南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
1200号(1月16日)
★<故足立邦彦さんの遺稿さがし>
以前から小林研究室にはたくさんの酒が退蔵されていました。一角には酒蔵(さけぐら)と称するコーナーも。いまも「風の部屋」にはいろんな酒瓶がころがっています。これらは(ワイン以外は)自分で求めたものでなく、誰かが持ってきてくれたり、遠くから贈っていただいたりしたもの。最近は案外と銘酒・名酒・美酒が多い。新年会や夏の七夕の会は、貯まったお酒を飲みあう会でもあるのです。
しかし最近は、皆さん、酒量が落ちましたね。風の部屋の酒瓶もかなり残っていますよ。
新年会騒ぎで、つい書き忘れていたことがあります。1週間ほど前に上福岡市歴史民俗資料館・高木文夫さん(「風」1191号に紹介)から電話あり、故足立邦彦さんの遺稿集づくりをすすめているとのこと。ところが沖縄関連で書き残したものがない、東京学芸大学時代の沖縄研究会やTOAFAEC
の記録のなかに何か見当らないか、探してほしい、というご依頼でした。少し記録をめくってみましたが、今のところ掘り出しものがありません。もしお気づきのこと、ご記憶のことがあれば、ご一報いただけないでしょうか。
足立さんの記録を探しているうちに、1年前の年賀状が出てきました。次のような添え書きあり。最後の1行が・・・なんとも悲しい。
「昨年は仕事で沖縄集会に参加できず、本当に残念でした。
不快に思うことだけが増えて、魂にふれる語り合いが少なくなりました。
今年はこの語り合いを少し取りもどそうと考えています。
先生、お体に大切にして下さい。」
1199号(1月14日)
★<新年会、ご苦労さま>
11日の2004新年会、楽しい1日となりました。偶然にホームページから知って来た人あり、30分前に誘われて、そのまま参加した人もあり・・・、皆さん、ご苦労さまでした。モンゴル人6人、中国人2人、エジプト人1人(いつもより外国人は少ない?)。賽音吉雅(セーンジャー)さんの馬頭琴演奏、いつもながらお見事、有り難うございました。事務局の遠藤輝喜さんに届いた欠席ハガキを見せて頂きましたので、いくつかご紹介いたしましょう。
・いつもお誘いいただいてすいません。ジョギングと囲碁で規則正しい 生活をしています。
(浅野浩一・所沢市)
・皆様、大変ご無沙汰しております。私は現在、第五回東京都生涯学習審議会の担当をして
おります。生涯学習・社会教育行政の分野では逆風が吹きっぱなしで、このような状況の中
で、何とか光明を見いだせないかと悪戦苦闘しています。(梶野光信・東京都)
・あけましておめでとうございます。私は相変わらず家業のパン屋で粉にまみれて働いており
ます。日曜日も仕事が入っていますので、残念ですが、今回、欠席させていただきます。
(上田幸子、横浜市)
・三月に結婚しました。先生に祝辞までいただきました。ただし、私はとても“品行方正”なの
で、ヒヤヒヤしながら聞いていました。数少ない美点を探してもらいました。葬儀屋さんも相変
わらず続けているので、大変ですが頑張っています。(大八木淳子)
・ご無沙汰しています。11日は茅ヶ崎市で開催される「持続可能な社会開発を目指して」
プロセス・ファシリテーター養成講座に参加します。地域とともに情報を収集、調査、分析、
計画を考えるための調査方法=PRA(主体的参加地域評価法)を学んできます。皆様に
どうぞよろしくお伝え下さい。(中澤郁美、杉並区・教員)
・申しわけありません。当日は所用があり、出席できません。昨年、母を亡くしました。皆様の
ご健康を心よりお祈り申し上げます。よろしくお伝え下さい。(板橋文夫、埼玉県栗橋町)
1198号(1月11日)
★<11日・新年会>
10日午後、和光大学・最初の小林(プロ)ゼミ卒業生からの電話。「いまレストラン・グランメールにいますが、今日の新年会はどうなったんですか?」とのこと。生津真一くん。
「1日間違いだ! 新年会は明日11日だよ。」
急に気になりました。間違った案内がまわっているんじゃないか・・と、落ち着きませんでしたが、他には連絡なく、きっと生津くんだけの早とちりだったのでしょう。そそっかしい人もあったものです。
他に黄丹青さんなどから「新年会にうかがいます」と電話あり、予想(グランメールにお願いした人数)より増えそうですね。烟台の張林新校長からも「うまく飛行機がとれれば、新年会に出席します」とのこと。黄海をこえての参加となれば、蓬莱からの「八福神」にも似て、おめでたいかぎり。
アーデル先生(カイロ大学)の教え子「アミンちゃん」(早稲田大学)は4人ほどのエジプト人留学生を連れて現れるそうです。套図格君たちモンゴルの留学生は何人来るのかしら。歓迎、大歓迎!
これで2004年も本格的な幕開けの気配ですね。
1197号(1月10日)
★<沖縄の公民館50年>
前にも書いたことがありますが、沖縄の公民館は、昨年から今年にかけて50年の歴史を迎えました。その具体的な契機となるのが、琉球政府の「公民館の設置運営について」(中央教育委員会決議、1953年)でした。戦後日本の公民館構想が、奄美の島々に伝播して、アメリカ占領下の沖縄に定着を始めるのです。そして、単に政府レベルの通達が上から出されたというにとどまらず、各地の集落にそれぞれの具体的な実像として公民館が展開しはじめる、それが1953年から54年にかけてのことでした。読谷や今帰仁の集落史がそのことをなまなましく証言してくれます。
今回の沖縄への旅(上記)は、いわば沖縄の公民館50年の歩みを実地に訪ねる企画でもあります。戦前からの沖縄の歴史に、日本の公民館構想はいったい何をもたらしたのか、また戦後沖縄の地域史・集落史の展開に公民館制度はどんな意味をもったのか、戦後日本の公民館史とも対応させて考えてみたいものです。
逆に、沖縄型の公民館という場合、沖縄の歴史と文化が沖縄らしい独自の公民館像を創りだしてきた側面があります。受け身の定着というのではなく、いわば地域的創造の事実です。しかも半世紀の蓄積が重ねられてきている、それらをどう読み解いていくか。なんだか難しい日誌になってしまいました。
1196号(1月8日)
★<2004・ホームページ更新>
旧年から新年にかけて、年送りの鐘を聞きながら、ホームページの更新をしていました。昨年6月(近藤恵美子さん恵贈の)ビルダー・ソフトをつかって新HPを立ち上げて半年あまり、1ヶ月平均で千名前後の訪問者、やはり旧年12月のままでは申しわけない、との思いからです。酒を飲みながら、いい気分の作業でした。
表紙の画像に何を使うか、とつおいつ幾つかの写真を差し替えながら、結局(ご覧のように)上海「小林国際交流閲覧室」<ぶんじん文庫>の看板となりました。旧11月に上海訪問の際、同行の矢久保学さん(松本)が撮影したもの。矢久保さんからたくさんの上海写真をCDで送っていただいたのですが、サイズが大きく(画質はよい)、小サイズのいつもの画像と比べると10倍近い、なかなかHPに使いづらいのです。HPを見る側ではそれだけページが重く、画面を出すのに時間がかかる。
それでも新年のご挨拶、本年第1号の表紙写真といたしました。矢久保さんに感謝。加えて初孫・真由香の写真、これは息抜きのつもり。どうぞよろしくお願いします。
1月下旬の沖縄訪問日程も、上記の島袋正敏メールをもとにスケジュール・イメージとしてさきほどアップしました(1月スケジュール欄)。短い日程の割には内容の凝縮したいい旅となりそう。ご覧の上、もし関心をおもちの方あれば、ご一報下さい。参加歓迎です。なお沖縄訪問の経過や趣旨については、昨年末の風1192号(12月30日)をご覧下さい。
1195号(1月6日)
★<断崖から草原へと歩む>
前号に引き続き、宮柊二(しゅうじ)の歌について。安井郁(杉並公民館長、原水協初代理事長)にも、「永劫の断片」という歌集(1977年)がありますが、たしか「コスモス」に参加し、自らの歌つくりの道場としてきたことが記されていました。「コスモス」は言うまでもなく戦後の代表的な短歌結社、宮柊二の創設・創刊になるものです。
私が宮柊二の歌を読むきっかけは、一つは堀之内の森山丈順(前号)とのつながり、そしてあと一つは安井「永劫の断片」を通してでした。
ところで宮柊二は、こんなことを語っていたそうです。若いころは、<断崖>に手をかけて必死でよじ登るように歌を追求するけれど、そのあとは<草原>を歩くようにゆっくりと自由に歌を作ればいい(岩波文庫・宮柊二歌集「解説」岡野公彦)と。たしかに宮柊二の歌風には<草原>を悠然と歩いている感じ、<断崖>を登ったあとの余裕ある歌つくりの時期があるのですね。断崖から草原への道、そんな道を、生き方としても、ゆったりと歩いたみたいものです。
今年の正月、「宮柊二歌集」に触発されて、拙い歌を二つ。
◇みどり児のもどせしミルク正月のわがセーターに仄かににおう
◇新しき本を編まんと気負いつつ今なお断崖を登らんとするか
1194号(2004年1月3日)
★<『宮柊二歌集』を読む>
年末の福岡・油山文庫のなかから、久しぶりに『宮柊二歌集』(岩波)を取り出し、元旦になっても飽かずページをめくっていました。宮柊二(1912〜1986)は新潟・堀之内に生まれ、戦争(従軍)体験を含めて、昭和の時代をひたすら生きぬき、数多くの秀歌を世に残した人。たくさんの元旦詠がありました。
◇海(うな)じほに注(さ)してながるる川水の しずけさに似て年あらたまる[1961]
◇しづかなる第一日のあらがねの如き光を鮒の子も浴ぶ[1962]
◇除夜の鐘鳴り初(そ)むるころ瑞々と 光を加う天(あま)つ群星(むらぼし)[1964]
◇一鉢の黄の福寿草一壺のしろたへの塩今年始まる[1965]
◇初日さす梅の木の下土凍り楕円に鳥の影走りたり[1967]
◇あけぐれの部屋にもの読み雨を聞きこの満ちごころ年明けんとす[1968]
◇奥山の高山の秀(ほ)の孤り照り孤り暮れたる年の初の日[1969]
◇逝く年と来る年の雲しろたえに今ひとつなる夜空ぞ浄き[1971]
◇兵隊の末の老いたる臑(すね)を撫で腕を撫でつつ年送りせり[1976]
◇たまものの『美の美』を開き晦日(つごもり)の この静夜(しずかよ)を個室にひとり[1977]
◇新年のたたみの上の日かげ追ひ 病みびとわれは臥床(ふしど)を移す[1984?]
