*社会教育・公民館施設論(小林)→■
【南の風】収録記事(2006年〜2011年) トップページ
公民館・施設空間論をめぐって
(佐藤進、徳永功、浅野平八、上田幸夫など各氏、無署名は小林文人)
<目次T> (2006〜2007年)
1,公民館・施設空間論(1)−三多摩テーゼ
2,沖縄の集落(字)公民館
3,象グループ語録
4,自治体による公民館施設設計
5,市民が提起する公民館施設
6,国分寺の公民館づくり (佐藤 進)
7,国立市公民館の改築委員会について(徳永 功)
8,障害者にとっての公民館
9,施設造りの主体形成(浅野平八)
10,施設空間の記憶(浅野平八)
11,公民館の用途変更(浅野平八)
12,公民館数も職員数も下降ラインへ−社会教育調査・速報
13,公民館と指定管理者制度(上田幸夫)
14,施設空間の文化−近江八幡の公民館(浅野平八)
15,町並み保存運動と公民館の水脈(浅野平八)
<目次U−『公民館のデザイン』をめぐって> (2011〜2012年)
16,『公民館のデザイン』出版記念の会 われらは共演・競演できたか
17,出版記念会の報告(浅野平八)
18,「公民館のデザイン」と小金井方式 (南の風第2950号、2012年9月9日)
19,
■公民館・施設空間論(1)−三多摩テーゼ
(「南の風」第1640号 2006年4月27日)
この1月に出版された日本公民館学会編『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』(エイデル研究所)の新しい特徴は、まずは「施設空間」の章ではないでしょうか。昨夜(4月26日)の『ハンドブック』合評会第2回でも「施設空間論」がテーマでした。報告者はこの章の執筆陣の中心・浅野平八さん(日本大学)。建築学者からの公民館研究のお話は興味深いものがありました。
これまでの数多くの公民館研究、たとえばその事業論・学習論、あるいは運営論や職員論等の展開がありながら、それと結んで施設空間論を提示していく努力が少なかったことをあらためて痛感。研究会報告は、別に用意される学会記録にお任せして、この機会に私なりの公民館「施設空間」論との出会いをいくつか(自分史風に)書いておきます。
まずは東京「新しい公民館像をめざして」(いわゆる三多摩テーゼ)があげられます。公民館の基本的な理念と関連して、どういう施設空間が求められるか、徳永功さんたちと楽しく論議したものです。1971年から72年にかけてのこと、30数年前のことになります。発表は1973年。
「新しい公民館をめざして」には、四つの役割・七つの原則等の理念提起のあとに「公民館の標準的施設・設備の規模と内容」の表があります。仮設的な試みですが、その後の公民館建築に一定の影響をもったところも。たとえば、公民館は基本的に市民のもの、その参加と交流を!という立場から「市民交流ロビー」「団体活動室」など、あるいは「文化」的役割論−三階建論を脱皮する視点−として「ギャラリー」「美術室」「音楽室」「ホール」論等、主婦論との関係で「保育室」、青年論の視点をもって「青年室」構想、などが思い出されます。
三多摩テーゼをつくる基本的姿勢は、頭のなかだけで構造・構図を画くのではなく、実際に地域の公民館運動や現実の実践の動きから、施設空間論が提起された点にあると思います。市民が何を求めているか、職員の事業展開のなかで何が生み出されているか、その具体的な要請を起点として表が作成されたのです。それだけに、実践や運動の到達水準が「施設空間」論にも反映されている。たとえば、当時まだ未発だった障害者論にたつ施設・設備の具体的提示は明らかに不充分です。
▼東京「新しい公民館をめざして」(三多摩テーゼ、1973)
■沖縄の集落(字)公民館−施設空間論(2)
(「南の風」第1642号、2006年5月2日)
次の公民館「施設空間」論との印象的な出会いは、沖縄の集落公民館、それを核にした地域計画の動きでした。具体的には「逆格差論」や「住民自治の原則」を打ち出した名護市総合計画・基本構想(1973年)、さらに「ムラの共同体施設」としての集落公民館を重視した今帰仁村総合開発計画基本構想(1974年)等。その基礎となる地域分析や、計画作成の実質的な作業にあたったのは若い建築家集団を主とする「象グループ」のメンバー(大竹康市さんなど)です。
今帰仁村基本構想では、約20の各字でつくられてきた字公民館がスケッチされ、その理念型が「集落公民館とそのまわりの計画」として大きく画かれています。象グループの面白さは、施設の内部空間論もさることながら、まわりの環境、地域の暮らしへの眼差し、集落づくり共同施設の核として字公民館を位置づける、いわば外部空間論的なアプローチにありましょう。たとえば集落の広場、共同売店、保育園、子どもの遊び場、老人クラブ、共同出荷場などの諸施設の真ん中に公民館が存在している風景。
今帰仁村では、この基本構想に続いて、中央(公立)公民館が建設されました(1975年)。設計管理は象グループ+アトリエモビル。緑なす芝生を囲むかたちで、公民館の各室が配置され、開放的な空間論を基本に、沖縄の風土と文化を象徴するかのように赤い柱が全体を支えるという、知る人ぞ知る個性的な公民館です。この公民館は、1977年・芸術選奨文部大臣新人賞(美術部門)を受賞。建築専門誌でも、今帰仁村中央公民館の写真を掲げて特集を組み、象グループの仕事がひろく注目されてきました。(『建築文化』1977年11月号、『建築知識』1977年8月号ほか)。
集落公民館の計画と公立公民館の立体的な構成−今帰仁村の動きに大きな関心をもって、ゼミ学生と一緒に訪沖するたたびにこの公民館の広場に佇んだものです。それから30年、その後の展開は、行政の状況や住民意識の関わりのなかで、複雑な評価が必要でしょうが、地域づくりの視点をもつ象グループの施設空間論には鮮烈な刺激を受け続けてきました。
▼今帰仁村中央公民館−緑の芝生、紅い柱、屋根にブーゲンビリヤ(20010810)
■象グループ語録−施設空間論(3)
(「南の風」第1649号、2006年5月13日)
沖縄は思わぬ人と出会う十字路のようなところです。たとえば、まだ若かりし頃の浅野平八さん(日本大学)やNHKの桑原重美さん(カメラマン)などとの出会いは、東京ではなく、那覇の居酒屋や名護の街角でした。建築家集団・象グループの大竹康市さんと会ったのも、場所は定かではありませんが、今帰仁村中央公民館を通してでした。
その後、東京に帰って新宿の場末(当時)に事務所を構えていた象グループを訪ねたり、大竹さんが私たちの研究室(東京学芸大学)にみえたり、研究会で話をしていただく、そんなお付き合いが始まったのです。
記録をみると、1981年8月の「沖縄社会教育研究会」(第43回)に、ゲストとしてお招きし、BMに「網走番外地」を流しながら「象グループ」制作のスライドを楽しみました。いい思い出。しかし若くして(サッカーの試合中)急逝、1984年2月の定例研究会(第61回)は「大竹さんを偲ぶ」会に。私たちは惜しい人を亡くしてしまった!
