、韓国訪問の感想等を日誌風にいくつか書きましたので、ホームページにも転載しようと思い立ちました。川崎の伊藤さんや小田切さんからもきっと記録が送られてくる、それを合わせるとHPに韓国のページを一つ加へることが出来る、と考えたわけです。
実はかねがね九州の金子満さんがTOAFAEC・HPに韓国情報を盛り込みたいと提案してくれた経過があります。大歓迎!と喜びました。現在の韓国記事は、教育基本法と平生教育法のみ、この不十分さを補える、ひそかに期待しているのですが・・・、彼も忙しい。
ふりかえってみると、私たちの研究会では、何度か韓国の動きをテーマに伊藤さんや小田切さんに報告していただきました。レジメや資料、新しい富川の動きなど貴重な情報もあるのに・・・そのままになっている。また「東アジア社会教育研究」に掲載した論文等もあります。この機会にホームページに収録しておこう・・・と思いはふくらんで、昨日はHPづくりの作業を楽しみました。
タイトルは当然「川崎と富川(プチョン)」、川崎の方々もきっと了解してくださるだろうと勝手に考えています。小田切さんからは昨年の両市交流会記録も送っていただきました。追っかけて、なにかいい画像がありませんか、と厚かましいお願いも。
まだ工事中、しかし一夜にしてTOAFAEC・HPに韓国関連の新しいページが加わりましたので、ご覧の上お気づきのことなどご教示下さい。 朴三植さん(学大院→早稲田大院)がイギリスから帰ってきて、次回21日研究会に顔を出してくれるそうです。希望が寄せられ、数日前から「南の風」も送り始めました。彼のドクター論文とも関連して、そのうちに韓国ページづくりに力になってくれるかな?
1265号(2004年5月13日)
★<韓国、あれから四半世紀>
忘れもしません、はじめて韓国を訪問したのは1980年2月。社会教育法の草案づくりの過程で、日本の社会教育法について詳しい話を聞きたいという韓国社会教育協会(黄宗建氏)からの依頼によるものでした。ただ一人で金浦空港におりたった日、屈辱的なほどの厳しいボデイチェック。持参した社会教育法制資料や出来たばかりの『社会教育ハンドブック』(初版、エイデル研究所)など洗いざらい調べられました。韓国社会教育協会の招聘状を見せて、なんとかパスしたものの、このときの不快感はいつまでも脳裏に消えません。
そういえば、当時の韓国は午前零時以降は外出禁止、道を歩いていて突然の防空演習サイレンが響くとすべて待避を強いられる、空港行きのバスも道路横にしばし停止させられる、そんな時代でした。今回、同じ金浦空港におりて、入国審査ののどかさ、人々の華やぎと笑い、明るく広々とした空港ビル、などなんとも印象的。
韓国社会教育法は1982年に成立しました。それから10年たった1992年、内田純一などと「社会教育法10年の定着過程」をテーマに訪韓、しかし(調査の密度は薄く)その痕跡も見出しえず。案内役の金平淑の故郷・南海(ナムヘ)島に渡って、はるか南の九州を想い、たらふく魚をご馳走になりました。博多に育ち玄海灘の魚を食べてきたものとして、同じ「海の幸」を分かち合っていることに言いしれぬ感慨をおぼえたものです。
それからさらに10年余。いま韓国「平生教育法」(1999年)は富川や光明などの先進的自治体において、市民運動や大学と響きあいながら、くっきりとした実像を見せ始めているという印象です。
1264号(2004年5月11日)
★<韓国全国紙サイト・日本語バージョン>
今回の韓国行きにあたっては、伊藤長和さんだけでなく、とくに小田切督剛さんの若いエネルギーに感嘆しました。小田切さんは1999年に川崎市から韓国・富川市への(第2期)派遣職員として1年間の滞在。この時期の調査報告「富川市の社会教育施設・関連施設」について、私たちの「東アジア社会教育研究」第4号にも転載させていただいた経過があります(1999年)。それからちょうど5年経って、いま富川市でどのような進展がみられるのか、その対比を知る上でも貴重なレポートとなっています。
小田切さんから今朝、かねてお願いしていた「日本語で読める韓国全国紙のサイト」をお知らせ頂きました。
・朝鮮日報 http://japanese.chosun.com/
・東亜日報 http://japanese.donga.com/
そして次のようなコメントも。「朝鮮日報は韓国内で発行部数最大で、東亜日報は2位です。ただし、この2紙は“朝・中・東(チョ・ジュン・ドン)”といわれる保守系全国紙3紙のうちの2紙です。単に論調が保守的なだけではなく、事実の歪曲や捏造記事(民主化闘争で有名なソウル大学のチェ・ジャンヨプ教授を“共産主義者”として攻撃した事件など)があること、また日帝時代後期に総督府に協力的だった歴史を隠そうとしていること、などから市民団体が<アンチ朝鮮>というネットワークを作り不買運動などを展開しました」など。