◇わが家の門の竹群(たかむら)新年の 風に鳴りをりわが病ひ癒えよ[1984?]
堀之内町・宮柊二記念館の学芸員をしていた森山丈順くんは、その後、歌を詠み始めただろうか、などとふと想い出しました。いつも彼の母上から送っていただく越後の酒、今年の新年会でも皆で頂きましょう。
1193号(12月31日)
■<風の吹くままに・・・>
今年も終わり。皆さん、それぞれにどんな感慨をお持ちでしょうか。ぶんじんは、昨年のギックリ腰の挫折をなんとか乗り越えて、今年は面白い年となりました。「風」も(よく言えば)元気に、別の言い方をすればかなり騒がしく、吹き続けてきました。2月6日に1000号となり、本号で1193号。年間200号というのは、やはり少々吹きすぎ・・・と反省?しています。
年の納めの大晦日にまで吹くこともないだろう、と思いつつ、今年のことは今年中に納めておこうという意識がつい働いて、本号の発信となりました。お許し下さい。お付き合い頂いた皆さんに、あらためて御礼
を申し上げます。さて、新しい年はどうなる?
まったく分かりません。“ふるさときゃらばん”の歌ではないけれど、白い雲のように、♪…それは成り行き風まかせ…♪(ザ結婚) どこかで、ふいっと、吹き止むチャンスを、ひそかにねらっている、正直そんな気分がいつもあります。風を止めれば、そこにまた別の、平安の世界が待っている、もっとのんびりするよ、最近、そんな誘惑の声がどこからか、しきりに聞こえてくるのです。さて、どうなりますか?
いま油山は雨。大晦日に東に帰るのは初めて。正月は東京です。
1192号(12月30日)
■<沖縄の字公民館を訪ねる旅・企画>
2004年1月下旬、沖縄行きの企画がすすんでいます。次のような経過・計画です。関心おありの方、どうぞご一報下さい。
昨年の社会教育研究全国(沖縄)集会に特設された分科会「集落・自治公民館」の論議を継続させようという流れで、今年・夏の岡山集会でも同分科会が設けられました。集落レベルの住民自治、そして地域にねざした集落の公民館、大都市部の“地域”、市民自治的な社会教育活動、そんな視点がくっきりと出て、なかなか面白い分科会でした。報告者のお一人は、今帰仁・古宇利島(区長)の子浜美代子さん。
分科会の世話人集団(岡山・美若、貝塚・松岡、松本・矢久保、横浜・伊東、名護・島袋、東京・小林ぶ等)では、みんなでいちど沖縄を訪ね、字公民館の研究・交流を深めようという課題が話し合われ、宿題となってきました。
先日、岡山の美若忠生さんより、あらためて沖縄訪問計画の具体化について「島袋・小林の二人で日程等を相談してほしい」という連絡がありました。まず第1案として、来年1月26日〜29日(4泊5日)の日程、現地集合、前半は那覇泊まり(南部と中部)、後半は名護泊まり、北部とくに今帰仁村(古宇利島を含む)や名護の字公民館をまわろうという計画が具体化し始めています。
参加者がどの程度になるか、その希望を尊重して具体的なスケジュールを確定していこう、もちろん部分参加あり得る、事務局は美若さん、などなど年末年始をはさんでやや慌ただしい動きです。これから具体化した動きを「風」でお伝えしましょう。
早速、名桜大学・中村誠司さんが(上記のように)今帰仁村の皆さんと協議していただいている様子。受け入れ側のご意向を尊重して対応していきたいと考えています。
中村誠司さん、島袋正敏さん、どうぞよろしくお願いします。
1191号(12月27日)
■<東京の地域史、社会教育を記録する運動を!>
26日は、今年最後のTOAFAEC 研究会、二次会(忘年会)も楽しいひととき。ホームページ・写真をご覧ください。
滋賀県愛知川町から参加していただいたた渡部幹雄さん、ご苦労さまでした。新刊『図書館を遊ぶ』は、朝日を含めて各地の新聞(北海道新聞など)が書評に取り上げ、予想以上?の評価、そしていい売れ行きとか、今年最後をしめくくる私たちのビッグニュースとなりました。
当夜の報告は、どなたか「風」に寄せていただけるでしょうから、それにお任せするとして、皆さんが揃う前に、ぶんじんも前座的にしゃべったことあり、本欄に記録しておくことにします。
11月13日、上福岡・足立邦彦さんの告別式で高木文夫さん(同市史編纂室、現在は歴史民俗資料館勤務)が弔辞を読まれました。そのなかに戦後直後、海外から引揚げた沖縄・奄美の人々が故郷に帰れず、一時期、上福岡に住んだ歴史があり(約400人)、その記録がようやくまとまりつつあること、しかし生前の足立さんには間に合わず、残念だと語られました。
足立さんは、上福岡市史編纂室の初代室長だったのです。戦後直後の資料など残っておらず、海外引揚寮のことがわかったのは数年前のこと。足立さんの助言・協力もあって調査が進められ、高木さんの労作がこのほどようやくまとめられたのです。(同「終戦直後における上福岡など埼玉県内各地の沖縄・奄美海外引揚寮について」上福岡市史研究『きんもくせい』第9号・最終号)
高木さんは先日、足立さんの自宅に行き霊前にこの報告を捧げられたそうです。(「南の風」に書いた足立さん追悼記事も一緒だったとか) 高木さんの報告は、まことに充実した調査で、多くのことを教えられました。上福岡には(わずかの学校記録以外に)何も資料的基礎がないのに、これだけの報告がまとめられたのは、沖縄の市町村史・地域史研究の成果に負うところが大だったようです。地域史は、当該の地域の歴史だけではなく、地域を超えて響きあうものですね。
東京にこのような地道な取り組みが見られない。私は、三多摩を中心に13年ほどの歳月をかけて毎年1冊の社会教育地域史報告書を出してきました(多摩社会教育会館)。しかし知る人は少ない。それが中断を強いられ、サークル的に「東京の社会教育の歩み」研究会に継続させたつもりでしたが、いま、ほとんど動きを失いました。
それだけに今年、ややむきになって、杉並「社会教育を記録する会」の活動に取り組みました。これからどのような展開をみせることになるか。平成大合併が、多くの資料を消失させていこうとする状況のなかで、お互いの横の響きあいの努力を拡げていきたいもの・・・上福岡(そして沖縄)の地域史研究にあらためて励まされる思い・・・そんなことを話しました。
上福岡のことを思いながら、今朝、九州の福岡へ。年末の大掃除を始めています。
1190号(12月25日)
■<「おめでとう けんいちさん」>
前号の続き。羽根木プレーパーク・リーダーハウス壁面の詩。(漢字には「かな」ルビ、略)
「おめでとう けんいちさん おめでとう プレーパーク 言い出してくれた人がいた
耳を貸してくれた人がいた かんがえてくれた人がいた 口を出してくれた人がいた
手を出してくれた人がいた 黙って働いてくれた人がいた 骨身を削って働いてくれた人がいた
風呂に入れなかった人がいた 我が子にご飯を作ってやれなかった人がいた
安いお金で働いてくれた人がいた お金を稼いでくれた人がいた
声を聞き手を出してくれた人がいた 世田谷区があった どの人もみんなバラバラじゃない
子ども達も大人達も 地域の人も世話人もリーダーも 区長さんも部長さんも
課長さんも所長さんも みんなの力があった さあ こんな大事な
子どもの冒険遊び場プレーパーク これからも守っていこうよ 大きく大きく育てていこうよ
ぼくらみんな 大人と子どもと世田谷区の力で もう一度言うよ
バンザイ けんいちさん バンザイ プレーパーク」
1189号(12月23日)
■<羽根木プレーパーク(1)>
誘われて羽根木プレーパーク(世田谷区・梅ヶ丘)へ。京王線井頭線・永福町から二つ目の駅・東松原からも歩いて5〜6分、羽根木公園の一角です。家から30分もかかりません。たまたま二日(12月14日、20日)とも土曜・日曜だったこともあり、子どもたち(だけでなく大人も)の声が賑やかでした。まさに、「…遊ぶ子どもの声聞けば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ…」(梁塵秘抄)ですね。
記録によれば、羽根木プレーパークの歴史は1974年から始まっています。「大村虔一・璋子夫妻、ヨーロッパを訪れ、各地の冒険遊び場を取材。帰国後、そのスライドを地域で紹介する。」
翌年1975年6月、「遊ぼう会」発足。大村夫妻の話に動かされた人々を中心に世田谷区に働きかけ区有地を借りる。正式の開園は1979年、当初は単年度事業として。それからすでに四半世紀が経っていることになります。場と資金は行政(世田谷区)、運営は地域住民が担う方式。(羽根木プレーパークの会編『羽根木プレーパークの20年』1998年)
2001年夏、ハンブルグを訪問した伊藤長和さんが、社会文化センター「モッテ」近くの子ども冒険広場に刺激され、川崎「子ども夢パーク」の構想が具体化されていった歩み(今年夏の開園)に思いを馳せました。
羽根木プレーパーク・リーダーハウスの壁面(掲示板?)には「おめでとう
けんいちさん」の詩が掲げられていました。「けんいちさん」とは大村虔一さんのことでしょう。長くなりますので、次号へ。(写真数葉をホームページ「12月スケジュール・記録」に掲載)
1188号(12月21日)
■<本をつくるということ・・・>
1冊の本をつくるということは、やはり、なかなか大変な作業です。しかし同時に、創造的な仕事であることは明らか、苦労のしがいもあるというもの。
一人で単著をつくる場合は別として(いや単著の場合も含めて)、本づくりをどのように社会的・協同的な作業として拡げながら、世に出していくか、もっと問われていいように思います。
最近は大学関係者間でとくに、競争原理と業績主義が優勢になり、できるだけ密かに非公開で、たこつぼに立てこもるかたちの本づくりの傾向が強いのではないでしょうか。なるべく“敵”に手の内を見せないようにする、競い合いのなかで、いわば抜け駆けの功名をあげる。そういう快感?も理解できないわけではないが、本づくりとは、所詮、自らを世にさらけだすこと、個々の仕事や思想を社会的に公開することなのですから、それを創るプロセスでも、可能な範囲で、まわりに拡げていく工夫が必要ではないか。本は、誰かの業績のためにあるのではなく、世の中のためにある、世に迎えられることによって、結果として業績が現れるわけでしょう。
昔はもっとわいわいと語り合って、本づくりの苦労を共有しあったようにも思います。結果として、本もいい出来映えになること請け合い。
いま私たちが挑戦を始めている韓国社会教育の本づくり、ようやく章・節の構成が固まりつつある段階ですが、果たして成功するかどうか。少しでもいい本に結実するために、編者の伊藤長和さんのご理解も得て、ときに「風」にご紹介し、関心をお持ちの方々のご参加、ご協力と支援をお願いしたいと思うのです。
1187号(12月19日)
■<ガンマーGTP>
肝臓の検査項目で、GOT、GPTと並んで、γ−GPTという数値をご存知ですか?