私の手元のフアイルに一連の象グループ関係資料があります。そのなかの1枚、題して「象語録集」。これがなかなか面白い。大竹さんが研究会で配って、あの大竹節でウンチクをかたむけたものです。幾つかをご紹介しましょう。
1,不連続統一体:個々はそれぞれの独自性を発揮しながら集団もうまく調和を保っているような世界。木の葉や花もそれぞれ独立して美しいが一本の木となって別の美しさを出現させる。
DISCONTEの理論: <D>どれも、<I>いちにんまえに、<S>それぞれの、<C>コースを歩みつ
つ、<O>おなじ、<N>仲間として、<T>力を合わそう。
*“DISCONTE” は、小林・平良編『民衆と社会教育』(エイデル研究所)序文にも引用した。
2,発見的方法:創造の端緒は発見にあり、発見は着目を変えることにある。
3,魚眼マップによる発想:地図による発想転換。身近かで些細なものと思われていたことが実は重要なのだ。1点から世界を考える。
4,逆格差論:価値尺度の逆転。所得が果たして暮らしの目安なのか。
…(全部で12項目、長くなるので以下省略)…
このような発想転換の視点にこだわりながら、今帰仁村中央公民館や名護市役所など(沖縄だけでも20に及ぶ仕事)を設計したのでしょう。
▼象グループが設計した名護市役所−海側のシーサーたち(20020606)
■自治体による公民館施設設計−施設空間論(4)
(「南の風」第1650号、2006年5月15日)
ご承知のように、全国の公民館数は約1万8千(文科省統計−自治公民館をのぞく)。そのすべてが公民館として独自に設計されたわけではないでしょうが、それぞれに公民館施設としての実像をもっていることは疑いない事実。そこに実際にどのような「施設空間」論の展開を読みとることが出来るか、この点で私たちは無関心に過ぎた怠慢を思わずにはいられません。
統計的には、全公民館のうち約65%(1万1千館余)が単独館、複合館が35%です。仮に単独館のみに限ってみても、これまで1万をこえる規模において、なんらかのかたちで(理念は別にして…)実態として公民館施設の設計がなされてきたことになります。
すでに姿を消した公民館施設のなかにも、さまざま思いのこもった施設空間論があったに違いない。たとえば、東京都杉並区立公民館(同公民館長・安井郁氏の原水禁運動資料研究に取り組み中)は、いまでも思い出に残る施設です。まず廊下で図書館施設と結ばれていたことが大きな特徴。公民館部分(延床面積654u)は、250人定員の(当時としては)本格的な講堂=ホールを核に、機能別の各室が配置され、中庭の緑を通して木漏れ日がさしこんでいた講座室の風景、木造施設の独特の雰囲気など忘れられません。
開館時の「杉並区広報」(1953年10月26日号)は、「文化区杉並に新威容−区立公民館落成」のタイトルのもと、社会教育法第22条−6条項を掲げて新施設を説明しています。最後の部分には「…講堂は視覚教育の重要性にかんがみ、映画、演劇等の上演を考慮してステージも広く、光線、照明等細心の注意がはらわれ、映写室、技師室、機械室、浴室等も設けられている」と書かれています。
杉並公民館は、施設の老朽化もあって、1989年に杉並社会教育センター(セシオン杉並)に“発展”的に移行します。その後どのように展開していくのか。このような自治体それぞれの公民館「施設空間」の実像を分析的に追跡していく視点をもってみたい。玉石混交の実態のなかにどんな施設空間論が見えてくるか。
私自身としても、いくつもの自治体で公民館建設(改築)論議との印象的な出会いがありました。たとえば、国立、東村山、杉並(セシオン)、町田など。自治体の正規の審議機関に委員として参加する機会を与えられ、公民館をどう設計していくかについて、多くのことを論じあい、かつ学ぶことができました。
■杉並区立公民館(1989年2月閉館当時、このあと解体された)19890223 −古いアルバム→関連写真・こちら■
■市民が提起する公民館施設−施設空間論(5)
(「南の風」第1655号、2006年5月25日)
この日誌欄に、数週間前から公民館「施設空間論」などという論文調のタイトルを掲げて、堅苦しいことを書き始めてしまいました。もともとは新刊『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』(エイデル研究所)の合評会(4月26日)の感想をひとつ、というだけのつもりが、つい回を重ねています。いろんな思い出が頭をよぎって、次を書きたくなる、困ったものです。
合評会では、公民館の理念づくりや施設設計論への努力があったとしても、現実の公民館建設は、まったく当局(市役所施設部など)の枠組で決まってしまう、という悲観論が語られました。たしかに、そういう現実のなかで公民館が数多くつくられてきた歴史は否定しがたいものがあります。
しかし(自分史風に回想すれば)1970年代に大きな変化が現れたように思います。新しい市民の潮流とでも言いましょうか。それが(前掲)東京「新しい公民館像をめざして」の背景にあり、この文書がさらに新たな流れを生み出していく。構想の「はじめに」から終章「いま何をなすべきか」(1973年版)までを貫いている基調は「公民館は住民がみずからつくりあげていくべきものです」というメッセージでした。言葉だけではなく、各地に澎湃として湧きおこる“公民館づくり住民運動”の胎動がありました。
市民たちは自分たちの活動の拠点として、公民館の施設を求め、その「施設空間」各論についても具体的に発言し始めていました。たとえば公民館保育室や青年のたまり場論などはその典型。とくに国立、国分寺、あるいは東村山や町田などの公民館づくり、その施設要求運動を想いおこします。実際の動きのなかに身をおいた一人として、いつまでも記憶にのこる躍動的な一時代。そのような市民的な潮流から20〜30年が経過して、いま、どのような展開がみられるのでしょうか。
国分寺市・もとまち公民館から本多公民館へいたる施設づくり(1980年前後)の展開について、佐藤進さん(当時、国分寺市公民館勤務)に一文を寄せていただけないでしょうか。できれば国立の公民館改築時の熱気あふれる市民論議(1976年)に関しては、久しぶりに徳永功さんの回想をうかがいたいもの。勝手なお願いですが…。
▼国立公民館入口の案内図、左方に市民交流ロビー、わいがや喫茶、青年室(2003年11月17日)
■国分寺の公民館づくり−施設空間論(6) 佐藤 進
