岩本陽児 ★レディングの風2013★
★岡上通信(2012〜2013)沖縄・高知・公州・モンゴル・ミャンマー、松本)本文
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(レディング通信U2009〜2010、山東、紹興・上海レポート2010)
★レディング通信T(2000〜2002) 未入力
▲和光大学・岩本陽児さん(20070408)
■(58)レディングの風(2013) 17−
■(57)レディングの風(2013) 16−9月4日水曜 (Sat, 5 Oct 2013 21:32) 南の風317 号
「朝の9時半に最寄駅までおいでください、ウィズリーガーデンに招待しましょう」と知人から連絡。そこで、早朝のためレイルカード割引の効かない往復20ポンド(邦貨3400円)もの鉄道切符を入手して、非常勤講師のTさんと出かけてきました。(ちなみに、10時以降の割引値段だと、ロンドン往復+乗り放題切符が2500円弱。)
ウォーキング駅で迎えてくださったのは、ロンドン日本人学校(補習校)時代の同僚で、職員室で机がお隣だったI先生。今はD大学ロンドン事務所の職員でもあります。
じつは本日は「秋のガーデニングショー」の初日。平日のまだ10時過ぎなのにもう、駐車場に行列している車列に驚きます。
I先生とはしばらく連絡がなかったという、旧知で佐世保出身のKさんも、私のために駆けつけてくれました。サリー州の森に取りつかれたそのお話の、また面白いこと。
広大な庭園では、庭用の彫刻作品の展示もやっています。一角に大型テント。ここでは、ダリアの品評会が開催されていました。色の鮮やかなこと。はじめて見る花型もいくつかありました。
周辺には業者の小型テントが立ち並び、宿根草やシダのポット苗、球根類、園芸用品からアート作品まで、色々なものを商っていて、善男善女でにぎわっています。地元民であるIさんは、自分の村でこういうショーがあっていたとは知らなかったそう。さすがにKさんは知っていましたが、長らくウィズリーには来ていないそうで、もとの大テントだけの時代のことをご存じ。「ずいぶん変わりましたね」とは、私も同感でした。
今日も英国の9月とは思われない、暑さを感じる晴天です。西暦2000年を記念して造られた大温室の前には、先年、私が感激した「風知草」のグラウンドカバーがあります。日本では大鉢に植える程度で、信州松本でもよく見ましたが、これを英国人は、漢字の意味を知っていたわけではないでしょうに、面で地植えにして、そよぐ葉で風を目視できるようにしていたのです。植物の使い方の達人よと私は狂喜し、絶賛したのですが、行ってみると、あれっ?・・・ない。
なんと、あの素敵な風知草のグラウンドカバーは、ありきたりの芝生に変わっていたのでした。ああ、がっかり。けれども、あの風のそよぎは今も、私の目に焼き付いています。
はらもきたやま、で、涼しいあずまやに移動。そこでI先生が手提袋から取り出したのは、心づくしの素麺とツユ。思いがけない昼ごはんでした。ウィズリーでおにぎりを食べた人のことは知っていますが、「素麺は天地開闢以来ではないか」と話したことです。
5時の閉園まで、園内のあちらこちらにTさんを案内。しかし、果樹園や試験園など行かなかったところが多々あります。ここは王認園芸協会が世界に誇る、最高のイングリッシュガーデン。一日で回りつくせるような、ヤワなところではありません。
夕刻、乗換駅のベイジングストークで、新しくできた大型ショッピングセンターを抜けて旧市街をぶらぶらし、市場で売れ残りのトマトを買い求めてレディングに戻りました。旧市街にはNPOが運営するチャリティショップが数軒。思わず立ち寄ってしまうところです。いわゆる動物愛護協会RSPCAのお店もありましたが、これは早じまいの後でした。
中華レストランはあるのですが、中華鍋を扱う店を見ません。この頃中華鍋が気にかかっているのです。
■(57)レディングの風(2013) 15− 9月3日火曜 (Fri, 4 Oct 2013 10:53) 南の風3170号
朝、夢を見ました。なんと昨日のテムズで見た川を横切るロープウェイに乗っています。時々エアポケットのような落下感があり、スリルとサスペンスを味わいました。さっそく、時間もかけずに無料で楽しんだとは、お得な夢でした。