ご存知ない方は幸せというべきか、はたまた不幸せというべきか、なんとも判断に苦しみますが、私見では、それはもちろん後者ですね。アルコールの楽しみにご縁がない方なのだから。
飲み過ぎの輩は、この数値が高くなります。健康診断・血液検査の数値でもっとも気になるのが、γ−GPT。一喜一憂の毎年。ちなみに標準値(基準範囲)は4〜70。ぶんじんは、これまで30年にわたる人間ドックの記録ではこの数値いつも100を超えていました。200に近くなると、かなりの自覚症状あり(たとえば日常的な吐き気など)、それを超えると、医者によっては入院加療をすすめますね。
1970年代、月刊社会教育編集長をつとめ、そして社全協運動で全国をかけめぐっていた時期、また1980年代、大学で学生部長など管理職で苦労していた頃は、疲労とストレス、また沖縄研究とも重なって、よく飲んでいた。γ−GPTの値がいつも200に近い。当然お酒を控えるべきですが、私の尊敬する主治医が漢方(小柴胡湯)を調合してくれて、「この薬があれば、大丈夫」と妙な診断。飲み続けてきました。だからガンマー数値は変らない。そのうちだんだんと・・・肝臓を痛めて・・などと諦めてきました。ところが・・・なんと!
年末恒例の内視鏡(胃カメラ)に先だっての血液検査。その結果では、今年はじめてガンマー数値が基準値(41)に収まりました。これは驚き! なぜだろう・・・と分析をしつつ、お祝いの乾杯を重ねています。
やはり、ストレスなく、自分のリズムで好きなように動き、美酒少量?を楽しめば、ガンマーは平常値に落ちつくものですね。職業から自由になったいま、若い学生と無理して飲むこともなく、ときに古酒(山原島酒)を愛でるゆとり。お酒からくる肝臓障害は、ある種の職業病だったのかも。しかし、こんな安心からまた楽しく飲めば、きっと来年はもとにかえるでしょう。
1186号(12月17日)
■<福岡にて>
北のオホーツクからの風をいただいたその日、沖縄から見城慶和さんの夜間中学についての講演会ニュース(上記)が届きました。南・北の、遙か離れた地点からの風が相互に吹きあう号は「南の風」としてもっとも嬉しいかたち。(参照・風1181号・見城さん書簡)
そして風・発行人も、いま福岡にいます。昨日、熊本の義兄の訃報が届き、今朝、南に飛びました。通夜の席をパスして、福岡に1泊しています。明日は告別式。
熊本は、わが青春の地の一つ。旧友少なからず。ご存知の宮里六郎もいる(昨年いい本をつくりました)。久しぶりに飲んで語りあいたいところですが、1泊で帰京しなければなりません。福岡にも所用あり、今回、熊本泊は心ならずも断念することになりました。公民館学会の理事会(18日夜)がなければ、数日は滞在したいところ。すまじきものは何とやら・・・。
そのかわり(と言っては申しわけないが)、福岡の夜は山城千秋さん、次に金子満くんを呼び出して、「時雨茶屋」で軽く一杯。突然の電話でお二人には迷惑をかけました。
ところで、オホーツク社会教育研究会20周年記念誌(ようやくの)刊行で思い出したことあり。ずいぶん前に九大に送った原稿がその後はまったく音沙汰なく、すでに1年以上を経過、どうなっているんだろうと思っています。2002年1月に行われた九州大学大学院人間環境学コロキュームの講演記録。もし記録にならないのであれば、原稿は返してほしい。
1185号(12月15日)
■<朝日の顔写真>
12月14日(日)の朝日新聞・読書欄には、渡部幹雄さん(愛知川町立図書館長)の顔写真が大きく掲げられました。「著者に会いたい」と題する詳細な取材記事(上記)。全国紙に顔写真が載るなど滅多にないこと(悪事をはたらいたときは別にして)。小生もこれまで十何冊かの本を出版してきましたが、一度もそんな機会には恵まれませんでした。
そういえば1979年に『社会教育ハンドブック』(エイデル研究所)初版が出たとき、朝日が取り上げてくれましたが、それも小さな記事、まして写真など及びもつかない。今年はいい年になりましたね。
いつぞやの電話のように、こんどは『博物館を遊ぶ』本にもぜひ挑戦してほしい、冗談でなく、ぜひ!
12月定例研究会(26日)には出席していただけるとのこと。新本をめぐる話、そしてこれからの“夢”など、楽しみにしています。あらためて、お祝いの乾杯をしましょう。
1184号(12月13日)
■<「ふるさときゃらばん」20年>
娘の名は「ららら」記事を読んで・・・・“ふるきゃら”の想い出。
ふるさときゃらばんの稽古場は、東京学芸大学と同じ小金井にあります。劇団員となった八朔友二(学大・小林ゼミ)の縁もあって、研究室と劇団は隣り組のお付き合い。ふるきゃらの集いに留学生が餃子をつくったり、恒例四月の研究室・花見の会には、劇団の皆さんがギターをもって参加してくれたりしたものです。ぶんじんはふるきゃら応援団を自任し、研究室で石塚・寺本コンビの劇団の歌をよくうたいました。“ザ結婚”は最近の和光卒業生の結婚式などで、ぶんじんの持ち歌。
統一劇場から脱皮して「ふるさときゃらばん」が創立されるのは、丁度20年前です(1983年)。最初の当たりミュージカル≪親父と嫁さん≫の娘役が上記・祖父江真奈さん、印象的なステージでした。この時からぶんじんは熱烈な真奈フアンとなりました。
英伸三さん撮影『まなのしゃしん』(1988)という写真集があります。劇団はじめての訪中公演の画像も。当時は上海まで48時間の船旅でした。到着の翌早朝、黄浦江ほとりの公園で太極拳を舞う真奈さんの写真が掲げられています。あのとき、中国への仲介は故横山宏さんにお願いしました。そのいきさつなど、いろんな想い出がよぎります。
ちなみに真奈さんの叔父さんは元和光大学教授。叔母さん?は元松本市中央公民館長、主演格の俳優・小田切錦司は和光大学卒。らららちゃんは和光中2年。父親の寺本建雄さん(劇団・音楽担当)が、実に嬉しそうに「らららが和光に入りましたよ!」と語ったことを覚えています。
フォトエッセー「娘の名前はららら」も楽しみ。
1183号(12月11日)
■<東アジア・インターネット>
ちょいと気がむいて「小林文人」を検索したところ、国内の情報に混じって、11月下旬に刊行されたばかりの上海本『当代社区教育新視野』(小林・末本・呉・共編著、上海教育出版社)が、いち早くネット上にアップされていることを発見。
とくにGoogle が面白い。海を越えて、東アジアの情報を積極的に拾い出してくれますね。上海教育出版社・世紀集団発行センターはもちろん、「教育頻道」(アマゾン?)など。
上海図書館で開催された11月22日の出版祝賀・講演会についても、上海市当局の公式ホームページに記載されていますし、湖南街道の区も詳細な記事をアップしています。先日の風(1176号)でご紹介した閘北区社区大学・行建職業学院ホームページにも小林記事が。
台湾については、前に訪問したことがある台北市士林区社区大学と台湾師範大学で行われた「中日終身教育學術研討會」記録など。
東アジアの海にようやく何かが動き始めたような感じもあり、ひとときの感慨をおぼえました。しかし、韓国に関しては1件もなし。
1182号(12月9日)
■<魯在化in NY>
韓国本・編集の動きのなかで、ソウルの金済泰氏(牧師ニム)からニューヨークの魯在化氏(博士ニム)へ連絡をとっていただいたようです。当初は、なかなか連絡がとれない、メールを送っても返信がない、とのことでしたが、昨日、小生宅に突然ニューヨークから電話あり。ようやく接触できたのです。
いまパソコンが不調であること、日本語での送受信が出来ない、金済泰さんから本づくりの話を聞いた、もちろん協力したい、という元気な声でした。来年3月から韓国の大学に復帰する予定、ただ国を離れてすでに3年が経過し、いろいろ不安もある、期待に応えられるかどうか。
来年2月、韓国へ帰る途中に「日本に立ち寄る」約束をしました。南の風の皆さんにどうぞよろしく伝えてほしいとのこと。
魯くんは東京学芸大学・院(修士)修了後、一橋大学・院(博士)へ。ドクター取得。韓国・聖潔大学校にポストを得て、私たちの韓国研究・交流の貴重な架け橋の役割を果たしてきた人。社会教育学会の年報(第44集)や「東アジア社会教育研究」(創刊号、編集委員)に執筆し、上海・華東師範大学との共同研究の旅(1998年)に参加したこともあります。こんどの本づくり企画についても、彼が韓国を離れているので淋しい思いをしてきました。
3人のお子さんのことを聞いたところ、皆さんアメリカで元気。その後、お子さんは突然「6人に増えた」そうです。その謎解きは次回再会の折り、あと一度よく確かめて紹介することにしましょう。
1181号(12月7日)
■<お互い“夢”を語ろう!>
12月定例研究会はどうする? 最初の案では、沖縄をテーマにして忘年会をしよう、東洋大学・比嘉佑典さんの面白い本(沖縄チャンプルー文化創造論)が出版されたからお出で頂いてお祝いをしよう、そんな案でした。ところが風1169号でご紹介したように、比嘉さんは年末は日程的に無理(沖縄へ帰島)、一月定例会(1月30日予定)に延期してほしいとのこと。沖縄案は来年冒頭のプログラムとなります。
・・・というわけで、プログラムが空いた12月研究会(26日、別途案内予定)はどうしますか。来年に向けてみんなで自由放談、あえて言えば“夢”を語るような会にしてはどうでしょうか?