(「南の風」第1657号、2006年5月31日)
「公民館の風」を充分発行できずにいる状態で、「南の風」に原稿を寄せるというのは心中複雑ですが、国分寺市の公民館づくりはどうだったかということですので、簡単に記したいと思います。
・最初の公民館(現在の本多公民館)―自治体警察がいくつかの目的に転用された後、1963年に町公民館として設置→1965年旧北多摩自治会館に移転→その後老朽化に対して建替え要望。そのための会議で建替えより公民館のない地域に増やすのが先決との方向でまとまる。
近隣自治体より遅れて社会教育委員等の尽力で設置されたというのがスタート時の国分寺の特徴でした。
・2館目の公民館(恋ケ窪公民館)―美濃部都政の補助金を受けて革新系市長が1973年図書館と併設で開館。
政治的力関係から敷地を購入できず(地主が売らない)、新設小学校敷地の一部に建設(地主会から抗議を受ける)。
青写真ができた段階で職員、住民の意見を聞いた程度でした。
・3館目の公民館(光公民館)―2館目ができるとすぐに地元自治会から建設請願が出て1975年開館。
建設に際して教委事務局・公民館・図書館職員による「新設社会教育施設建設検討委員会」で施設の内容を検討(まだ住民参加にならなかった)。
この時の最大のネックは、建築基準法に基づく用途地域基準の制限強化で「第1種住居専用地域」に公民館は建てられないとなったこと。
そこで実質的に図書館(1階)・公民館(2階)の中身を用意しながら、公民館部分は「図書館会議室」としてオープン。
1978年に、住民要望を受けた形で条例改正の上改めて公民館として再スタート。
私は1976年に光に異動しましたが、「図書館職員」の辞令を受けて実際は「図書館会議室」で公民館の仕事を行いました。公民館として設置の時点で公民館職員の辞令が出されました。
・4館目の公民館(もとまち公民館)―住民運動として南部地区図書館設置の署名運動が起きていたため、本多公民館の出張講座として「図書館・公民館」をテーマに地方自治講座を開設。本多公民館に勤務していた私が担当。講座終了後図書館・公民館をつくる住民の会ができる。その段階で私は光に異動しました。
住民要望を受けて建設が決まり、この時初めて住民・職員参加の建設検討委員会が設置されました。財政の枠から施設として充分とはいえないものの国分寺としては理想的な住民参加の建設がなされたといえます。
ただこの時のネックは、財政事情から敷地購入ができず、借地に建設したことです。これは後で地主側の事情で購入を求められることになります。
・本多公民館建替え―老朽化した最初の公民館建替えが避けられない状況で1981年に建替え方針が決定されました。その直後の市長選で保守系が当選します。ただこの建替えは別の地に仮施設を建てて、住民参加の検討委員会も設置されて進み、1983年に図書館・公民館併設されました。
・5館目の公民館(並木公民館)―前市長時代からの方針に沿って5館目の建設に入りますが、この時の住民参加は大きく様変わりしました。
事務局が今度の施設はこれまでの公民館・図書館とは違うものをつくるという方針を強く出し、@事務室は公民館・図書館一緒 A公民館保育室は図書館幼児室と一緒、というように、それぞれの独自性を認めない方針を出しました。
建設検討委員会は作られたものの、資料の持ち帰りは認めずその場で回収というような状態でした。職員・住民それぞれの委員とも、自分で写してきた図面やメモで報告するという有様でした。この時の異常さは何度も新聞報道されました。
いろいろと問題をはらみながらも図書館・公民館併設で1988年に5館目として開館しました。同時にこれが前革新系市長時代につくられた国分寺市の公民館構想の完了となりました。
その後公民館から遠い地域住民から新設要望が出されても受け付けず、地域センター建設に移って行きます。これは市長部局管理で再雇用職員を配置したものです。
また、3館目の光公民館はその後増改築がなされ、公民館・図書館・児童館(学童保育含む)となっています。
以上、年表的なものになってしまいました。ご了承ください。
▼ 国分寺市本多公民館・図書館(2003年11月16日、文化祭)
▼本多公民館・図書館−入口の施設案内図(2003年11月16日)
■国立市公民館の改築委員会について−施設空間論(7) 徳永 功
(「南の風」第1659号、2006年6月3日)
もう30年も前のことで、記憶も不確かになっています。資料は物置の何処かに置いてはあるのですが、直ぐには出てきそうにもありません。従って、不確かな記憶をたどって書くしかありませんので、よろしくご了承のほどを。
国立公民館は1955年に自治体警察の庁舎を改築して、誕生したものです。文教地区指定を勝ち取った住民の活動意欲は相当なもので、古くて、非機能的な施設にも拘らず、住民、特に婦人たちは多彩な文化活動を活発に始めました。そして、必要な施設をその都度、市民の組織をつくって要求し、増設させてきたのです。集会室の増設をはじめ、ホ−ル、青年専用室、保育室などすべて市民、利用者の強い要求によって実現したものです。
しかし、元々の施設が警察の建物ですから、ボロなうえにに不十分さはどうしようもないほどでした。何しろ、トイレは一箇所、それも男女兼用で、大一つ、小二つといった考えられないような状態だったのです。不自由極まりなかったのですが、自分たちが要求して利用できるようにしたのだから、ということで、我慢してきました。だから、もっと自由に、気持ちよく使える公民館が欲しいという潜在要求は極めて大きかったのです。
小生は初代の公民館職員として、留置所を壊して集会室に変える仕事を手始めに、新しい町づくりの拠点として公民館活動を推進しようと苦心してきたのですが、心の底ではいつも魅力的な施設が欲しいとねがってきました。
70年代は革新都政の下、国立も「革新」市政だったのですが、市長は公民館には理解が乏しく、その代わり、補助金のつく福祉施設を造ることに熱心でした。そのことは同じ「革新」だった町田市なども同様だったようです。そして、この時期に、美濃部都政は画期的な図書館施策(二分の一の施設補助に加え、図書費3年間三分の一の補助)を打ち出し、そのお陰で、間もなく、多摩地区は全国一の図書館普及率を誇ることに。当時、多摩地区は住民の運動や活動が活発で、公民館を求める声は図書館を上回るほどのものがあったので、我々公民館職員は図書館と同様の施策を実施して欲しいと東京に働きかけたのですが、願いは叶わず、都の無理解を嘆いたものです。反面、理解が得られるような公民館像が明確ではなかったことも大きな原因だと痛感せざるをえなっかたのです。そのような反省を踏まえ、活発な住民の要望に応えるための公民館を模索した結果、いわゆる「三多摩テ−ゼ」が生み出されることになりました。1973〜74年のことだと思います。