さて、本日はえいたび公式日程二日目。今日は学生とレディングを歩きます。まず、朝10時に旧知のジル・ベッツさんのお宅を訪問。英国田園生活史博物館に私が留学していた頃の、教育官だった方。お茶をいただき、お庭を拝見。さらに、庭のりんごの実をもいだのを、味見させてもらいました。学生大喜び。
引き続き、ジルさんの案内で、大学キャンパスを横断して「ハリス・ガーデン」を見学。ジルさんはここの運営委員をやっています。
園内では、もとあった大木が切られて地べたが明るくなったところに、新たな植樹がされているのが目につきました。ただ、プレートをよく見ると、故人の追悼の植樹がおおく、中には卒業前に亡くなった学生を記念するものもあって心が痛みます。ガーデニングの素養のない学生たちには、何といっても、このガーデンの広さが印象深かったよう。
大学食堂で、フィッシュ&チップスなどの食事。学生は割引料金となります。それから、大学図書館へ。上階の専門書の書棚で時間を使った後、学生たちは一階カウンター前の除籍本の売りものや、「ご自由にお持ちください」本を熱心に物色していました。
キャンパス内のバス停から、街に向かいます。16世紀前半にヘンリー八世が打ち壊したレディング修道院廃墟や、ジェイン・オースティンが通った学校、クロムウェルの内戦時代の激戦地だったフォーベリー公園などの一帯を歩き、日本では見たこともない「桑の実」を摘んで珍しげに味わっていました。これが、「夕焼け小焼けのあかとんぼ」に出てくる桑の実なのだよ。
街のチャリティショップや書店を紹介した後、バスで10分ほどの大型スーパーに足を延ばしました。あれこれ買い物を済ませたのですが、それからがさあ大変。
10分待ち、20分待ちしても、帰りのバスがさっぱり来ないのです。「どうしてバスが来ないんですか?」そう学生に聞かれても「それはね、ここがイギリスだからだよ」と答えるしかありません。
結局、待つこと1時間あまり。バスが来た時には、「やれうれしやありがたや、やっと来てくれてありがとう」と、感謝の念があふれてくるのです。ことほど左様に、精神修養によいイギリス。
■(57)レディングの風(2013) 14−9月2日月曜 (Wed, 2 Oct 2013 17:10) 南の風3169号
今日は自由日で、学生の面倒見はありません。私はTさんと、テムズ・バリア(防潮堤)を見学にロンドンへ。パディントン駅では今度、高速地下鉄を通すそうで、展示があっています。未来を見通すために過去はどうだったかを見せようというのがいかにも英国人の考えることですが、幕末明治の工事写真が面白く、見ているうちに時間が押してしまいました。ウェストミンスター駅からテムズの埠頭まではほとんど小走り。それでも、12時半の遊覧船に無事乗れました。上階のデッキに陣取ります。
船頭さんは、本職のガイドではないと断りながらも、旧税関やグローブ座など、両岸の建物、見どころを要領よく説明してくれます。(英国で、正式なガイドのバッジを得るには、猛勉強が必要なのです)。
今日も晴れていて、青空が広がり快適。とても9月のロンドンとは思えません。
船はところどころに着岸してから、グリニッジの埠頭に着きます。ロンドンはそれ自体が貿易港であったことがよく分かりました。グリニッジでほとんどのお客は降りてしまいましたが、私たちのお目当てのテムズ・バリアはさらにその下流。昨年のオリンピックゲームでも使われたドーム「
O2アリーナ」の横を通ります。鉄骨がいくつも突出していて、悪いけど私には、電子顕微鏡写真で見る「だに」のように見えます。
今回の発見が、私たちの上空を渡るテムズ横断のロープウェイ。あの高さから真下を見たら、さぞこわかろうと思ったことでした。あとで調べたらテムズ・エアラインというそう。ふるった名前ですが、飛行機でもないのに「空中線」とは、うまいことを言ったものです。かように英人は、英語の使い方が達者です。
テムズ・バリアは、高潮被害を防ぐために川底から防潮堤がもっこり出てくる壮大な仕掛けです。岸から望遠レンズで撮った圧縮感のある写真で見ることが多いせいか、こうやって実物を見ると、巨大には違いないのですがセッティングの方がもっと広大なので、間延びした感じがします。
私たちの船はいったんバリアの下流に出て反転し、テムズをゆっくりさかのぼって、再びグリニッジに着岸。私たちはそこで下船です。
ここは、川沿いに海軍学校、山手のほうに標準時で有名な旧天文台があって、一帯はユネスコ世界遺産の指定を受けています。市場でパンと飲み物を求めて、海軍学校敷地内のベンチにて持参のハムチーズを挟んでピクニック。しみじみと、空の青いところです。