また、代表的な進歩系新聞であるハンギョレ新聞のサイトもできたそうです。
→ http://j2k.naver.com/j2k_loading.php/japan/www.hani.co.kr/
早速、開いてみました。韓国の新聞についてこんな日本語サイトがあったのかとびっくりしました。これまでは毎日の沖縄主要新聞サイトを開くならわし、これからは韓国の新聞を読む時間が増えそうです。
1263号(2004年5月10日)
★<韓国の旅、懐かしい出会い>
久しぶりの韓国、懐かし方々との再会があり、また新しい出会いがありました。旅はよきもの。体はたしかに疲れますが、しかし心は洗われ、新しい刺激によみがえるものがあります。精神的に疲れているときはいい旅をすること、元気になること請け合い。今回の韓国の旅でもその思いを新たにしました。まずは新しい刺激と懐かしい出会いの話を一つ。
初めて訪問した富川市の印象も鮮烈でしたが、隣りの光明市もまた刺激的な町でした。新しい「平生学習院」(生涯学習館)の誕生は2002年、これまでの韓国の旅では出会わなかった風景がありました。平生学習院については昨年、川崎の伊藤さんから日本語による洒落た概要パンフを頂きましたが、新版もまたいい出来映え。日本の公民館パンフにはない彩りと意欲を感じます。
ここの運営を委託されているのは聖公会大学校(神学院から発展した総合大学)。平生学習院で話を聞いたあと大学を訪問しました。ここで「民主社会教育院」(別に報告予定)に出会うことになりました。「人権と平和・・・民主主義の発展と社会運動の活性化のための総合的社会教育機関」という説明でした。深く感銘を受けました。
“私が勤務していた日本の和光大学も自由で民主的な大学ですが、比較にならないほどの積極的な創学の思想だ”などと感想をもらしたところ、“いま和光大学から在外研究で滞在中の先生がいますよ”とのこと。驚いたことに同僚だった岩間暁子さん(和光大学助教授、社会学)でした。まったく偶然の懐かしい出会い。
総長室を表敬訪問、そのあと車を走らせて豪勢な夕食をご馳走になりました。もちろん岩間さんもご一緒に。金成洙総長は日本語が堪能な神学者、ホームページに記念写真を1葉掲げています。
→こちら
1262号(2004年5月8日)
★<韓国から帰って>
5月8日午後、韓国から帰ってきました。今回は珍しくパソコンを持参しませんでしたので、風としては4日ほどのご無沙汰。おそらく毎日の交流・飲み会に忙しく、風を吹く余裕などないだろうとの予測からでしたが、見事的中! さきほど帰宅して早速パソコンを開き、本号を作っているところです。(留守中の多数のメール、有り難うございました。)
今回の韓国への旅、主な用事は韓国本の編集会議(7日夜)。それに先だって5日到着直後から7日午後まで、冨川(プチョン)、光明(カンミョン)両市の「平生(生涯)学習」関係者訪問、大学・施設見学、夜の交流の集いが相次ぎ、実に充実したスケジュールとなりました。あらためて川崎市と冨川市との間で重ねられてきた自治体間交流、市民団体相互の友誼と連帯の厚みを実感した次第。中国・台湾を含めてこのような市民レベルの熱い友情はあまり例がない!と思いました。
停滞している日本の社会教育にとって、いま躍動的に動いている韓国の市民運動、その活気からうける刺激は少なくありません。この3日間の旅の記録を「南の風」に少しでも紹介したいと、同行の伊藤さん、小田切さんにお願いしておきました。お楽しみに。そのうち画像もホームページに掲げます。
韓国本の編集会議は、中国から帰国中の黄宗建先生はじめ、金済泰さん、アメリカ帰りの魯在化さんなど旧知の方々が集まり、新しい「平生教育研究所」(安養市)で開かれました。論議の時間が少なくやや残念でしたが、ハングルと日本語が飛び交うこのような会が(ようやく!)実現できたことがまず何よりの喜び。編集作業は遅々たる歩み。海を越えての論議を重ねて、なんとかいい本に結実させたいもの。
1261号(2004年5月5日)
★<名護・天仁屋・モウアシビ>
5月29日の名護・モウアシビ(島袋正敏さんを祝う会)、いまのところ東京・高知等から7〜8人の参加予定(あと少し増える?)。当日は午後4時に宿舎予定の山田荘(名護市内)に集合、会場(東海岸・天仁屋小学校)への送迎をお願いしています。午後5時頃から夜にかけて、豚を焼いて楽しみます。会費3000円予定、どうぞよろしく。
小生は5月27日から6月1日までの滞在。参加メンバーの希望により動く予定。桑原重美さんから「なちじんぬぶい」への関心が寄せられ、翌30日は今帰仁訪問になりそう。空いた時間は自分の調べもの?