たとえば上海のこと、沖縄のこと、韓国本の夢、台湾研究、あるいは第9号編集の構想、東京のこと、今後のTOAFAECの方向、東アジア研究ネットワーク、などなど。早いものがち。皆さんが遠慮がちであれば、ぶんじんが一人でしゃべる?(それはやめたがいい!)。なかでも真正面からNPOに取り組んでいる江頭晃子さんの「アンティ多摩」(第8号・所収)のいま、そしてこれから、を聞きたい。どんな夢を抱いていますか?
かねてからのラブコールです。
厳しい時代だからこそ、いま、お互いに少し奔放に“夢”を語る必要があるのではないでしょうか。
1180号(12月5日)
■<上海本の写真をHPへ>
さきほど上海で出版された新本をあらためて写真に撮って、ホームページに載せました。先号のこの欄でも書いたように、今回の上海訪問の画像は同行の矢久保さん(松本)からたくさん送って頂きましたが、各1枚の容量が大きく、HP掲載には不向き。いい写真もたくさんあるのですが・・・。
あわせて(もう年末ですから)2003年度の中国関係(上海・烟台)のHP記録を少し整理しておきました。烟台の学校開校など、今年もいろいろあったなぁ、と思いながら。お暇の折りにご覧下さい。
もしこの記事は控えるべきだとか、こんな記録を載せておいてはどうかなどとご意見を頂ければ幸い。また掲載の写真についても、とくに親しい方については(上海「歌う伊藤長和さん」や「日中友好の乾杯」の矢久保さんなど)、その都度ご了承を得ないままのアップもあり、あるいは肖像権侵害の誹り?を受けるかも。どうぞご遠慮なくご指摘をお願いします。事後承認を得ているつもり。
1179号(12月3日)
■<宮城与徳生誕百年記念・名護>
名護より上記「宮城与徳とその時代を語る」案内が送られてきました。11月2日〜6日に作品展示会、6日に講演会(比屋根照夫・琉球大学教授)とフォーラム、が開かれるとのこと。会場はいずれも名護市立中央図書館(宮城与徳生誕百年を記念する会)。
2000年春「徳田球一」記念事業に引き続く、名護の皆さんの果敢な取り組み。敬服です。以下、ちらしからの抜粋。
「ことしは、宮城与徳(1903〜1943)が名護市の東江に生まれて100年、連座したゾルゲ事件で獄死して60年の節目の年です。
…略… この名護市で宮城与徳の生誕100年の年に“与徳を思い出し、与徳を語る”ことは、ゾルゲ事件にとどまりません。彼は画家を志して青年時代アメリカに移住しました。1925年サンディエゴ美術学校をクラスの最優等生で卒業しました。まわりには沖縄出身の青年をはじめ、時代・社会・文化・人間を熱っぽく語り合う多くの仲間がいました。熱い恋もしました。1920〜30年代はアメリカも日本も世界も時代と社会が大きくかわるときでした。そのなかで宮城与徳は社会運動に参加し、日本に来ました。亡くなる40歳まで、彼はアメリカでも日本でも多くの絵を描きました。日本でも絵を売って収入を得ていました。「未完の画家」におわりましたが、残されている数少ない作品を見ても、名護市が生んだ稀有な画家です。…以下、略…」
6日に行われる講演会とフォーラム、馳せ参じたいところですが(徳田球一記念事業には内田純一君と参加しましたが・・・)、中国から帰ったばかり、他用もあり、残念です。はるかに盛会を祈ります。
追記:矢久保さんから上海の写真(CD)をたくさん送っていただきました。さきほど届きました。有り難うございました。
1178号(12月1日)
■<帰国しました。HPに画像アップ>
29日夜、烟台より青島を経て、予定通り帰国しました。日本(東京)は暖かいところだと再認識。帰宅の途中に、なじみの「浜寿司」に寄って久しぶりに日本の味で一杯。お世話になった上海、烟台の皆様、いろいろと有り難うございました。あらためて御礼を申しあげます。
昨夜から今朝にかけて、たまっていたファイルと画像をHPにアップしました。ご覧ください。今回の上海訪問では、松本の矢久保さんがかなりの記録を撮ってくれました(と思っている)ので、小生のデジカメの枚数は少なく、そのなかから8枚ほどを選んで載せました。もし訪中関係者で、お好きでない肖像があれば、ご一報下さい。直ちに差し替えます。ついでにHP表紙の写真も深秋の景色に変えました。
今回とくに嬉しかったのは、上海市閘北区・社区大学の「ぶんじん文庫」に川崎、松本の地域・最新資料を寄贈して頂いたこと。重い資料を空路ご持参下さった伊藤長和さん、矢久保学さんに感謝いたします。日本語を読める人は少ないけれど、関心をもつ人少なからず、上海の皆さんたちも大いに興味をもって頂いているようです。歳月を重ねつつ、少しずつ充実した資料室に育てあげて、日本社会教育の最先端コーナーを創っていきたいもの。
1177号(11月29日)
■<黄先生の烟台訪問>
当方(小林と張林新)は27日にお待ちします、と伝えたのですが、黄先生は待てない感じで、26日午後の高速バスで烟台に現れました。3時間あまりのバス旅行だった由。学校の日本人教師(工藤君たち)を交えて、思いがけない日・韓・中による歓迎夕食会。食後は自習室の一室で、若い学生たちとの交流も。楽しいひとときでした。
27日は学校を一まわり。後ろに山、前に海の景観、元気よく(日本語で)挨拶する若者たちの声、家族学校のような雰囲気、黄先生はいたく気に入ったようでした。教室にも参加。
その後、車で烟台市内を一巡り。経済開発区等のいま急速に発展中(日本企業五百社あまり、韓国企業千社あまり)の様子に驚いた様子。昼食は文化大革命時代を思わせる「社会主義・新農村」。この飯店では「為人民服務」の腕章をまいた紅衛兵のような店員が、客を「同志」と呼び、当時の農村の食生活(野菜・芋・饅頭など)に逆もどりしたような料理で、いささか混乱、しかしなかなか美味でした。
この間に韓国本のミニ編集会議も。先日の川崎の編集会議で出た方向はすべて金済泰さんに伝えて、交渉が進んでいるとのこと。金さんは川崎からの資料送付(編集会議資料も含めて)を待っている、それをベースに韓国側の執筆体制を整えたい。アメリカの魯在化にはメールを送っているがまだ返事がない、識字教育運動はやはり(金済泰さんでなく)尹福南さんにお願いすることになろう、などなど。
「タゴール研究」が入手できないままに送付が遅れた経過を説明しておきました。タゴールは次の機会にして、まずは黄先生が託された資料・書籍を金牧師にお送り下さいませんか>伊藤長和さんへお願い。
烟台はあたかも雪が舞ってきそうな、寒いどんより曇った毎日でしたが、今日はいくぶん寒さも和らぎました。
1176号(11月27日)
■<ホームページの更新>
TOAFAEC のHPは、技巧的にはまったく拙劣ながら、ひとつ自慢できるところは1〜2日おきの更新。表紙の日付をご覧あれ。
ところが上海に渡った20日以降、FTPのアップ作業がうまく働かず、この1週間は、HP更新作業が停止しています。「南の風」末尾記事「ぶんじん日誌」も20日のまま。申し訳ありません。帰国したら誰かに教えてもらって、直ちに修復作業をしなければと思っています。
HPといえば、ここ1両年、中国のIT環境が急速に整備されていることに驚きます。上海滞在の最終日(24日)、訪問した閘北区・社区大学(行建職業学院)も立派なHPが出来上がっていました。→
URL: http://www.shxj.net
聞けば学生が制作したのだそうです。きわめて専門的、ほとんど玄人。図書館の頁に「中日文化交流中心」、また国際交流の頁には「日本教授・小林文人資助社区教育閲覧室」の記載があり、小生の写真も。
また社区大学(コミュニティ・カレッジ)として閘北区の社区教育研究センター、市民学習センターの動きが掲載(管理機構の頁)されています。閘北区の社区教育のホームページとも言えましょう。黄丹青さんに訳していただいて、TOAFAEC
のHPで紹介したいもの。
・・・と書いたところで、ウエイバンから黄宗建さんが烟台に到着されるという連絡が入りました。思いもかけない再会。以下は次号で。
1175号(11月26日)
■<上海から烟台へ>
上海から烟台(山東省)への空の旅は、いつもいろいろと話題が残ります。先回は上海・虹橋空港まで送ってもらって、上海・浦東空港からの便であることを知らされ唖然!移動に1時間以上かかりますから、もちろん乗り遅れ。なんとか別の便に切り替え、半日遅れやっとの思いで烟台に着いたのでした。(昨年3月)
今回(25日)は、空港を確認し羅李争に送ってもらって無事に虹橋空港から出発できるかと思ったのもつかの間、手荷物の中国酒をとがめられ、また外に出されてパックに詰め直し、荷物として預けなければなりませんでした。中国では酒(瓶)類の機内持ち込みは認めないのです。パック料として25元。その上、かんじんの飛行機は機材整備不良?とかで3時間の遅れ。烟台に到着したのは午後3時近く。やれやれ、でした。迎えの張林新・校長の顔を見て一安心。
この夜、学校の主要メンバーが集まって夕食会。苦労して上海より持参した名酒をみんなで飲みました。この夏、東京から赴任した工藤千佳良君(和光大学・小林ゼミ卒)とも久しぶりの乾杯。歌もうたいました。
早速、ウエイバン(山東省)滞在中の黄宗建さんと電話。烟台に来たいとのこと。こちらからは(黄さんの方が先輩だから)ウエイバンへ表敬訪問しましょうと挨拶しましたが、来て頂くことになりそうです。ウエイバンから烟台まで列車で4〜5時間。日帰りは無理か?