駅に向かう不動産屋のウィンドウで、結構なお値段の住居を拝見。売り物の家屋にエネルギー効率を示すABCD・・のランキング情報がついていることを初めて知りました。前にはなかったものです。こういうものを見せつけられると、「ことによると、この国は先進国なのではないだろうか」という気持ちになりますから、不思議です。
グリニッジ駅で乗車した列車を終点のふたつ手前のロンドン・ブリッジ駅で下車。ナショナル・トラストの持ち物であるシェークスピア時代からのはたご(現、パブ)「ジョージ・イン」を経由して、下見。のどを潤してからレディングに引き揚げました。
■(56)レディングの風(2013) 13−9月1日日曜:英国の環境保護
(Wed, 2 Oct 2013 10:21) 南の風3168号
いよいよ「英国の環境保護」授業の初日です。学生とレディング駅に集合し、ロンドン北部のハムステッドに出かけました。
まず、やられたのが、地下鉄ノーザン線の工事運休。「ハムステッド駅は閉鎖」と。おそらく工事情報は事前にインターネットで公開されていると思いますが、私からすると実際に乗換駅まで行って貼り出しを見なくては分からない点がいかにも英国風で、このシステムは21世紀になっても相変わらず健在でした。別の駅に戻って、掲示にあった代替バスを利用します。
ハムステッドまでの道のりには瀟洒な住宅街が続いています。19世紀半ばに、もと良好な田園地帯だったこの一帯が宅地化されたことは、後年の英国環境保全運動発動の原体験のひとつでもあります。車窓から現状を観察できたこと私はもっけの幸いと思ったのですが、どれくらい学生に通じたかな?
折から骨董市の開かれているハムステッド・コミュニティセンターの一角で、まずはトイレ休憩と腹ごしらえ。地元のおばさんが電子レンジでチンしてくれる手作りラザニアが4ポンド(邦貨700円弱)で、この地域では破格の安値でした。コミュニティセンター(チャリティ組織として地元のボランティアが運営委員会を作っています。骨董市は、おそらく貸館のひとつか)は
… 公民館のような教室・実習室などはありませんが、台所には一通りのものが揃っていて、人寄せには便利にできています。日本の公民館の厨房・調理室も、かように使えば、少々の縁日程度の人出には、じゅうぶん軽食を提供できると思っています。金銭授受さえいとわなければの話ですが。
1時半から、ご近所にあるナショナルトラストの屋敷「ウィロウロード2番」ツアーに参加しました。ビデオを見た後で、ボランティアガイドの説明を聞きながら、1時間かけて屋敷内を一覧します。ここはユダヤ系ハンガリー人建築家、アールノ・ゴールドフィンガーが1939年に完成させた自宅兼オフィス。強化コンクリートの四角い建物です。1920年代にパリで教育を受けた彼の先達には、古典主義的な強化コンクリートの使い手であったペリエと、日本でも有名なル・コルビジエがいました。
第一次大戦後のモダニズムの洗礼を受け、第二次大戦を生き抜いたこの建築家は、同世代のヘンリー・モー(日本名ムーア!)、バーバラ・ヘップワースら、そうそうたるアーティストグループとの交流も深く、ハムステッドは文化人の集まる町でした。
以前は時間入場制といっても、単なる混雑緩和が目的だったようですが、今回はボランティアガイドのジェフさんの説明が実に行き届いていて敬服しました。何しろ、最初に上映していた導入ビデオの誤りまで指摘してくれるのです。
さて、ウィロウロード2番のこの家は、計画が発表された時点で激しい反対運動に遭遇します。007シリーズの「ゴールドフィンガー」は、やはりハムステッドの住人だった原作者イアン・フレミングがこの四角い家を憎んで、作中の悪役の名前にしたエピソードは良く知られています。しかし、今回のジェフさんによると、鉄筋コンクリートをレンガで覆うなど、この建築家は周囲の18世紀の街並みとの調和をもくろんでいたそう。結果的にこの建物は出来たわけですから、そういうことだったのかもしれません。しかも、本邦でありがちな建築家デザインのお屋敷の、鬼面人を驚かす外観・内装と違い、コンクリート素材や鉄柱の持ち味を生かした窓からの眺望や、片持ち螺旋階段による採光確保、隅を丸く面取りしたフローリング、収納スペースなど、住まう立場、使う立場からの工夫が行き届いています。同じ鉄筋コンクリート製でありながら、日本の公団住宅的な大量生産品とは発想がまるで違うことが印象的です。