当時、小生は社会教育課長の職にあり、この三多摩テ−ゼのイメ−ジによる公民館をぜひとも国立に実現させたいと思い、市長を説き伏せて、公民館の全面改築の予算化に漕ぎつけました。
さて、いかなる公民館施設をつくるか、それは行政側が先に原案を作るのではなく、住民の自由な意見と議論に基づいて作り上げていこうということで、「国立市公民館改築委員会」がつくられました。委員会は公開の原則で、どんな団体でも個人でも自由に発言を認めたうえで、毎回の議論が行われたのです。待望の公民館の全面改築とあって、住民の関心は非常に強く、毎回、委員の他に多数の住民が押しかけ、熱気溢れる議論が展開されました。或る建築士などは議論を踏まえた設計図をたたき台として毎回のように書いてきたほどでした。
議論の内容は、従来の公民館施設にはなかったか、あるいは軽視されてきた施設機能を重点的に行われました。その重点とは、
1、住民の自由なたまり場としての「市民交流ロビ−」
2、すべての人に集会・学習の機会を保障するために必要不可欠な「保育室」
3、団体活動を自由に準備し、発展させていくために必要な「団体活動室」
4、青年のための独自なたまり場、活動の場としての「青年室」
といったものです。
「市民交流ロビ−」はこれからの公民館にぜひとも必要な施設機能でなければならない。なぜならば都市化の中で、サ−クルやグル−プに属し得ないひとりぼっちの人たち、仲間をもとめてもなかなかその機会が得られない人たちが非常に増えている状況のなかでは、とりわけ重要な意味をもつものと考えられたからです。これは、従来の公民館施設が団体中心主義の発想で貫かれてきたことを思うと、画期的な発想の転換でもありました。だから、「市民交流ロビ−」は1階の一番入りやすいところに設置されなければならない。従来の公民館は殆ど例外なく、事務室が一階の主要な場所を占め、管理に力点が置かれた「事務室中心主義」の発想で設計されてきており、その発想にも転換を迫るものでした。
「保育室」の必要性は、今日では説明の余地もないほどに当然のことと考えられていますが、それというのも、1965年から国立公館で「若いミセスの教室」が実験的に始められ、年を重ねるにしたがって、従来は公民館活動の対象外とされてきた若い母親の学習が当然の権利として認められ、従って、それを可能にする「保育室」の設置が必要不可欠のものとして行政も認めざるを得なくなり、定着してきた実績があります。
「青年室」が専用に必要だという理由も国立公民館での実践に基づくものでした。ある意味では、地域の中で最も孤立し、孤独な状況におかれている青年たちには、自由に、夜おそくまで使用できる部屋が必要とされてきたのです。
以上、簡単に説明しましたが、公民館改築委員会では、それぞれの立場、代表の人たちが活発に意見をを述べ、さらに傍聴の人たちも負けじと発言し、それはそれは熱っぽい議論が展開されたのです。委員会の回数は24回にも及んだことを懐かしく思い出しています。
実際にできた公民館の施設は、高さの制約や予算の都合で決して充分なものとは言えませんが、住民の使い具合はまずまず良いと言えると思います。
▼国立市公民館・市民交流ロビー「わいがや喫茶」、右側に青年室がある(2003年11月16日)
■障害者にとっての公民館−施設空間論(8)
(「南の風」第1663号、2006年6月11日)
国分寺市について佐藤進さん、国立市について徳永功さんから、公民館づくりについての貴重な証言(風1657号、1659号)を寄せていただき、有り難うございました。懐かしく当時のことを想いおこしました。実際の経過はそれぞれ違いますが、共通して幾つかのポイントがあるように思いました。
公民館の施設空間の新しいあり方について、市民たちが自ら発言しはじめ、運動的に取り組んできた努力が基本にある(そういう時代の潮流があった)ことは疑いないことですが、内容だけでなく、それを公的な施設計画・自治体施策に現実化していく過程に注目させられます。論議は原則論にとどまることができない、常に(立地、規模、機能に即して)具体的でなければならないこと。議論の場として市民参画の施設「建設検討委員会」や「改築委員会」等の設置(仕掛け?)が重要であったこと。その背景には社会教育委員会議・公民館運営審議会等の役割も無視できないこと。それらの流れのなかで、市民・委員会・行政当局をつなぐ職員の固有の役割があったのではないか、などなど。
この時期、戦後公民館のいわば定型的な施設空間論から脱皮して、成長する市民の要求をうけながら、市民交流ロビー、保育室、団体活動室、青年たまり場などの新しい施設空間論が具体化されていきました。とくに象徴的な動きは、障害者にとっての公民館の追求、その具体的な施設設備のあり方への果敢な実践的な取り組み。国立公民館の青年室や「わいがや喫茶」、国分寺市本多公民館の「喫茶ほんだ」などがその典型でしょう。1980年代には三多摩各地の公民館に拡がっていきました。
注目すべき事例は町田市公民館。駅前ビルへの移転が求められ、1998年夏、「移転建設検討委員会」が設置されました。ぶんじんもその委員の一人(出席率わるし)。委員会では障害者にとっての公民館づくりがさかんに論議されました。その土台にはもちろん障害者青年学級の実践が。同委員会報告書「市民参画による新しい公民館」(1999年)は力作です。「喫茶コーナー」の項の一節。「…障害をもつ人たちによる喫茶コーナーは他の三多摩地域でも積極的に取り組まれており、町田市における障害者青年学級などの経験を踏まえ、単にコーヒーやお茶を飲むだけの場所ではなく、障害者等の公民館利用者と市民との交流の場・新たな出会いの場となることを願って、設置を検討しました。」
▼国分寺市本多公民館「喫茶ほんだ」(国分寺市障害者団体連絡協議会)ー2001
■施設造りの主体形成−施設空間論(9) 浅野平八
(「南の風」第1666号、2006年6月16日)