お泊まりの部屋(新景賓館)を用意しよう、烟台をご案内する車の手配など、張林新・校長にお願いしたところです。山東省での二人の再会、思いがけない展開に。
烟台はさすがに上海より寒い。明日の気温次第ではコートを買おうかと思っています。
1174号(11月25日)
■<湖水に舟を浮かべて・・・>
上記・伊藤長和さんの呉遵民氏あてメールは「風」にも届きましたので、ここに収録させていただきました。凝縮したスケジュール、お互い疲れもあったかと思いますが、振り返って楽しい旅だったと思います。他の皆さんも元気に帰着されたことでしょう。小生は25日午後に山東省・烟台に到着の予定。出発前わずかの時間、これを書いています。
この3日間、いろんなことあり、詳細はとても無理。先号以降の主要な経過だけ記録しておくことにします。
22日午前、出版祝賀・報告会。午後は、変貌極まりない浦東新区へ。上鋼新村街道社区教育センター訪問。歓迎の楽隊に迎えられ、各室の活動を見学する。豪勢な(上海蟹など)夕食をいただく。食べきれない。
夜、上海大劇場へ。アルゼンチン・タンゴ・ミュジカルの熱演。しかし2階脇の特別席からは舞台の全貌が見えず(劇場設計ミスか?)。
23日は昆山市錦渓鎮への観光。千年の歴史と文化の古い水郷、生活まるごとの風景は興味深いが、なんとしても水の汚れが気になる。魚貝と野菜づくしの食事のあと、湖水に舟を浮かべて、ゆらゆらのひととき。
午後4時ちかく上海市内に帰り、上海教育出版社を訪問。南京路をへて答礼宴へ。上海の皆さん(なかでも呉遵民さん)に深い感謝。
24日(小林のみ)羅李争くんと閘北区社区学院へ。学長など“老朋友”に本を贈呈。区政府・教育局長などと歓談。江蕾さん(成人・社区教育科長)と次回の講演の約束をする。夜は張・朱榴芳夫妻と会食。到着日はそぼふる小雨の夜、しかし、その後はすべて晴天でした。
1173号(11月24日)
■<上海の「樽酒」、大成功!>
『現代社区教育の展望』(小林文人・末本誠・呉遵民・共著)の出版祝賀会に、日本より何か記念の品を持参したい、何がいいだろうと相談したところ、黄丹青さんからいくつか案が出て、うちの富実さんとも一緒に“薦被りの樽酒”がいいだろうということになりました。
他の土産品を用意する必要もあり、久しぶりに夫婦で買物に都心を歩きましたが、樽酒はどこにもない。いま東京ではすぐには入手できないことが分かりました。注文して1週間ほどかかると。上海への出発を前にして、また翌日、足を棒にして探しまわりましたが、ない!
思いついて、同行の松本・矢久保学さんに電話。信州の銘酒「真澄」の2升ものを仕入れてもらって、成田まで運びこぶという経過になりました。何しろ割れもの、重い手荷物で飛行機に持ち込み、そして当日の出版祝賀会場の壇上を飾ったという次第。
講演・報告(どうにか無事に終了)のあと、同じステージに新本と酒樽を真正面に据えて、鏡開きの思いで日中双方が酒を汲みあいました。上海・成人教育「領導」たちと出版社の首脳が並び、日本から駆けつけた一行とともに、15名前後がコップ酒で「乾杯!」。印象的な一ときとなりました。
昼食宴でも「真澄」の乾杯が続きました。この本のきっかけをつくり、刊行までこぎつけたキーパースンは副編集局長(出版社・党書記)の袁正守さん。食事の合い間に出版報告会の感想を聞いたところ、想像以上の大成功、とくに中国と日本の関係者がともに酒を汲みかわした情景がしみじみ心に残ったとのこと。“美酒”とはまさにこのような酒を言うのでしょうか。
1172号(11月22日)
■<上海の友人たち>
11月21日午前、羅李争さんに案内してもらって、閘北区社区大学図書館「小林国際交流閲覧室」へ。川崎(伊藤長和さん)・松本(矢久保学さん)からそれぞれの自治体資料を持参・寄贈していただきました。少しずつ日本・社会教育の新しい動きを集めて、資料室としても拡充していきたいもの。迎えていただいた王鴻業(学長)、袁允偉(副学長)、徐熾強(党書記)等の“老朋友”の皆さんも元気そうでした。
午後、明日の出版祝賀会・報告会に用意した(三多摩や松本の)CDテストのために会場(上海図書館4F・多目的ホール)へ。若い人たちが、5,6人つきあってくれて無事終了。大丈夫のようですが、壇上で話
しをしながらのパソコン操作がうまくいくかどうか、いま一つ自信がありません。
日もとっぷり暮れて、関西(末本誠、美若忠生など)や九州(上野景三)の皆さんが到着。盛大な出版祝賀宴。中日双方からの歌の応酬。これは中国の宴会としては珍しいこと。小生はいつもの「大海阿、故郷」。22日の講演のことがあり、この夜、これも珍しくお酒を慎みました。
1171号(11月21日)
■<上海はそぼふる雨>
成田からの4人(小林文人、伊藤長和、矢久保学、小松宏明)は予定より少し遅れて、上海・浦東空港に到着。上海教育出版社の車で、呉遵民さんが迎えてくれました。嬉しい再会!
驚くほどの立派な本が出来上がっていました。新しい本が出来上がると、愛し子のように、胸に抱きかかえたくなるもの。とくに今度の本は中国での(中国語による)出版、ホテルの部屋で飽かずページをめくっています。眠れそうにありません。
上海の最初の夜、夕食から帰ったら、羅李争さんがホテルに待っていてくれて、パソコンを開き、直ちに風の送信を可能にしてくれた。もつべきものは“パソコン師匠”。感謝!
雨の上海、時差1時間、いま丁度(21日)午前零時です。上海からの「風」が皆さんのパソコンに安着することを祈って。
1170号(11月20日)
■<再び上海・烟台へ>
「風」前号・比嘉さんのハガキはご丁寧に封書に入っていました。一緒に比嘉さんを取り上げた最近の新聞記事コピーが同封されていて、それぞれ面白い。上記の沖縄タイムス記事もその一つ。その風貌(写真・略)、人柄を彷彿とさせるところあり、ご紹介に及びました。
いつもの通り、タイムスHPから採ろうと思って「過去の記事」欄をずいぶんと探したのですが、見つからず(探し方が悪い?)。中国行きの前夜、時間もないのに、手書き入力。こんなことめったにない・・・と、比嘉さんには次回会ったとき恩をきせましょう。
今回の上海行きは20日出発、2ヶ月半ぶり。小林のみ烟台へ足をのばします(29日帰国)。同行の皆さんは、末本(神戸)、伊藤(川崎)、矢久保(松本)、上野(佐賀)、美若(岡山)など総勢9人。楽しい旅になりそう。スケジュール等はTOAFAEC・HPに掲載しました。
中国には小さなパソコンを持参いたします。上海(そして烟台)から「風」を吹くことができるかどうか、中国行きに際してはいつも心配です。私の上海でのパソコン師匠は、驚くなかれ哲学者の羅李争さん。ホテルから送受信がうまくいくかどうか、羅くん、またどうぞよろしく。
成田からの先着4名は閘北区社区学院「小林国際交流閲覧室」(通称・ぶんじん文庫)にも行く予定(21日)。
呉遵民さんにもいろいろとお世話になることでしょう。新しい本も楽しみ。どんな反響を呼ぶか。中日双方にとって、これからの研究交流の大きなステップになってほしいもの。
追記:「東アジア社会教育研究」第8号、上海の呉遵民さんはじめ出版社や華東師範大学等へ持参します。重いよ!