ゴールドフィンガーは、ジェフさんの説明によると、後年、アレキサンダー・フレミングの家も作ったそう。これは、ペニシリンを発見したフレミングです。
ところが、近所の別のナショナルトラストの屋敷「フェントン・ハウス」まで行って、そこを一覧した後になって、ウィロウロードの記録当番の学生Nが、ジェフさんの説明を「全く理解していなかった」ことが判明。閑静な庭の一角のベンチで、小半時かけて先ほどの話を巻き戻して私が日本語で説明しなおす仕儀となりました。フィールドワークの引率は、けっこう大変です。
さて、フェントン・ハウスの話といきましょう。もと、私はこの17世紀のタウンハウスの簡単な案内パンフレットを邦訳して係員にプレゼントし、「コピーして日本人ゲストに配れるワ」と喜ばれたことがありました。当時の女性担当者ジェインさんは「ひと稼ぎしようとトラストを退職して、いま自営業になっていますよ。まだ儲けたという話は聞かないのですが」と、後任のイアンさんが教えてくれました。彼はこの四月に着任したばかりといいます。
ここは2005年の第一回「えいたび」でも訪れたところ。その時、学生がさっさとセミナーを始めたシンク・ガーデンが、今もまったく同じように見えます。それでも、いくらか変わったところもあります。アスファルトのテニスコートをつぶして作ったキッチンガーデンはより充実し、花と野菜が楽しく育っていました。オーガニック農法であることが分かるようにできています。
夕刻レディングに戻ってみると、飛び入り学生も無事到着していました。美しい夕焼けを見た後で、夕食は、昨日と同じ商店街にある南インドレストランに全員で入りました。ここで供される南インド料理は汁気がなくて、いわゆるインドカレーとはまったくイメージが違います。
■(55)レディングの風(2013) −12 <8月31日・土曜>
(Mon, 30 Sep 2013 14:23) 南の風3167号
昨日外出だったので、今日はおとなしく、レディングで用足しの日にしました。まずはTさんの両替のお付き合い。ちょっと上等な食品や、まずまずの衣料品を商うスーパー「マークス&スペンサー」は、規制緩和のおかげでいま、旅行用の両替商も営んでいます。銀行ほどではありませんが、ここは「トマス・クック」などよりも若干、分が良い、のです。
規制緩和と言えば、大型小型を問わず、ほとんどのスーパーマーケットが店の外に無料のキャッシュマシーンを置いていることに気付いたのも、今回の発見のひとつでした。日本と違い、銀行が違うからという105円の使用料はかかりません。24時間、無料で使えます。日本の常識と、こちらの常識が異なる一例。さらに朝食用のベーコン、ソセッジなども、肉屋で買い求めました。それから、究極の「エルサンタ」いちご。
お昼は、ビルマ人眼科医のU Myint先生と、玲子夫妻のご招待です。ジェイムズ、まりの夫妻とTさんと私のつごう6人で、子羊のローストをいただきました。付け合せの野菜豆やズッキーニは、裏庭の菜園でとれたもの。最高のおもてなしです。日本人どうしがこんなに近くに住んでいながら、2009年に私が来るまで、お互い知らなかったといいます。いろんな話題でたっぷり盛り上がりました。
夜、4名の学生が、ホームステイ先であるジェイムズ・まりの夫妻の家に揃いました。いよいよ「英国の環境保護」フィールドワークの始まりです。由緒ある明治の洋館にホームステイをさせてもらえるというのは、今回の学生が初めて。ありがたいことです。
まずは夕食をというので、近所のクライストチャーチ商店街の持ち帰りケバブ屋に案内しました。面白いことがありました。
学生たちが、白いマスクをして店に入ったのです。なりの大きな警察官が5,6名ほど先客だったのですが、彼らのギョっとしたようすは見ものでした。さっそく、地元のおじさんから話しかけられて、英語で四苦八苦している学生を見て、ほほえましく思いました。
■(54)レディングの風(2013) −11<8月30日金曜> (Wed, 25 Sep 2013 03:14) 南の風3165号
本日は、非常勤講師のTさんを案内して、オックスフォードまで足を延ばしました。レディングから、列車で20分ほど。鉄道駅から市街地に向かいます。途中の中華食材店は健在。中華鍋を8ポンド弱で売っていたのに心動かされましたが、ひとまず片栗粉だけ購入。それから屋外市場に向かいました。が、金曜なのにやっていません。どうしたことでしょう。