29日夜の宿泊(山田荘、1泊4500円)予約の必要あり、希望の方はご一報を(人数確認)。移動はメンバーの顔ぶれによりレンタカーなど検討しますか?
ところで、5日からは久しぶりの韓国です。川崎の伊藤長和、小田切督剛のお二人とご一緒。黄宗建先生も中国から帰国され、韓国側執筆者の方々と待望の顔合わせ、楽しみです。
1260号(2004年5月2日)
★<南の風・アドレス一覧>
お約束の「南の風」配信アドレス一覧をお届けします。いま81名の方々。ちょうど1年前(風1053号・5月4日)は67名でした。この間に10名の方への配信を(確認メールに応答なく)停止、24名の方が新しく参加されました。計34名の入替えがあったことになります。
そのほかに、職場や研究室等でローカルに回信されている場合があり、また一部の学生への(強い要望に応えての)臨時送信あり、実際にはもっと多くの風が吹いている勘定になります。
海外を含めて、いろんな立場からの参加ですから、お互いに顔が見えないネットに変貌しつつあります。「風」の発足当初(1998年2月)の10名余、その後の30名前後までは、みな旧知の間柄でした。いまはむしろ知らない名前の方が多くなっているかも?
しかし“闇夜に鉄砲”では困ります。少しでもお互いの“顔”が見えるような通信にしたいという思いで、風「アドレス帳一覧」をお届けする次第です。メンバー一覧の配布については「風」誌上で何度か打診した経過がありますが、とくに反対意見はなく、年に一度の行事になった感じです。
あらためて発信者の思いを申しあげれば、風を双方向に吹きあいたい、皆さんの遠慮のないメールで「南の風」を創っていきたい、ということ。沖縄・東アジア・社会教育の研究交流を拡げようというのが初心ですが、あまり枠を設けずに、自由気ままなお互いの交流を大事にしようと考えています。もちろん「南」(とくに沖縄)にこだわる気持ちは変わりませんが、少しでも相互の“ひろば”として役にたてば幸い。
風の1260号にいたる蓄積のなかで、それなりに面白い交流空間の拡がりも実感しています。だけど、いつまで続くか分かりません。発信するのが疲労・苦痛になったら止めようと思っていますが、あとしばらくは続きそう。今後ともどうぞよろしくお付き合いください。
もし、お名前、所属、アドレスなど、間違いがあればお知らせ下さい。感想・提案・注文など何でも大歓迎!「風」不要・迷惑の場合はどうぞご遠慮なく一報お願いします。また頂くメールが私信の場合はその旨をご指示下さい。
1259号(2004年4月30日)
★<岩淵英之氏のご葬儀>
川崎の岩淵英之さんが亡くなられたとのお知らせをいただきました。27日夜だったそうです。この一両年は療養中とのことでお会いする機会が少なくなっていましたが、それまではいたってお元気、いつもあのやさしい笑顔で迎えていただきました。川崎の社会教育に創設期から携わり、その後、社会教育課長として発展の軌道をつくり、さらに市の教育長として重責を担ってこられました。退職後は早稲田大学客員教授、中央大学講師、川崎自治研センター理事長など。学会にもよく顔を出されました。享年79歳。
初めてお会いしたのは、1963年、川崎(公民館、当時)で開かれた日本社会教育学会六月集会と記憶しています。1980年前後の川崎市文化懇話会(当時、教育長)や、最近では川崎市日本語教育推進委員会等でご一緒しました。岩淵さんがいらっしゃれば、全体の論議がなんとなくうまくまとまっていくという印象が残っています。
自治労(当時)大都市関係者の中国訪問の旅(1989年)にもご夫妻で参加されました。天安門事件の直前、西安の鐘楼近くで美味しいダックを食べました。『生涯学習と学校五日制』(エイデル研究所、1993年)など書かれたものは多く、なによりも大著『川崎市社会教育五十年史』(1998年)のまとめ役、私たちの『世界の社会教育施設と公民館』(エイデル研究所、2001年)の共同執筆者の一人でもあります。
お通夜は30日午後6時より、お葬儀は5月1日午前11時より、いずれも川崎市多摩区春秋苑(南生田8-1-1電044-977-3466、小田急「生田」駅より送迎バス)。淋しくなりました。ご冥福を祈ります。
1258号(2004年4月28日)
★<4・28沖縄デー>