この間、沖縄の関係者に運んだり送ったり、すでに「風の部屋」の第8号在庫はほとんどなくなりました。
1169号(11月19日)
■<比嘉佑典さんからのハガキ、12月研究会>
比嘉佑典さん(東洋大学教授、同大学アジア文化研究所長)に、12月TOAFAEC定例研究会(忘年会)に久しぶりにお出でいただけないか、というお願いを差し上げていたところ、次のような返事が来ました。
「この節は、私のつたない著書(「沖縄チャンプルー文化創造論」)をPRいただき、ありがとうございました。
12月26日忘年会のお誘い嬉しく思います。お話したいこともいろいろありますが、この12月23日に恒例「沖縄子ども文化フェスティバル」があり、私のNPO沖縄児童文化福祉協会も参加しており、当日前に帰島する予定です。
1月下旬〜2月上旬に、中村保氏もさそって、研究会をもっていただけないでしょうか。私は来年1年間、国内研修で沖縄(名桜大学)に行くことになりました。」
11月定例研究会は(中国滞在のため)欠席です。比嘉さんのお話は1月研究会にお願いするとして、12月研究会をどのようなプログラムにするか、皆さんで企画を進めて下さい。
1168号(11月18日)
■<奄美社会教育史の研究>
戦後沖縄とともにアメリカ占領下に分離された奄美が日本に復帰して今年は50年目。上記・記事のように名瀬では記念の式が開かれました。
私たちの沖縄研究の旅は、宮古や八重山に渡り、さらに海を北上して奄美を集中的に調査した数年があります。1980年代の前半、戦後沖縄社会教育研究会(東京学芸大学、TOAFAECの前身)と称していたころです。その成果は、同研究会編『沖縄社会教育史料−戦後奄美の社会教育』(第4集、1982年)としてまとめられています。ちなみに「宮古・八重山」研究は同第6集(1986年)。
知る人ぞ知る労作。歳月が経過すればするほど光を放つ珠玉の1冊、といえば言い過ぎでしょうか。まだ残部あり(和光大学・岩本研究室)、今のうちですよ!
奄美調査の数年は貴重な経験となりました。南西諸島の島々を残らず踏査しようという悲願も奄美の旅からです。いまなお挑戦中。
沖縄研究のほぼ10年の成果として、ご存知『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究』(エイデル研究所、1988年)が公刊されますが、その中で奄美のテーマに挑戦したのは古賀皓生・上野景三の二人でした。「占領下奄美における社会教育の展開過程」のテーマは“戦後日本社会教育史における奄美の発見”という視点から書き始められています。いい論文です。それからもすでに15年余が経過しました。
1167号(11月17日)
■<日本公民館学会・臨時総会>
11月15日は日本公民館学会の臨時総会そして第2回研究大会(シンポジウム)。遠くからご参加の方々、名簿を用意された日本大学の浅野平八先生、学会事務局の中央大学研究室の皆さん(いずれも南の風メンバー)、たいへんお疲れさまでした。内容・課題がぎっしりつまった刺激的なシンポジウムだったと思います。
当日、迂闊にも時間を読み違えて昼食をする暇なく、空き腹に飲んだ懇親会のビール、美味しかったのですが、たわいもなく酔っぱらってしまい(いつものことか)、少々ふらふらしながら帰宅しました。宴もたけなわ、妙なことをしゃべったような記憶?もあり、当夜の夢見もよくありませんでした。自重・自戒すべきこと。ところで懇親会の会計はうまくいったのでしょうか、と気になっています。
16日は日本企業誘致のため来日中の中国・烟台市の市長一行と会いました(グランドホテル)。昼食を誘われましたが遠慮して、天気もよし、三多摩各(国分寺、国立、昭島)公民館の写真を撮りに歩きました。上海講演の準備のためです。内田純一さんから送ってもらったものもありますが、あと少し補充した方がいいかな、と思ってのこと。50枚ほど撮りました。帰ったら、松本の矢久保学さんからも公民館・福祉ひろばの大量の画像が到着していました。有り難うございました。
さて、上海でこれらをどう活用するか、機器的に大丈夫か、CDに入れて持っていけばなんとかなるかな、などと次の心配をしています。
1166号(11月14日)
■<13日・足立邦彦さんの告別式>
足立さん、享年59才。
今年の1月、検査入院で肺ガンだと分かったそうです。しかし、手術が難しいという診断があり、それから10ヶ月あまりの闘病生活が続いたことになります。親しい間柄なのに全く知らず、お見舞いもしなかったことを奥さんにお詫びしました。迂闊でした。あまり知らせないようにというご本人の意思もあったそうですが。
告別式は、足立さんが好きだった沖縄の調べ「なだそうそう」「しまうた」「はな」等のエレクトーン演奏がしめやかに流れるなか、執り行われました。会場のあちこちですすり泣き、やまず。
上福岡市役所や職員労働組合の花輪に並んで、北星余市高校(教員有志、PTA・OB)、東上線沿線「月刊社会教育を読む会」、沖縄てぇげぇの会、海勢頭豊、モンゴル語の仲間、等々の美しい花々に囲まれての別れの式でした。
5年(どころではない)10年ぶりの懐かしい顔々と久しぶりに会いましたが、こういう機会の再会は悲しいものです。上福岡や周辺の仲間の皆さんで、足立さんを偲ぶ会などの企画を期待しています。
1165号(11月12日)
■<足立邦彦さん逝く!>
足立さんの訃報がとどいたのは11日朝。鶴ヶ島の平井教子さんから。土井悦子さんからも追っかけて電話あり。まだ59歳の現職、まことに残念です。いろんな意味で、むしろこれから本格的な活躍が期待される人だったのに、と思います。
早稲田を出て埼玉・上福岡に就職。入間地区の社会教育・公民館の創成期を担った人でした。上福岡市(当時はまだ町?)にようやくバラック建の公民館が動き始めた頃から、社会教育主事として文字通り格闘されてきました。
当時、三多摩では「新しい公民館像をめざして」を発表した経過もあり、数えることが出来ないほど、上福岡や富士見等に呼ばれて公民館の話をした経過があります。1975年前後の出会いでしょうか。それからすでに四半世紀以上の歳月が過ぎています。長い付き合いをさせて頂きました。
10才あまりの違いがありますが、なぜか気の合うところがありました。私たちが沖縄研究への道を歩き始めたころ、強く感性的に、興味を示してくれました。講演会で沖縄の話を求め、その年末の休み(おそらく1977年末)に自ら沖縄に飛び、はじめてパピリオン・海勢頭豊とも出会い、私たちの学芸大学・沖縄研究会で、朗々と「琉球賛歌」を歌いあげたものです。
その後は、強度の沖縄病。上福岡や富士見の皆さんと沖縄の会をつくり、毎年といってよいほど沖縄に出かけ、ぶんじんゼミのライバルでした。最近では、北島角子の一人芝居、大田昌秀の講演会、海勢頭コンサート等を地元で成功させてきました。仕事上では社会教育のポストからはずされ?それが逆に驚くほどのエネルギーを生み出してきたのかもしれません。思い出はつきず。
天は無情、あの元気な足立さんも病に倒れてしまいました。やりたい仕事、さまざまの想い、たくさんの夢、を残していたに違いありません。
残念無念です。合掌!