アシュモーリン博物館に行き、一覧だけのつもりが結局5時の閉館近くまで、ゆっくりと楽しみました。委細は書き出すときりがないので省略しますが、日本コーナーでは並の日本人が知らないような日本の事がらを簡潔に説明してくれているのが印象的。お隣の中国コーナーでは大家に混じって80年代生まれの若手芸術家の書画も展示しています。博物館が「文化を育てる施設」との認識を新たにしました。
その後、私の好きな「屋根付き市場」に行ってみると、もう店じまいの時間でした。ウサギやシカ肉も扱う肉屋や、ディスプレイがちょっと高級そうな魚屋は特に早じまいなので、残念でした。「オックスフォード・ティー」を売っているお茶屋さんも、あいにくでした。
それでも、チャリティ団体の草分けともいえるオックスファムの元祖チャリティショップを見たり、記憶を頼りに古いパブ「ラム&フラッグ」を十数年ぶりに訪ねあてたりしたのは収穫でした。
夕刻7時半からの「ゴーストツアー」に心ひかれましたが、ピリピリ・チキンの食堂に入って時間が押してしまったので、またの機会にということにしてしまいました。中年は体力がありません。意気地のない事です。あてにしていた中華食材屋も帰りには閉まっていて、鍋を買いそびれました。
■(53)レディングの風(2013) −10 <8月29日木曜> (Mon, 23 Sep 2013 18:55) 南の風3164号
*小林先生 岩本です。いま、ヒースロー飛行場のゲートに来ています。あと10分で機中の人となります。
24日夕刻に帰着の予定です。近々お目にかかります。…
朝のうち、Tさんをレディングの中心街に案内しました。
ナポレオンを負かしたウェリントン公爵ゆかりの名前がついたデューク・ブリッジ(公爵橋)は、18世紀の石橋です。そこからテムズの支流、ケネット川ぞいのフットパスを使ってアビー(修道院)廃墟。ウィリアム征服王の息子、ヘンリー一世によって平安末期の12世紀に開山され、16世紀の前半にヘンリー八世に解体された、この国でも屈指の修道院だったところ。お隣が、19世紀の耽美派詩人オスカー・ワイルドが投獄されていたことのある刑務所です。ヶネット川に面したこの一帯では、夏前に、環境祭りの一種「ウォーターフェスティバル」が開催されています。ホームセンター「ホームベース」まで歩き、留守番用自動灌水器のスペアを購入して折り返。ジェイン・オースティンが学んだアビースクール、銅像のライオンの足がちぐはぐなフォーベリー公園を案内して、路線バスに乗り込みました。
午後のお目当ては、中心街の西の方にあるオックスフォード・ロード。この道をまっすぐ行くとオックスフォードという安易なネーミング、おそらく、イングランド南方の街にはどこにでもある地名かと思います。
ここはインド系、カリブ系、ポーランド系などさまざまな移民が多く、問題をあれこれ抱えた地域でもあります。その一方で、地域づくりへの努力も多々行われていて、興味深いところ。私は前に、ここの公共図書館「バトル・ライブラリー」が、地域づくりの拠点としてまるで公民館のような注目すべき取り組みを行っていることを『むすびめ』誌に寄稿したことがありました。その後の取り組みにも関心があります。
今回はチャリティショップを数軒、見学して、品ぞろえを見分。チャリティショップは地域の人たちがいろいろな品物を持ち寄ってNPOの運営資金に換えるところです。地域色がストレートに現れると、私は見ています。今回見て回ったチャリティショップには、実際ろくなものを置いていませんでした。
インド系のボランティアに、カレー屋さんを紹介してもらい、昼からの開店まで待つことしばし。入った店は、可もなく不可もなしでしたが、おばさんは大変話し好きでした。まだ開店して二か月だそう。近所にあった立派なインドレストランはなんと、つぶれていました。いろいろあります。
インド系のエスニックスーパーで、見慣れないものをいくつか購入。濃い砂糖水に、ビャクダンの香りをつけた清涼飲料水の元は珍でした。
再び町に戻って。中心街のショッピングセンターにできているポーランド食材店に入りました。ケーキ類の美しいこと。ここで求めた鶏胸肉の燻製は火の通り具合が絶妙でした。こういう素敵な食品が日本でもお値ごろに買えるとよいなと思います。
■(53)レディングの風(2013) −9 <8月28日(2)承前>2013/09/22 06:41: 南の風3163号