4・26はチェルノブイリ原発事故(1986年)の日。そして4・28はサンフランシスコ・対日講和条約が発効(1952年)した日、「沖縄デー」と呼ばれてきました。
同条約3条によって米国の沖縄支配が確定し、沖縄は“太平洋の要石”として恒常的な軍事基地化が拡大。この象徴的な日に、祖国復帰協議会は結成され(1960年)、各地の沖縄返還運動が渦をまいてきました。与論島と辺戸岬を分かつ北緯27度線上で毎年開かれてきた「4・28海上集会」。私たちの本(小林・平良編『民衆と社会教育』1988年)にも海上集会の写真を掲げています。
本土の学生運動でも「沖縄デー」は重要な日でした。とくに1969年のこの日、東京の学生デモは国鉄(当時)線路上を占拠、電車をとめて気勢をあげましたが、大勢の逮捕者を出しました。
当時の大学教員たちはとくに「沖縄デー」に神経をつかったものです。4月に入学したばかりの学生たちが、学生運動へのある憧れと解放感をもって最初に出会う運動が「沖縄デー」のデモでした。1969年のこの日のことも忘れられません。ピクニックのような気分でデモに出かけた新入の女子学生があえなく逮捕され、屈辱的な体験を強いられたのです。
1972年の沖縄返還。それからすでに30年余。しかしアメリカ軍基地の状況はかわらず。他方でかっての運動の歴史はいま風化しつつあり。復帰運動の主題歌ともいうべき「沖縄を返せ!」など歌われる機会もなくなりました。
1257号(2004年4月26日)
★<自治体史では初めての『社会教育』編>
1週間ほど前、力量感あふれる名護市史『教育』編の紹介をしたばかり(南の風1253号)。相次いで『新修・豊中市史』第11巻として刊行された『社会教育』編を送っていただきました。これにも驚きました。ずしりと重い700頁の大作。明治期の通俗教育期から現代生涯学習時代にいたる“自治体では初めての『社会教育』編”です。
この巻の部門委員長は元木健氏、これに加えて上杉孝実、村上博光、井上英之、土井洋一さんなどの執筆陣、いずれも関西の著名な社会教育研究者。元木さんの「編集を終えて」によれば、第10巻の学校教育編と一緒にするか別にするか、なかなか決まらず、しかし結果的に「地方自治体史の中で社会教育の独自の巻が設けられるのは初めて」「後にも先にもこれだけではないか」(元木)という結果になったそうです。
豊中市は以前に『豊中市史』4巻の刊行があり、豊中市教育研究所の「教育史資料」等の蓄積もあるのでしょうが、やはり戦後初期からの社会教育の歴史、とくに公民館の活動が充実していたからこそ、このような1冊が可能だったのでしょうね。
実は「公民館」の歴史(執筆・井上英之さん、約80頁)の項は1年ほど前、ゲラの段階で読ませて頂く機会がありました。西村真琴氏(初期の公民館長)や松末三男氏(公民館主事)等の個性あふれる群像が生き生きと描かれていました。丁度その頃、九州大学の松田ゼミの皆さんによって「福岡市公民館史研究」がまとめられたこともあり、今まで空白に等しかった日本の都市公民館の歴史が、あざやかに実像を見せ始めたという強い印象です。
1256号(2004年4月24日)
★<定例研究会、もうすぐ100回>
4月研究会(23日夜)には、久しぶりに津久井純くん(6月からベトナムに「公民館」をつくりに行くという、風1250号既報)が顔を出してくれました。元気そうで何より。それに樋口(白井)知子さんが4年ぶりに九州から東京にもどってきて初?参加。
研究会の論議「東アジアに生涯学習の潮流」は難しかったが、終わって恒例の交流会では話がはずみ、歌をうたうのも忘れてしまった感じ。常連の伊藤長和さんからは研究会欠席についてのメールが届いていました。遅ればせに、この欄でご紹介。
「TOAFAEC 研究会を楽しみにしておりました。ところが高津区の文化協会の総会。挨拶を終えたら高井戸に出かけようと考えておりましたら、新館長の歓迎会を予定しているとのことを伝えられました。というわけで、欠席させていただきます。できれば、当日の資料を後日いただければ幸いです。私伊藤は、昨日は川崎市の全市の社会教育施設長会議で一杯。本日は市民館長会議で一杯。その後、岩手県東和町の役重教育次長と懇談会でした。役重真喜子さんは、自治省のキャリアで東和町に住みついた女性で『ヨメより先に牛がきた』の本とドラマで有名な方です。とにかく連日の飲み会で肝臓はメロメロです」とのこと。お幸せ!