本号は、足立さんの訃報が届きましので、急ぎ作りました。足立さんの病気のことは、実は東京では知りませんでした。3月の那覇、パピリオンで海勢頭豊さんから「足立さんが休んでいるそうですね」と聞きました。もともと元気な人だ、たいしたことではないだろう、そのうち誰かに様子を聞いてみよう、などと思っているうちに、突然の訃報でした。電話で知らせていただく方々も皆さん悲しそう、思わず涙声もあり。足立さんの冥福を祈るのみ。
1164号(11月11日)
■<杉並公民館50年の集い「公民館を語ろうよ」>
10日午後・杉並の集い(座談会)は、思いのほか集まりがよくなく、関係者をがっかりさせました。別の行事と重なったこと、冷たく降り始めた雨、理由はいくつかあるようですが、このような市民手づくりの企画も、あと一つ、みんな(とくに若い世代)に広がっていないのです。
原水禁運動を含む展示のかずかず、当日発行の杉並公民館50年・資料集『学びて生きる』(実費500円)も、内容的に貴重なものを含んでいるだけに、もっと多くの人たちの目にふれてほしいもの。
終わっての懇親会では「園田教子という人に会いたい」という声あり。かっての『歴史の大河は流れ続ける』編集のなかに登場する氏名に注目していた人がいたのですね。『学びて生きる』はお送りします。
ご参加下さった奥田泰弘さんや近藤恵美子さん、最後まで残って頂いた手打明敏さん、有り難うございました。
当日の展示グループの一つ「草の実」。大きな掛け軸に歌一首。
「徴兵は命かけても阻むべし はは祖母おみな牢に満つるとも」(石井桃代さん詠・朝日歌壇) その横に「私たちは総会のたびに、この軸を掲げ、“反戦平和”の誓いを続けています」との添え書きあり。
1163号(11月9日)
■<杉並・安井郁・公民館構想>
11月10日「杉並公民館50年」記念の集い「公民館を語ろうよ」(前号・既報)に話を求められています。昨夜はあらためて安井郁(当時)館長の論文や「杉の子」会の記録を読み直しています。原水爆禁止署名運動の初期の段階において、人々の反核への思いがどんなに(党派的でなく)素朴で純なものであったか、そこに杉並公民館がどのように関わったか、公民館初期の文部省「寺中構想」とは異なる杉並の公民館「安井構想」をどのように把握するか。
そういえば杉並「安井構想」は、園田(現姓・平井、鶴ヶ島市教委)教子さんが追求したテーマでした。今や稀少本となった『歴史の大河は流れ続ける』(全4集)の頁をめくっていくと、「公民教養講座」「関連年表」や証言の記録づくりに園田さんのなみなみならぬ努力があったことを再発見しています。
安井郁館長(法政大学教授、第五福竜丸被爆をきっかけに原水爆禁止杉並協議会議長、更に原水爆禁止日本協議会<初代>理事長を兼ねる)の活動を通して、社会教育法の公民館関連条項(例えば第20条、22条など)を読むと、法の規定が別の新鮮な響きをもって迫ってきます。たとえば「各種の団体、機関等の連絡を図ること」(22条5項)の杉並での実像は、多くの農村的土着的な公民館とは異なって、原水禁運動の胎動へ向けての「連絡」でした。独自の展開があざやか。
当時の公民館長室(「雨ニモマケズ・・・」の額が掲げられていた)は、杉並の原水禁署名運動の文字通り事務局だったのです。各種「団体、機関」関係者が相集いました。杉並だけでなく全国協議会に拡大しても杉並公民館が拠点となりました。原水禁「全国ニュース」第1号は,「杉並公民館内・原水爆禁止署名運動全国協議会」として発行されています。
1162号(11月7日)
■<伊東秀明さん(横浜)の「メールマナビン」>
今年1月、かっての「公民館の風」に“ペリーの黒船”のようだという感想を寄せていただいた伊東秀明さん、その後も独自の「メールマナビン」(「学ばんとほっす」人たちのためのメールマガジン)を発行され現在84号(風・前号に紹介)。毎号送っていただいています。なかなか面白く、いつも大都市の社会教育のあり方に貴重な問題提起を含んでいるように思いながら、目を通しています。
たとえば、84号は「地域健康講座」の呼びかけ、主催はなんと杉田貝塚という町内会、そして中学校コミュニティハウス。大都市型の事業は、とかく大きなセンター的施設が何か格好のいい講座を企画して広域の市民を呼び集めるかたちが多い。個々の市民が集まり、しかし終わればバラバラに散っていく。それもそれなりに意味があるでしょうが、地域の横のつながりには結びつかない、なかなか積み重ねにもならない。
伊東さんの仕事ぶりは、地域へのまなざしが印象的。地域に呼びかけながら、地域の動きに寄り添いながら、市民の横のネットワークを大事にされているように思います。きっとご苦労も多いのでしょうが、積み重ねのなかで、市民のエネルギーなり地域の活力となっていくはず。
風・前号に掲載させていただいた御礼(事後了承で申し訳ない・・)にもなりませんが、「公民館」ならぬ「南の風」をお送りしたところ、「風への掲載はとても はげみ になります。これからも掲載していただけるような実践を手がけたいと思います。南の風是非ともお送りください。我が家はにょうぼも沖縄ファンになりました。」とのメールを頂きました(Wed,
5 Nov 2003 18:38)。
1161号(11月5日)
■<日本の古本屋さん>
前号の江頭メールに引き続き、近藤さんからの「日本の古本屋さん」の情報、有り難うございました。『タゴール著作集』(第三文明社)全12巻セット55000
円では残念ながら高額に過ぎますので、前号に書いたように、同別巻「タゴール研究」1冊にしぼって、早速これを「かごに入れる」ことにしました。アマゾンで検索した新本価格・8500円が古本では5000円、助かりました。黄先生に届けたいと思います。
*前号・ぶんじん日誌(末尾記事)黄先生に関する記事8行目、タゴール著作集「別館」は、
「別巻」の変換ミスです。
ついでに自分の本を調べたところ、ほとんど見かけない絶版の『社教育法成立過程資料集成』が案外と古本市場に出ていることを発見。しかし、同じくかねて買い戻し運動?中の『公民館史資料集成』や『民衆と社会教育(沖縄研究)』等は1冊も見当らず。
上野英信『眉屋私記』は1冊も検索にひっかかりませんでした。古本屋を足で歩いて入手したこの稀少本を特別に譲ってくれた比嘉久(名護市教育委員会、名護市屋部区出身)の好意を今あらためてかみしめているところです。
もともと本号は、冒頭の横浜「メールマナビン」をご紹介して、ひとことコメントを書くつもりでしたが、また長くなりますので、次号にまわします。
1160号(11月3日)
■<タゴール詩集・黄宗建訳『天の笛』(2003年1月、235頁)>
黄先生と久しぶりに再会して驚いたのは、インドのタゴール詩集の訳本(ハングル版)をいただいたことです。「韓国社会教育研究の場から離れて今は歴史と文学の世界」とくに「タゴール研究」に没頭している、タゴールについての日本語訳・文献(森本達雄氏などの研究)を探したい、そんなお話でした。それが上記・江頭メールの背景。
あの日、早速『タゴール著作集』について調べていただくよう山口真理子さん(調布市立図書館)にお願いしました。すぐに返事を頂き、翌日(31日)早朝、同著作集・別巻「タゴール研究」(1993年、826頁)を拙宅に届けていただきました。これにも驚きました。31日編集会議にこの本を持参し「必要部分をコピーしますよ」と言ったところ、「全部ほしい」とのこと。図書館所蔵の本を韓国に持って帰られては困りますから、「古本で探しましょう」と納得してもらったという経過です。「まだ市販されている」(江頭メール)ようであれば、黄先生に代わってぜひ入手したい。どうぞよろしくお願いします。
ところで本号冒頭の「沖縄・集落活動と字誌」に関する国際シンポについては、8月頃から末本誠氏(神戸大学)を中心に準備が進められてきたものです。とくに「風」への投稿はなく、関係者のみのMLでしたから、掲載を控えてきましたが、昨日、ようやく郵送で国際シンポ・パンフレットが届きました。記録として転載させていただいた次第。ご了承下さい。当日(実は本日)の模様など、どなたか短信風に送っていただければ幸甚です。
1159号(11月1日)
■<黄先生の来日、1日早めて帰国>
黄先生は前号・ぶんじん日誌の通り、10月30日に成田へ到着。予定通り江頭晃子さんの車で、海ホタル経由で川崎へ。久しぶりの再会でした。たいへんお元気、この日はつもる話がつきず、お互いにやや興奮気味に語りあいました。
ところが翌31日朝は体調がよくなく、ご希望により(大事をとって)帰国を1日早め、11月1日午後のソウル便で帰国の途につかれました。実質わずか2日間の滞在。1日夜予定の大歓迎会(東京)は残念ながら中止。出席予定の皆様方へ、くれぐれもよろしく、とのことでした。
残されたわずかな時間、それだけに31日午後の韓国本・編集会議は集中した協議となり、その後の編集委員による歓迎会(川崎)も大いに盛り上がりました。伊藤長和さんが用意した葛根湯やバッフアリンが見事に効いたらしい。お互いに久しぶりに歌いあい、最後のところでは黄先生の独壇場、「もう風邪は直った!」とのご託宣、これには恐れ入りました。時すでに遅く、ホテルも飛行機もすでにキャンセル済み。
さきほど見送って帰宅したところに、成田より電話あり、伊藤さんが確保した便への振り替えもすべてうまくいったそうです。台風一過の如き2日間でした。
福岡から参加の金子満、名古屋からの李正連のお二人をはじめ、ご心労をおかけした江頭晃子さんなど、ご参集の皆さん、お疲れさまでした。このエネルギーをもってすれば、きっといい本に結実することでしょう。
▼黄宗建先生を迎えて韓国本編集会議(川崎、20031031)
1158号(10月30日)
■<黄先生いよいよ来日>
29日は「障害児の保育と親の就労保障を求める」裁判の傍聴へ。さいたま地裁(105法廷)13:15〜より。原告・平井教子さん夫妻、被告・川越市当局、提訴の内容・原告の主張については「風」既報の通りです(1147号・10月15日「赤い花、白い花」番外編)。平井夫妻も元気溌剌の様子。山口真理子さんが見えていましたので、きっと速報を寄せて下さるでしょう(と期待)。
30日はいよいよ黄先生が来日されます。確認のために昨夜、滞在中の中国に電話しましたが不在。さきほど韓国の自宅(金子君が教えてくれた)番号にかけましたが同じく不在。しかし間違いないでしょう。この間、何度も打ち合わせましたから。