バスで英国の農村地帯を行くことは、そう、あるものではありません。対向車の少ないアスファルト道を、快調に飛ばしてくれます。さっそくの発見は、収穫の終わった麦畑の周囲が、縁から5メートル余りでしょうか、「野草畑」になっているところ。生産本位の農業から、環境にやさしい農業に転換したEUの共通農業政策(CAP)については有名で、こうした農法については、これまで印刷物などで見たことはありましたが、実見は初めてのことでした。バスでよかった。
バスの乗り換えをするオールトンには、女流文学者ジェイン・オースティンの旧居もあります。そうこうするうち、バスはセルボーン村に入ります。愛らしい草ぶきのコテッジが多いところです。
お目当ての「ギルバート・ホワイト博物館」は、すぐに見つかりました。入館料はガーデン込みで大人ひとり8ポンド50(邦貨にして1500円弱)。おお、結構なお値段です。日本でよく、「英国は博物館が無料でいいですね」と、言われることがありますが、なかなか。それは国立の博物館と大半の公共博物館だけで、ここのように小さなNPOが運営している館は概して有料。それにしても8ポンド半とは、けっこうな額です。ちなみに、ガーデンだけでも6ポンド半。ここまで来て、入館しない人はあるまいと踏んだと、私は見ました。
ギルバート・ホワイトは、この村で生まれ、牧師になるためにケンブリッジ大学で学んだあと帰村し、村の教会牧師として一生を終えました。彼の人生を、幼少時の「南海泡沫事件」など、時の出来事とだぶらせて示した展示は興味深いものでした。同行のTさんが写真を撮ってくれるというので、ホワイトのマネキンの横に立ちましたが、なんとも小っちゃいお人。北のブロンテ姉妹もそうでしたが、成長期に栄養が足りなかったのでしょう。
名著『セルボーンの博物誌』は世界中の翻訳ものが展示されていて、もちろん、邦訳本もありました。旧居のベッドルームや書斎の復元展示のほか、館内の一部は、その後の住人で探検家を輩出したオーツ家(この屋敷のその後の住人で、最後にここをホワイトの博物館とした人たち)一族の事績を示す展示となっています。そこには、アフリカの羚羊や、ペンギンの剥製がおいてありました。
裏庭がとてつもなく広く、キッチンガーデンや果樹園の向こうには、広々とした草地。屋敷近くの牧草地と違い、奥の方は伸ばすだけ伸ばしたあと最近刈り取っています。その様子から、生物多様性に配慮しているナと推察しました。
フォーカルポイントとして、ワインの空き樽が盛り土の上に置かれていて、中には椅子がしつらえられています。左手のずっと奥にはヘラクレスの像がありますが、遠目にはまだしも、近くに行くと笑える仕掛け。なんと、立派な台座の上に据えられていて何メートルもの高さがありながら、その厚みはたった5センチほどなのです。だまし絵の台座だけ3D版と言いましょうか。お金がない分、ギルバート・ホワイトが工夫をして知恵を絞った、その気持ちが分かりました。類例があるのか、知りたいところです。
ここには、野外学習センターが設置されています。訪ねてみると、これから30人ばかりを対象にしたセミナーがあるのだそう。ちょうど準備が終わったところでした。キツネやフクロウなど、肉食動物の剥製の足元に、その餌となるねずみなどの剥製が添えてあります。小魚の水槽も置かれています。
私が話しかけた女性はアーウィン博士といい、彼女は以前、日本の学校に招かれて、横浜や富山に行ったことがあるとか。日本人のお花見が大変興味深かったと言っていました。
帰途、オールトンの町のホテルで遅い昼食。Tさんはフィッシュ&チップス、私はスカンピ(アカザエビ)&チップス。おそらく、どれも冷凍ものでしょう。Tさんには言いませんでしたが。
■(52)レディングの風(2013) −8 <8月28日> (Wed, 18 Sep 2013 22:07) 南の風3162号
*週明けの帰国の日取りがだんだん迫ってきました。この頃の朝方の最低気温は9度です。 Re:
元気いっぱいのTさんと、ギルバート・ホワイトのセルボーンへ。産業革命時代の米国から、訪ねる人が絶えなかったというセルボーン村へは、私たちは南方のベイジングストークという駅でオールトン行きのバスに乗り換え、そこでもう一度乗り換えてたどり着きます。さっそく、珍しい経験をしました。