私たちもメロメロにビールを飲んで、高井戸の駅に着いたのは11時をまわっていたようです。駅への歩道橋を渡りながら、この研究会もうすぐ100回だ、この10年近く、よくも続いたものだ、100回記念はどんな企画になるか、などという話題に。皆さん、お疲れさま。
お願い>白メイさん、近藤恵美子さん、昨夜の研究会資料を伊藤さんに送っていただけませんか。
1255号(2004年4月22日)
★<島袋正敏さん退職を祝うモーアシビ・ご案内>
沖縄調査の折々、昔のモーアシビ(野の遊び)の話を聞いたことがあります。そこから私がつくりだした情景は、ひっそりした浜、波もなく、空には十三夜の月、親しい(もちろん男女の)仲間たち、三線に合わせて踊り遊ぶ、風に誘われてゆらりと舟を浮かべる・・・月さやか、そんなぜいたくなひととき・・・というイメージ。今でも夢見ています。
「南の風」1243号(4月1日)に書いた島袋正敏さん退職お祝いの会は「モーアシビをしよう」と語り合いました。昨年末の定例研究会で比嘉佑典さん(東洋大学、島酒之会々長)や中村保さん(同副会長)など。そのときの話では5月連休でという案でしたが、島福善弘さん・名護市立図書館から連絡あり、名護側でも検討した結果、次の日程になったそうです。
日時:5月29日(土)
場所:天仁屋小学校(東海岸、地図で調べて下さい)
やはりモーアシビの思いが伝わっていて、(浜辺ではないが)小学校のグランドで豚を焼いて一夜をたのしもうという計画。比嘉佑典さんも名護在住中、おそらく島酒之会の方々など、いろんな人が集まる、校長さんも出る・・・などの動きだそうです。暦をみると、この夜の月は上弦をすぎて十一夜、きっと想い出に残る一夜になることでしょう。
正敏さんの退職お祝いの会は、3月から4月にかけて名護各地で開かれたようですが、それがどうにか一段落したところで、本土からの旧知の人たちを迎えての会が実現することになりました。エイプリル・フールの呼びかけ(前記、南の風1243号)が本物になったわけです。
皆さん、それぞれのご都合を調整の上、ふるってご参加下さい。今回は「ぶんじん」が幹事役になります。ご参加の方はご一報を。
付記:この日程は日本教育法学会(神戸大学)と重なりますが、パスするとして、その前夜が東京のTOAFAEC
定例研究会。これを1週間早めて第3金曜日に変更していただけないでしょうか?