「南の風」で施設空間に向かって風が吹いているのに、建築畑の私の反応が遅くてすみません。まず施設空間という用語が社会教育分野で用いられていることは大変なことです。先生が「立地・規模・機能」を施設空間の課題として示していただいていることも、これまでになかった状況です。建築仲間に『公民館ハンドブック』を宣伝しますと、ここに「施設空間」という言葉が登場することで驚きます。
建築畑では空間をつくること、すなわち施設をつくることと考えがちなのに対して、このところ公民館学会などで私がこだわっている、施設とは事業と空間を兼ね備えたもの、という定義に従うと、事業というもうひとつの側面が浮き彫りになるから建築万能主義者は困るのです。一方「南の風」にのって聞こえてくる三多摩の施設空間の話は事業にからむ事項に含まれるもので、私には施設空間の話ではないように思えます。
1971年のことだったと記憶していますが、「三多摩の公民館」?という都教育委員会の資料で町田公民館の写真をみました。そこにあった大正ロマネスク風、手作りの雰囲気のある町田公民館の建物に魅了されました。個性的な風情のある公民館建築があったのです。そして訪ねて行くと、先頃壊されました、ということで、私には幻の公民館となってしまいました。
その後、1974年に小金井青少年センター(元の浴恩館)のあり方を検討する研究会を、学芸大学のサークル「むぎのこ」の人たちをまじえて2年間やりました。そこで国分寺での佐藤進さんの活躍ぶりを小金井市職員から聞かされた記憶があります。われわれは既存の建物をいかに地域の青少年の居場所にするか、という課題に取り組みました。施設空間とは床・壁・天井に囲まれたスペースのことだけではなく、空間に居る人にある行為・行動を触発する、またはそこでの作法についてサイン(情報)を送るものである。とするならば、いかなる物的環境が必要か、という問いに答える作業を行いました。
施設空間論には施設のあり方論が欠かせないわけで、それをだれがどこから導き出すのか、施設造りの主体形成が課題だと今も思っています。
■施設空間の記憶−施設空間論(10) 浅野平八
(「南の風」第1694号、2006年8月4日)
<施設空間の記憶>
日本大学・浅野です。暑中お見舞い申し上げます。
突然、昭和39年に建てられた建物改築計画を知らされ困惑、早速市民となにができるか話し合いの場を持つことにした、という知らせが6月末に君津中央公民館・布施さんからありました。基本設計が終わり実施設計に入っていて今年12月に設計完了予定とのことです。
6月30日に千葉大学・長澤先生、日本大学・多田院生を加えて総勢30名ほどの市民・職員さまざまなメンバーが集まり、話し合いが行われました。なんとか市民・職員の声を改築にいかしてもらいたい、この思いが実施設計に入っている今の段階でどこまで実現できるか、残り時間がわずかの中で何とか動いていきたい、という布施さんの考えです。
その後、私達(浅野+院生)の建て替え基本設計図に対する問題点の指摘と「実施設計段階での変更は難しいし建物の総体的まとまりを壊す怖れもでくるので、物体としての建物自体の変更は見送るとして、新しい建物に使われる室名称、場所名称について提案されてはいかが」という提案に対して「建物と、そこに流れる想い、そしてそこに集う人、これらが一体となってできる公民館・・・あらためて、いろいろ勉強していきたいと思います。」という返信をいただきました。
7月31日、私達も君津市内の全公民館を視察させていただき、君津の公民館の内容の濃さ、建物を使い込んでいる様子、当初の設計意図にはなかったであろう空間の利用方法などを実感しました。
そこで、まもなく取り壊される君津中央公民館の施設空間に対する利用者、職員の記憶をたどる調査をこの夏休みに実施することとしました。この施設空間の記憶調査は「家族みんなが利用経験のある公民館は地域に欠かせない思い出の場所」といってくれた私の学生の言葉がヒントで機会をうかがっていたテーマです。この結果が新しい公民館にどう受け継がれていくかが今後の課題です。
■公民館の用途変更−施設空間論(11) 浅野平八
(「南の風」第1706号、2006年8月24日)
<公民館の用途変更について−教えてください>
今川義博(仙台市青葉区中央市民センター)
…(略)…
日本公民館学会編「公民館コミュニティ施設ハンドブック」(エイデル研究所)のP279「公民館からの用途変更」の中に「また、1999年に社会教育法が変更され、2001年には国庫補助を受けた公民館の用途変更が社会教育施設の範囲内で認められるようになった。」と書いてありますが、この2001年に認められるようになった具体的な中身を知りたいのですが、ご存知ありませんか。また、どんな形(通達?)で定められたのか、その原文などを教えてください。よろしくおねがいします。
<質問に答えて> 浅野平八 (南の風同号)
執筆者・曾根陽子(日本大学教授)さんの代わりにお答えします。「ハンドブック」にあるご質問の箇所は、曾根+浅野研究室の合同研究会で検討した部分です。
1,平成10年3月閣議決定の規制緩和推進3カ年計画からはじまった一連の行政改革の中で、施策「地方分権一括法」地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律(H12.4施行)があり、地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律というのが各省庁でつくられています。
2,ここで、規制緩和により、条例制定権の範囲が拡大し、各市町村で公民館にかかわる独自の位置づけが可能となっています。
3,また、国庫補助施設の設置後の名称変更について、平成12年8月の地方分権推進委員会の意見として「国庫補助負担金の整理合理化と当面の地方税源の充実確保策、法令における条例・規則への委任のあり方、個別法に関する諸点」があり、国庫補助施設の用途変更等による補助金の返済は不要となっています。地方分権推進委・第2次勧告
http://www8.cao.go.jp/bunken/bunken-iinkai/2ji/index.html
第4章(2)長期にわたり実施中の国庫補助事業について、社会経済情勢等の変化に応じて再評価し、中断すべき場合には過年度分も含め国庫補助負担金の返還を要しない仕組みとする。
4,文科省生涯学習局関係省令の改正については文生社第一七八号として平成12年2月に、文部省生涯学習局長通知が各都道府県教育委員会、各指定都市教育委員会あてにだされていますが、これは、図書館、博物館、青年学級についてで、特段公民館についてはふれられていません。