ベイジングストークの鉄道駅を降り、自動改札を出ようとすると、前の男の切符が拒否されました。ところが彼は、私の切符で開いたゲートをさっさと出てしまい、後続のTさんの切符で私が出て、と、Tさんがゲート内に取り残されてしまいました。大柄な女性の駅員に事情を話したところ、彼女がこれまたもっちゃりしていて。・・・ようやくTさんは出られたのですが、その間、童女が自動改札ゲートに頭をはさまれて大泣きするのを外してあげるやら。いろいろあって・・・英国を感じました。
お次は素敵な体験。
駅を出ると、バス乗り場がそこにあるにはあるのですが、どこで乗るのかがよくわからない。来たバスの運転手に尋ねると、「これに乗れ」と。うながされるままに乗ると、次が終点バスセンターで、オールトン行きの乗り場はこの隣と教えてくれました。もちろん無料。英国にいると、日本人が日本で暮らすよりも、起伏の多い体験をすることが多いように思います。(つづく)
■(51)レディングの風(2013) −7 <
8月27日> (Tue, 17 Sep 2013 03:38) 南の風3161号
今日も見事な晴天です。時差ぼけとりをかねて朝から、宿舎から歩き、非常勤講師Tさんをレディング大学の図書館に案内しました。クロムウェルの戦争の時代にはここが王党派の豪族が居を構えるホワイトナイツ・パークだったこと。時代下ってビクトリア時代。この地所が7つに分割されて、結構なお屋敷がつくられ、それが法学部などの建物として今使われていること云々。道すがら、そういうお話もしました。
レディング大学スチューデント・ユニオンRUSUの建物の中に出来ている韓国食材店「ソウル・プラザ」で、豆腐、韓国米などを購入。韓国食材のほかに、中華、和物もあってありがたいことです。さらにバスで街に出て、滞在中必要なこまごましたものに加え、19世紀創業の肉屋ヴィッカーズにて、鹿肉ソーセージ、スモークベーコンを購入。こういう、日本ではあまり見かけないものを選んで味わえるのが、自炊の楽しみです。トマトの半裁と、ベーコンとソーセージを弱火でじっくり加熱して、これに目玉焼きを添えるといわゆる「イングリッシュ・ブレックファスト」の完成です。
宿舎は、台所を改装中でしたが、奥にある台所とつながったおかげで4口のガスレンジ、グリル、オーブンが使えるようになり、楽しみが増えました。前は、ポータブルの電気レンジだったのです。ありがたいことです。この日は、今後に備えてゆっくりと過ごしました。
■(50)レディングの風(2013) −6 <8月26日(バンクホリデー・マンデー)>
(Fri, 13 Sep 2013 07:42)
南の風3158号
英国では休日が、日本の国民の祝日ほどには多くないのですが、本日はバンクホリデー。銀行がお休みになると、国じゅうが活動を停止するというのは、資本主義国の元祖ならではと思っています。
8月のバンクホリデーの週末は、夏の終わりの最後の行楽の機会。道路、鉄道ともかなり混雑します。
私は昨日の日曜から、南の村で開かれている、スワロウフィールド・ショーに出かけました。拙宅から車で出かけていた頃は、10分もあれば着いていたところですが、今回は初めて、バスを使いました。そのバスは宿舎の近くを通っているはずなのですが、バンクホリデーということもあり、どうにもよくわからない。結局、駅まで出て、始発に乗ることにしました。そもそも本数が少ないので、のり逃がしたらアウト。やむをえません。お客は意外に少なく、ショーに行く家族連れと私をふくめて、7人ばかり。
今回、バスに乗ってよかったと思ったのは、バスが私の知らない道を通ってくれたことです。スーパーマーケット「モリソンズ」の裏手から郵便デポなどある殺風景な産業地区を抜けたかと思うと、バスは西に転じました。するとそこには、今世紀に入ってからつくられた、中・低層アパートを中心にした瀟洒な住宅街が広がっているではありませんか。知らなかったなあ。これには驚きました。周りを高速道路や産業道路に囲まれ、島のようになった住宅街です。
さらに、M4高速道路の南にも、レンガの真新しい、戸建て住宅街が出現しています。
「M4高速道路が住宅地の拡大を食い止めて、田園との境界線となっているのだから、その南の田園地帯に住宅街はいらない」と激しい反対運動があったのですが、開発圧に対しては力及びませんでした。