大韓航空でソウルから成田(第1ターミナル)へ正午前後の便。江頭さん、金子君、到着便出口のところで11:30
落ち合いましょう。迎えたあと江頭さんの車で川崎へ。どうぞよろしくお願いします。ホテル等は
ホームページに書き入れています。
31日は午後4時から韓国本・編集会議、その後に歓迎会(川崎)。11月1日午後5時からTOAFAEC
としての歓迎会(東京)。人数の確認を前日(31日午後8時)までに予約先「うすけぼー」に入れる約束あり。幹事の方で参加者集約の上、小林富実までお願いします。歓迎会の「ご案内」は南の風で既報(1151号)。ホームページにも書き入れています。(日本橋・東洋経済ビルB1階、TEL03-3246-5515)
なおこの間の「ぶんじん」あて連絡は,ケイタイにお願いします。携帯しておきますので。
追伸:上野景三・恒吉紀寿編『岐路にたつ大都市生涯学習−都市公民館発祥の地から』(北樹出版)拝受。かって北九州に通いつめたものとしてしっかりと拝読します。有り難うございました。
1157号(10月29日)
■<再び「こんばんは」>
前号(11月予定)記事の続き。机の上にたまっている郵便物いろいろ。今日整理したなかの「すぎなみ便り」(杉並の教育を考えるみんなの会発行・27号)、そのなかにさらに「ちらし」いろいろ。たとえば「杉並・歴史を語り合う会」の連続市民講座(11月15日、22日、29日、高井戸区民センター)、第32回杉並憲法集会(11月23日、杉並区立産業商工会館)などと一緒に、森泰行監督「こんばんは」(夜間中学記録映画、92分)上映会案内のちらしがありました。都教組・杉並支部主催、杉並の教育と文化を考える懇談会共催。(11月29日・18:00〜、阿佐ヶ谷産業会館)
40数年の教師生活を夜間中学ひとすじに格闘されてきた見城慶和さん、その仕事を顕彰した「吉川英治文化賞」の賞金をベースにこの映画の「製作を支える会」の取り組みがあり、難関を突破して「芸術文化振興基金」の助成作品にも選ばれ、映画完成への財政的基盤が整えられたと聞いています。いい記録映画に仕上がっています。いまその上映運動がこうして各地に拡がっているわけです。
社会教育や公民館などの本格的な記録映画づくりも期待されるところですね。
1156号(10月27日)
■<和光大学・岩本研究室の資料棚>
たどたどしく始まった私たちの「東アジア社会教育研究」も今や在庫切れ(創刊号)となり、上記のようにコピー版を作成する時代?になったのかと、ある感慨をおぼえています。創刊号の頃は、当時まだ試作品
づくりみたいなところがあり、誤植も少なからず、あえて復刻する価値もないのではないかと思います。しかし「創刊号」はやはり大事、欠号にしない方がいいのでしょうね。
ところで、和光大学・岩本研究室には、「研究」全8号バックナンバーや「沖縄社会教育史料」(全7号)「識字調査報告」等の在庫資料、それに中国・韓国・モンゴル等のTOAFAEC
資料がダンボール箱や書棚に所蔵されています。上記「研究室窓側、ガラスのはまったキャビネット」には小林の書籍も若干残されていることを思い出しました。岩本研究室のある部分を“占領”しているかたち。まことに申しわけない。
岩本研究室が文献資料やハタケ道具であふれかえっているという話を聞くたびに、これはTOAFAEC
に大いに責任があること、と恐縮しています。一部をどこか(たとえば福岡・油山文庫)に運ぶ?等の対策を講じる必要があるのではないかと思案したり、ときどき投げ首状態。とりあえずは、再び、あらためての、御礼を申しあげる次第です。
1155号(10月26日)
■<比嘉佑典さん『沖縄チャンプルー文化創造論』・続>
前号に引き続き、比嘉さんの新著「はじめに」の一節。ここ一両日は比嘉さんの雄大な個性を楽しんでいます。学者であると同時に文学者!
「 …… 頭の中にアジアの大洋を描いてみる。広大無辺の海洋、陽はさんさんと照り輝き、風が海上を吹き抜ける。琉球国船団が帆柱を掲げ、万里の波濤を洋々と進む。海からは飛び魚が応援し、空からは海鳥が声援を送る。夜は満点の星に見守られ、南十字星の下に航海する。海の男たち・レキオスのロマン。私の頭の中の大洋は、想像大陸のようにふくらみ、イメージは宇宙にまで広がる。
…中略…
そして私の夢は、文化の潮流に転化し、文化の海流に注目する。すると、東西南北の国々から、文化の海流が琉球国に向かって流れ込んでくる。琉球国の求心力は、くるくる大きく回転しながら、それらの文化を呑み込んで、チャンプルーにして激しく回る。やがて、回転の方向が変わり、それらは遠心力となって今度は外に向かって新たな文化が花開くのである。その文化を名づけて“チャンプルー文化”と呼びたい。沖縄には、チャンプルー文化の華が咲き乱れているのである。
…… 」
12月TOAFAEC定例研究会は、比嘉佑典さんをゲストにお願いする案もありますね。ご意見をお寄せ下さい。
1154号(10月25日)
■<比嘉佑典著『沖縄チャンプルー文化創造論』ゆい出版>
比嘉佑典さん(東洋大学教授、同アジア文化研究所長、山原島酒之会会長)は私たちの沖縄研究初期(1978年頃)からの友人です。しかしなぜか「風」メンバーではない。比嘉さんのアドレスにどうしても風は届かなかったのです。それ以降、今でもそのままになっています。
昨日、比嘉さんから表題の新著(A5版、282頁)が送られてきました。「創造力の冒険」と題する本の“はじめに”は、比嘉さんらしく壮大でなかなか面白い。さわり(おわり)の部分をご紹介しましょう。
「……まず、挑戦する視点をあげておこう。
1,沖縄の文化を創造学の視点からとらえる。
2,沖縄の独自の文化は、どのようにして創造されたのか、その文化創造力を解明する。
3,実証的研究でなく、一種の解釈論であり、意味付けであり、イメージである。
…中略…
これまでの沖縄の文化に関する民俗学の調査に対して、皮肉って“文化の古道具あさり”と言う人もいる。しかし、私はこの文化の古道具の中に、秘められている《創造力》に注目してみたいと思う。いかなる文化にも、その文化を創造した「創造性」が潜んでいるものである。その創造力を文化の《生命力》として、あらためて把握し、再生させる試みがこの論文の目的の一つである。…以下、略…
」
1153号(10月23日)
■<北からの風>
北海道の歌登(うたのぼり)町をご存知ですか。私もまだ行ったことがありません。最北端の宗谷支庁(その中では南端)、なんでも東京23区とほぼ同じ面積だとか。8割以上が森林、そこを流れるパンケナイ川はサケたちにとって命の源流、春の瀬への幼魚放流、秋深まるころの遡上風景も見られるそうです。人口2,536人、世帯数1,072、高齢化率24.7(歌登町HP)の小さな自治体。
上記・渡部恒久さんはこの町の社会教育主事です。名刺には「フォレストピア 森の理想郷 うたのぼり」「楽しい学びの世界をコーディネート」とあります。まだ若い?精悍な主事さん。旭川・7日夜の懇親会で初めて会い、その後、メール交換が始まりました。
当日の講演で「東アジアのなかの公民館」に触れたからでしょうか、飲みながら渡部さんは「サハリン」のことを話題にしました。さすが北の国、是非そのうちサハリンの動きなど教えてほしい、そんな会話を交わして別れました。そして昨日「ウクライナ」のメールを頂いたという次第。さらに「いま、サハリンの社会教育について、現地に勤務していた稚内市のサハリン交流推進室の方に照会中です。数日後には、連絡が入るかもしれません」(渡部、Wed,
22 Oct 2003 22:32)とのこと。
「南の風」は「北の風」に吹かれる機会が少なく、内田和浩さんを通じて「風」への参加をお誘いしました。旭川を越えて日本・最北端のメンバーとなりますね。
沖縄はようやく秋だそうですが、北の国はもう冬でしょうか。
*あと一人の渡部(幹雄)さんの新著『図書館を遊ぶ』(新評論)20冊、“風の部屋”に到着。
1152号(10月22日)
■<黄先生を迎える−伊藤さんメールへの返事>
23日「地方自治と子ども施策」全国シンポジウム(川崎)には出席させて頂きます。どうぞよろしくお願いします。夜の川ア・富川市民交流会設立総会は、私のような部外者が出席してもいいのでしょうか?
黄宗建さんの出迎えは、当日KAL 701便(11:30分?着)の到着便乗客出口での待ち合わせにしてはどうでしょう(江頭さん、金子くん)。それから江頭さんの車に一緒に乗って楽しいドライブ、川崎へ。
金子、李正連お二人のホテルの件も直接ご連絡下さい。
黄先生はきっと刺身も大丈夫だと思いますが、刺身だけにならない方がいいかな?
11月1日夜の黄先生ホテルは、「成田エアポート・ワシントンホテル」(0476−35−5511)を予約しました。空港駅からシャトルバス運行(約10分)。1日夜の「成田エクスプレス」はJR東京駅20:00
前後(最終)にお乗せする必要があるようです。2日朝はホテル07:15 発のバスに乗らなければなりません。すべて手配済み。時間も調べました。韓国経由で中国(山東省)への慌ただしいスケジュール(黄さんも私より少し年長だから)、少々お疲れになるかも知れませんね。
ところで、11月3日〜4日には、広洲から李偉成氏が来日予定。まだ特段の連絡はありませんが、どう対応しましょうか?内田くん、李くん来日を確認していただけますか?
1151号(10月21日)
■<お目出度つづき・・・>
この夏には嬉しいことが続きました。平久保(八重山)の歌碑建立はその一つですが、何よりも2番目の孫(女児)が元気に生まれたこと。8月22日でした。しかし、翌日から岡山・全国集会。その後にすぐ烟台・
上海行き、帰国してその間にたまった毎日のスケジュールあり、直ちに社会教育学会や大都市研の日程に入り、一段落かと思ったところで八重山・沖縄行き、そして北海道へ。心ならずも会う機会がもてませんでした。
先日の日曜日にやっとお互いのスケジュールが空いて、孫たち一家が永福に来てくれました。初めての対面!感激!いい日曜日になりました。
ホームページはTOAFAEC のページ。いつも公私混同ながら、写真一葉をHP表紙の隅っこに小さく載せました。ご挨拶のつもりです。親たちは「夏希」と名付けました。どうぞよろしくお願いします。
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