5,われわれの調査では、千葉県柏市で公民館として補助を受けた建物を近隣センターとして再利用している例がこれにあたります。
■公民館数も職員数も下降ラインへ−施設空間論(12)
(「南の風」第1714号、2006年9月14日)
7月下旬に公表された文科省指定統計「社会教育調査」の速報、福島で開かれた学会等でも取りあげられました。
ほぼ3年周期で調査が行われてきましたが、今回は2005年10月現在の統計(事業等は1年間)です。しかし、もうすでに1年が経過している。精度が気になる項目もあり、「自治公民館」などはまったく含まれていませんが、なにしろ、社会教育・生涯学習に関しては唯一の全国悉皆調査。年次的な推移など、比較・分析したくなる数字がいろいろ。
いくつか新しい傾向が現れています。一つは、公民館の最近の動き。この20年来、停滞していた(ほとんど減少していなかった)数字が今回調査では明確に下降に転じているのが注目されます。2002年当時と比較してみると、なんと館数で
△638館、職員数では △1599人の減少です。公的セクターの見直し(「行政改革」)路線が、確実に影響を見せ始めたと言えるでしょう。今後もちろん自治体合併の波紋も気になるところ。
とくに今回調査から、新しく「指定管理者」別の施設統計が示されています。「管理委託者を含む」ので、厳密ではありませんが、文化会館は(1年前に)すでに36%、社会体育施設21%、博物館類似施設等は17%、が指定管理者に委託されている。公民館についてはまだ4%弱の数値ですが、今年度で「指定管理者」へ移行した施設数は、おそらく大きく上昇していること間違いなし。
指定管理者としては、財団法人や地域団体だけでなく「会社」も登場、NPO
への委託はほんのわずか。これからどんな展開になるのか。社会教育施設をめぐる状況も新しい段階を迎え、3年後は激変の統計か。
学会報告資料のなかに、新しい「公民館の指定管理者」の動きを発表している上田幸夫さん(日本体育大学、「月刊」編集長で忙しいでしょうが)、上記に関連してコメントを寄せていただけないでしょうか。
■公民館と指定管理者制度−施設空間論(13) 上田幸夫
(「南の風」第1717号、2006年9月20日)
文科省のホームページによると、最新の文科省指定統計「社会教育調査」の中間報告は7月に公表したことになっています。国立教育政策研究所社会教育実践研究センターの「社研通信」では、8月21日発行の第35号にそのことを伝えています。
「月刊社会教育」では、こういう情報もいち早く、読者に届けたいと考えていますので、ぜひ、あれこれの情報を「月刊」に、上田にお願いいたします。
今回の指定統計の調査は、2005年10月の実態、その前の調査が2002年ですから、公民館をめぐる最近の動き、つまり、この3年の変化は大変大きく、両者の比較研究はとても重要といわなくてはなりません。
この3年の間に、第一に市町村合併です。そして第二に、指定管理者制度の導入です。これだけのドラスティックな事態に遭遇しながら、公民館数の△638館、職員数では
△1599人の減少の意味合 いを議論いたしましょう。
私の学会報告は、「指定管理者」へ移行した受託団体分析で、基本的には公民館体制の新しい動向というより、明らかに「地域団体」による管理運営の実態を確認するにとどまるものでした。指定統計の公民館の指定管理者の「その他」の内実であり、その数は全体の60.7%です。
しかし、私は学会終えてすぐ、NPOが受託した公民館へのヒアリング調査へ乗り出し、これからの日本の社会にうごめく自治の力に押されて、公民館もまたじつに興味深い展開が期待できるのでは思ったものでした。
さて、今回の社会教育調査と関連させて注目すべき公民館悉皆調査に注目しなければなりません。それは、全国公民館連合会が実施した2004年1月段階での、全国公民館実態調査です。全公連が「格安で」販売しています最新版の『全国公民館名鑑』をぜひ、買い求めてください。この公民館データは、まさに転換期の公民館の「原型」をはっきりと示しています。分館含めた全公民館が市町村合併、指定管理者制度によって変化していく以前の姿をとらえています。
■施設空間の文化−近江八幡の公民館
*施設空間論(14) 浅野平八
(「南の風」第1784号、2007年1月30日)
公民館学会でのご指導ありがとうございました。これから南の風の吹くままご指導頂きたく存じます。
さて、本日(27日、慰労会)はお話する時間がありませんでしたが、ひとつ報告したいことがありました。今年の私の研究室資料収集の作業で冊子111p「みんなで創った公民館ー本物への追求」近江八幡市教育委員会2003年を偶然入手いたしました。公民館ハンドブック(エイデル)でふれた「現代的課題」の事例の追加となるものです。概略紹介いたしますと、以下のようです。
・昭和38年建設の旧市街地学区の公民館が老朽化し建て替えとなった
・市は基本方針として「木造」「住民参画」を打ち出した
・住民要求から出された施設規模は木造不適格の規模となった
・各方面の専門家は「木造」を不可能と判定した
・市は木造をあきらめた代替案を提示した
・住民は木造を諦めず分棟にした木造建築3棟分割案を創案し実現した
伝統的木造建築の街並みが残るとともに、メンソレータムなど進取の気風のある近江八幡で、このような事例があったとは不勉強でした。本当に大切なものは何かを議論する気風、地域文化のアイデンティティの象徴である木造建築、木の文化へのこだわりは「(琵琶湖の)波打ち際の詩情あふれるまちづくり」という合い言葉となっています。波打ち際は古いものと新しいもの、古代と近代、文化と文明の波打ち際と説明されています。
公民館の建て替えは、波打ち際の所業でどちらにころぶか、慎重に対処しなければならない現在であることを再認識いたしました。このような所業を建築専門家だけに任せていいはずはありません。身近にある文化としてみんなが関心を持たねばならない現代的課題であると、痛感しました。
■町並み保存運動と公民館の水脈−竹富・妻籠・湯布院など
*施設空間論(15) 浅野平八(日本大学建築工学科)
(「南の風」第1909号、2007年9月5日)
妻籠への関心の展開を楽しみに、「風」を心待ちにしております。