1254号(2004年4月20日)
★<重複本ダンボールの整理>
ぶんじん所蔵の文庫には、少し重複の文献資料類があります。東京学芸大学時代に新研究棟(9階建)へ引っ越しの際、ダンボールで2箱に詰めました(1980年)。研究室資料が学芸大学から福岡や和光大学へ移動するときにあと1箱(1995年)、合計3箱。
このセリ市をして、売り上げを貧乏なTOAFAEC財政の足しにしよう(あるいは酒にする)という企画がありましたが、実現せず。
3箱のダンボールは、1箱をうっかり福岡・油山文庫へ送ってしまいました。案外と今は入手できない古書があり、あるいは稀少の社会教育資料(たとえば三多摩テーゼ原版など)も含まれていて、来訪者に自由に持っていってもらいました。
あと2箱は予定通り和光大学(いま岩本研究室)へ。他の沖縄資料や識字調査報告等のダンボールを格納するため1箱を整理したような記憶あり?確かめて下さい。
かなり歳月が経過していますので、どんな重複本・資料が残されていたか記憶が失せていますが、一度このダンボールを開く機会をつくって、もし資料価値があればセリ市企画を再生してみてはどうでしょう。案外と掘り出し物があるやも知れず。ゴミ同然であれば廃棄。セリ市の場合、福岡に残っている一部(その後の)重複資料を東京へ移すことも検討。
研究会ダンボール高知移転についての岩本・内田・石倉メールを拝見しつつ、こんなこと考えました。
1253号(2004年4月19日)
★<名護市史『教育』編>
昨日、待望の名護市史・本編六『教育』が届きました。別冊の「学校誌」を加えると、八百頁の圧倒的な重量感! 驚きました。
「本書の編集・出版は早くに企画されたが、地域資料が少なく、範とする先行事例も少なく、さまよう年数を重ねた。書かない、書けない時間を送った。先輩から原稿が提出され始め、それを励みとしたが、紆余曲折が続いた。結果はかなり充実した内容になったと思う。」
監修責任者・中村誠司さんの「あとがき」の一節。十数余年の取り組みだそうです。南の風でも何度か予告をいただき、楽しみにしていましたが、聞きしにまさる力作・労作。刊行にいたる歳月の重み。
社会教育(第二部)の比重が大きく、類がないのでは・・・と思います。執筆陣は中村誠司さんのほか島袋正敏、宮城能彦、比嘉道子、岸本好永さんなど。学校教育(第一部)は安仁屋政昭、岸本一健さんほか多数。誠司さんは「村学校と私塾」についても。挿入された写真が興味深く、また巻末の60頁をこえる詳細な「名護市教育史年表」が圧巻。
今から楽しみに拝読します。手にとっただけで、読む前から、名護の教育の歩みが静かに何かを語りかけてきます。
1252号(2004年4月17日)
★<ちかごろの東京の夜>
あまり東京を観光的に歩かないので気づきませんでしたが、東京の夜が実に索漠としていることを実感しました。
上海からの客人5人を迎えて、上野松坂屋の真向かい、風月堂で歓迎夕食会(16日夜)。お酒も歓談も終わって別れ際、ふと思いついて不忍池のほとりを散策してみようということになりました。上野公園の桜は終わっていますが、その昔、池のまわりに提灯のように街灯がともって「お江戸」の雰囲気を感じて池をめぐったことを思い出したのです。
しかし池の水面はゆらゆら見えますが、今お江戸の情緒はまったくない。語りつつ散歩するような雰囲気にはなれず、「散歩は終わり!」と宣言して、別れました。防犯?上の配慮があるのか、暗く静まった夜。
上野広小路では道すがら外国人とみて言い寄ってくる派手な女性もあり、たまたま道路工事中だったせいで、実につまらない上野界隈。といって銀座は取り澄ましているし、新宿は雑踏だし、緑豊かな空間は天皇の領分ですし・・・。いま“春宵値一刻千金”の季節、いい気分で散歩したくなる東京の夜にしたいですね。
といって上海・黄浦江ほとりのあの川風と圧倒的な夜景には及びもつきませんが・・・、現代東京にもこういう情緒があるのかと思わせて別れたかったのです。東京駐在の劉さん(案内役)を除いて、閘北区からの四人は、はじめての訪日でした。
1251号(2004年4月16日)
★<杜若(かきつばた)を舞う都社会教育主事>
14日夕は渋谷の観世能楽堂で松音会「春の会」。東京都社会教育主事・福原栄男さんが「杜若(かきつばた)」を演じられました。お能を楽しむ機会などめったにない。福原さんはシテ役、見事な出来映え。
「杜若」は「伊勢物語」を素材とした名曲です。三河国八つ橋の杜若の精が女となってあらわれ、在原業平の東下りの物語を舞うのです。目も耳も、そして心も、ひととき幽玄の世界をただよいました。
福原さんは、時代が昭和から平成に移るころ、多摩(立川)社会教育会館の事業「戦後三多摩における社会教育の歩み」を担当されました。毎年1冊の報告書が13冊、三多摩(3冊は二三区)の社会教育の歴史がかなり復元できたと自負しています。福原さんが軌道を敷かなければ13年も継続できなかったことは確か。発足時の研究スタッフは、藤田博、故小川正美、佐藤進、小林平造、手打明敏などの皆さんと小生、面白いメンバーです。これも歴史のひとこまとなりました。
かって、世の中でもっとも贅沢なことは幽玄の能楽に酔いながらコックリと居眠りすることだと言った人があります。しかしこの日、眠る余裕はなく、前列に座ってひたすらカメラ。かなり難しい。やはり三脚がほしい。ようやくそのなかの1枚を選んでHPにアップ。
福原栄男さんは、この3月、東京都を退職されました。
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