私どもの建築学会が福岡であり昨日帰宅しました。肥大化した学会では道筋を間違えているような細部研究の発表が相次ぎ、将来指針を考えるシンポジュウムでも、このグローバル化で日本文化が埋没していく勢いは止められない、という諦めが支配的で、公民館を掲げるわれらはシーラカンス状態です。
そんな中、竹富の住民による地域管理の動向から妻籠に向かって吹く南の風の風向きに、なにやらじっとしておれない私がいます。
私たち建築世界の人間にとって、妻籠は街並保存の聖地です。今年1月94歳で他界された建築史家、太田博太郎博士の関わりから、妻籠の町並み復元保存運動がはじまり、現在全国に81ヵ所ある「重要伝統的建築物群保存地区」の先駆け(1976)と成ったことで知られているからです。(このような建築物を保存修復できる大工の育成を目的としているのが私のかかわっている大工育成塾です)
この保存運動「妻籠を愛する会」(s46)に公民館活動がどのように関わっているかネット検索してみますと、岡山商科大学社会総合研究所報24号(2003)に「町並み型観光地の発展構造に関する研究」(捧富雄)があり、第2章「妻籠の観光地づくりの歩み」で、終戦後東京から疎開してきた文化人十数家族(ドイツ語学者関口存男、社会学者米林富雄ほか)による公民館活動の指導が町並み復元運動の文化的背景にある、とされています。(添付pdf−略)
同じように開発か在来かということで揺れ動いた町に湯布院があります。全国に先駆け1971年に自然環境保護条例を制定し、リゾート観光開発を拒否しつづけた町です。在来系維持派のブレーンに地元出身の国際的建築家がいます。その町民啓蒙広報誌に「風の計画」があります。公民館を巻き込んで映画祭や音楽祭が毎年開催されています。毎年行う祭りで地域力が鍛えられているわけです。「由布院_湯布院_ゆふいん」記述の仕方でその人のこの問題に対する立ち位置がわかります。琉球と沖縄のようなもので。
このような事象に出会うと、まちづくりの文化的背景に公民館活動がある、ということを実証し、広義の公民館の文脈で関連施設を包括して、公民館の存在意義と価値を提唱することが今必要なのではないかと考えてしまいます。公民館で育った人たちが今、まちづくりに関わり次代を切り開いている現実に出会うことがあるからです。それを当人は自覚していないことの方が多いのですが、記憶のなかに公民館を宿す人がたくさんいることを前提に、公民館の歴史を検証し、今ある居住環境整備計画に、それは公民館60年の歴史が歩んできた道筋だよ、と示唆を与える仕事が待たれているのではないかと感じています。
<目次U−『公民館のデザイン』をめぐって>
■16,『公民館のデザイン』出版記念の会 (小林ぶんじん)
(「南の風」第2737・38・40号、2011年9月23・25・27日)
…9月24日は『公民館のデザイン』(日本公民館学会編、エイデル研究所)の出版記念の集い(風2728号に案内)。昨年末に出版された同書をあらためて読んでいます。力作が並び、読み応えがあります。発言を求められ、思案しながら熟読?しています。ぜいたくなひとときと言うべきでしょうか。(南の風2737号)
■<『公民館のデザイン』出版祝い>
24日はいい秋晴れ。久しぶりに茗荷谷の駅へ。日本公民館学会編『公民館のデザイン』出版記念のつどい(全林野会館)に出ました。懐かしい顔ぶれ。手打明敏(筑波大学、学会長)、浅野平八(日本大学、編集長)、笹井宏益(国立教育政策研究所)、長塚威(建築設計事務所長)、上田孝夫(日本体育大学、編集事務局長)の皆さん−ぶんじんも含めて−、それぞれの立場から「公民館のデザイン・出版を祝い未来を展望する」スピーチ(第1部)。第2部は記念パーティ、賑やかな会となりました。
すこし酔って帰宅。うとうとしていたら、新井孝男(学会副会長)さんからの深夜のメイル来信(Sun,
25 Sep 2011 00:31)。「本日は誠にありがとうございました。お陰様でひとまず『公民館のデザイン』の出版の意義と今後への展望の会が、それなりの成果をあげ終了できました。感謝申し上げます。」ご参加の皆さん、お疲れさまでした。
学会創設(2003年)から8年の間に、本格的な出版が2冊。小さな学会ながら、たいしたものです。版元・エイデル研究所からの売行きも順調らしく、韓国への翻訳も進行中とか。この本をベースにした公民館づくりの事例も現われたそうです。
今日(25日)は孫たちが遊びに来るそうです。いい日が続きます。(南の風2738号)
■<建築学と公民館・社会教育学は共演・競演できたか>
このテーマは、24日『公民館デザイン』出版記念の会(日本公民館学会)でぶんじんに与えられたテーマでした。当日の報告をどなたか風に寄せて頂くようお願いすることを失念(最近は“失念”ばかり)。記録として本欄にさわりだけ書いておくことにします。おそらく浅野平八先生(日本大学、建築学)がコメントを寄せていただくことに期待しつつ。
与えられた時間は短く、舌足らずでしたが、大要こんなことを発言しました。『デザイン』というタイトルが秀逸、しかも本の副題「学びをひらき、地域をつなぐ」のメッセージ。デザインの施設・造型的概念に学習・地域の実践概念がコラボレイトし、これまでにない本が出来あがたこと。書き手の展開に共通して、ある種の緊張感あり、力作(とくに第2章・公民館の施設空間論)が多いこと。期待はずれ(第3章「指標」や第4章「新・デザイン」)もないではないが、建築学との“共演・競演”が日本公民館学会を舞台にいま勢いよく始まったのは確かなこと。
公民館研究のなかでも、これまで具体的な施設論への追求がなかったわけではありません。研究私史風に書けば、一つは三多摩テーゼでの施設論議、その背景にある昭島・福生をはじめとする自治体「公民館づくり」運動への関わり、国立公民館改築委員会でのデザイン作業。ぶんじんにとって建築学との画期的な出会いとなったのは沖縄(今帰仁村、名護市等)での象グループ(大竹康一さんなど)の仕事で目を開かれたこと。いずれも1970年代のことでしたが…。
そう言えば、浅野さんとお会いしたのも最初は沖縄。専攻を異にしながら、いわば別の部屋で語っていたものが、公民館学会で再会し、いま一つの部屋で面白い対話を始めている、これからが楽しみ。そんな話をさせていただきました。(南の風2740号)
■17,『公民館のデザイン』出版記念会の報告 浅野平八(日本大学建築工学科)
(南の風第2741号、2011年9月29日)
出版記念会(24 Sep 2011)には20数名が集まりました。尽力いただいた公民館学会・新井副会長に感謝です。
第1部のはじめに編集委員長として、この本の目指したもの生み出したもの、というテーマが私に与えられました。目指したことは、公民館をデザインするについて不可欠な、行政職員と建築専門職と利用者という3主体者のコミュニケーションのためのテキストとなり得る本づくりでした。生み出されたもの、についてはまだなんともですが、ここでは公民館建築史の素描と、この本がテキストとなっている公民館建設の事例(小金井)の2つをあげました。
続いて風2740号にある文人先生のお話がありました。「はたしてわれらは共演・競演できたか」という問いかけとともに、施設空間論を超えた課題を頂きました。これについて議論することが競演になったのだろうと思いますが、その時間がありませんでした。しかしご指摘いただいた5つの事項は、いずれも共演・競演に値するテーマで大事にしたいと思います。中でも「ロビーワーク」は目下、大学院生と取り組んでいるテーマです。「公民館と広場」「自治公民館のデザイン」「ミニマムな事業論」「自治体の公民館計画の再発見」など折々に南の風に乗せ議論させていただければと思います。
「公民館のデザインを読む」という演題で、笹井宏益さんからは公民館がハードウエアとして数多く残っていることの重要性が指摘されました。また機能論と施設論の合体が求められました。この合体こそ社会教育論と建築論の共演かもしれません。建築学会では施設論の中で、人・事・空間の関係を追求し、機能論は重要な近代建築の基礎理論として展開しているのですが、競演はそのあたりの言葉の整理から始まるのでしょうか。次に登壇した建築士:長塚さんからは、河野通祐先生から学んだこととして、設計に誠実であること、そこには公民館主事との対話が欠かせないことが語られました。そして、自身の設計活動の中で、場所の提供だけではない機会の提供を仕組んだ施設づくりの少ないことを問題提起しました。
締めくくりとして上田幸夫さんが「公民館学の未来に向けて」というレジメを出されましたが、時間切れで十分な解説はいただけませんでした。これにも「公民館のデザイン」に端を発した重大な視点が6項目提起されていました。居酒屋談義のネタがまた増えたと言う思いです。
2部の懇親会については続報とさせていただきます。
■<出版記念パーティ(2部)の報告>
*南の風第2745号、2011年10月7日)
先日(9月24日)の『公民館のデザイン』出版記念のつどい・2部の模様を記録しておきます。少し時間がたってしまい新鮮みに欠けますが、ご容赦下さい。
会場での話題を拾ってみますと、「公民館が地域の底力であることを示した」「副題“学びをひらき、地域をつなぐ”はよかった」「あとで加えたというエピローグはよかった(この本の成り立ちがよくわかった)」などという褒め言葉から、だんだん辛口が出るようになり、「三多摩テーゼのことが出過ぎていないか」「4章・公民館の“新デザイン”はまだまだ(浅い)」「公民館学なんて構築できっこない(しかしそれに向けて動いていることに意義がある)」「原稿に駄目出しが出来ない編集はだめ」など本質をつく言葉があり、ついには、「(この本は)難産だった」「もう辞めようと思った」という編集委員の愚痴がこぼれました。
そんなことは露知らず、参加した建築系の執筆者達4名がいました。彼らは建築家で社会教育施設研究所創設者の河野通祐先生の流れを汲む者達です。自己紹介の補足として私から、進行役の新井孝男さんの言葉「1人の100歩より100人の1歩」を引いた後で、河野通祐先生の「先ず一人から始めよ、(既存の成果物に寄りかかるな)」という教えのとおり、ひとり一人別々のところで社会教育施設に取り組んでいると紹介しました。それは彼らが公民館学に向かうひとり一人であって欲しいと願う私の気持でもありました。
改めてこの本のことを思うと、果たして社会教育と建築のコラボができたのか、その確信はありません。機能論・施設論を合体させた施設空間論というコラボのステージが用意された、というべきかと思っている所です。
■18,「公民館のデザイン」と小金井方式
(南の風第2950号、2012年9月9日)
昨日9月8日午後は、日本公民館学会・定例研究会(今年度第3回)でした。学会編『公民館のデザイン』(2010年刊、エイデル研究所)が活用された小金井市「貫井北町地域センター」(公民館+図書館)の建設設計構想が報告されました。市民の参加を大事にした構想づくり、事務局(コーディネート・プロデュース役)としての公民館担当者(社会教育主事)の積極的役割、地域センター・多目的施設に図書館との併設による公民館の設計(ホール、ロビー、学習室、生活室、創作室、飲食コーナー等のデザイン)、その歩みが「小金井方式」として語られ、印象的でした。
小金井市貫井北町は東京学芸大学の所在地、建設予定地は約30年を通った道の一角です。小金井市の委員を数期務めたこともあり、学生サークル「麦笛」「麦の子」(児童文化運動・子ども会活動)の関係もあって、市民の皆さんとお付き合いしてきた歳月がありました。四半世紀前の当時の思い出を懐かしんだひとときでした。
浅野平八先生ご指摘の「戦後公民館史の中の小金井市公民館」(上掲)は(調べてみたら)確かに小文を書いておりました。『小金井公民館25年のあゆみ』(同公民館刊、1980年)に掲載されています。「25年史」に寄稿を求められ、挨拶に毛の生えた程度、本格的な論文ではありません。福岡・油山文庫に運んだらしく、現物はいま確認できませんでした。
当日の何よりのニュースは、『公民館のデザイン』が韓国・延世大学によってハングル訳され、目出度く刊行されたこと。立派な本です。聞けば学会編『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』(2006)も翻訳中だそうです。どんな方々の努力によるものか、反響や如何? 韓国研究フオーラムの皆さん、情報があれば教えてください。
*付記 小金井市公民館については「40年の歩み」に寄稿した拙文がありましたのでHP
掲載しました。「公民館の新たな歩みをきざむ課題」(1993年)‥その中に 「25年史」に書
いた「戦後公民館史のなかの小金井市公民館」(190年)にも触れています。→■
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