さて、英国の物価上昇をここでも感じることになりました。もとは3ポンド半だったと記憶する入園料は、いま大人7ポンド(邦貨1200円)。しかし、ショーグラウンドに入ってみると、例年通りのレイアウトです。入るとすぐに、いつもの花屋の出店が迎えてくれます。5ポンドの鉢植えの中に、信州にも自生する「クジャクシダ」を初めて見ました。日本で見るよりも、もっさりと詰んだ大株に茂っています。楽しげな和音を響かせてくれる自動オルガンも、いつも通り。
このカントリーショーは、地元の園芸協会の主催ですが、アリーナでのイベントが充実しているのが特徴です。
奥のアリーナは馬術競技専用。反対には、ドッグショーのコーナーもあります。メインの中央アリーナでは、クラシックカー、馬の曲乗り、オートバイのスタント、鼓笛隊、鷹匠のデモンストレーションなど、それぞれ日に二回ずつのパフォーマンスです。
大型テントは、片方が地元の人たちの文化祭。ここでは野菜や切花、鉢植え、鶏卵、はちみつ、ケーキ、アマチュア写真、絵画、子どもの工作、編み物その他、いろいろなものが部門ごとに展示されていて、入賞作品にはメダルがつけられています。野菜や切り花は夕刻になるとセリにかけられます。私は以前、セリ落とした巨大玉ねぎや巨大ダリアを家に飾ったこともありましたが、今回は4時過ぎのバスを逃すと6時過ぎまで帰れませんから、今回それはなし。
日の高いうちに街に戻り、駅前で食料品などを買い求めて宿舎に戻りました。休日なのに、夕刻6時までスーパーが開いていました。もとは4時の閉店で、そういうものだと思っていましたから、英国も変わったものだと感じます。
夕刻、和光大学で「環境教育学」の非常勤講師をお願いしているTさんが、韓国・仁川経由で到着しました。遅い遅いと案じていたら、間違えて家主さんの自宅にタクシーで行ってしまったそうで、車で送り届けてもらった時には、もう9時。長い一日であったろうと思います。
■(49)レディングの風(2013)−5 <8月25日 日曜>
(Fri, 6 Sep 2013 13:33) 南の風3153号
*英文目次校正の件、出先でプリンタが使えなくて難渋しています。本日ようやく、自分の時間が作れました。数時間
うちに最終のご返事ができるものと思います。レディングの風の続きをお送りします。よろしくお願いいたします。
2日目、またも早朝覚醒。4時半です。どうにもなりません。明るくなってから、頭の重さに二度寝したら、今度は9時半。もそもそ起き出して、昨日購入のベーコン、ソセッジ、トマトをフライパンで油煎りしてイングリッシュ・ブレックファスト。最後に卵を落として目玉焼きをつくりました。これと、二本1ポンド(170円弱)の甘い甘いトウモロコシをひとつ。
食後、せっかくなので、フルーツスコーンも切腹して、牛津ママレードとクロッテドクリームをたっぷり載せて、ダージリン一番摘みでお茶。われながらよく食べます。
食堂の奥のドアが開いて、中年男性が出てきました。裏にある部屋の住人で、初めて会うニールさん。冷蔵庫からビールをごっそり取り出して、今からノッティングヒルのカーニバルに行くのだとウキウキしています。8月バンクホリデーの週末の、恒例行事。しかし私は、一度も見たことがありません。
平日は10分おきに宿舎の前を通るバスが、日曜は30分おき。そこで、坂を上がって裏手に回ります。そこには、拙宅の近くで折り返す緑色バスの停留所があります。日曜の昼間は20分にひと便。これに乗って、駅に向かいました。今回初めてとなるロンドン行きです。お目当ては、大英博物館の近くのロイヤルナショナルホテルで開かれている月例絵葉書フェア。すでに手持ちの800点を、和光大学総合文化研究所のプロジェクトとしてインターネット博物館を公開する段取りなのですが、その追加材料の仕込みです。
折から改築中のレディング駅では、施設が大きくなった分、ホームが遠くなったと実感しながら、列車に乗り込みます。北列車はたった三両編成で、幸い私は座れましたが、えらい混みよう。途中、信号停車をしながら行くのですが、とにかく車内の暑いこと。義侠心を発揮して、ポケットの工具で窓を開けてくれたインド系の青年が喝采を受けました。朝のうちは肌寒かったのですが、晴れると急に気温が上がります。パディントン駅に着いて、暑さでへばっている女性もありました。異常な晴天続きです。
2年ぶりのロンドン地下鉄は、以前よりも表示やアナウンスや設備が親切になっていました。これも昨年のオリンピック効果でしょうか。それから、駅でインターネット接続が利用できますとのポスターも。せっかくだけど、ロンドン地下鉄でPCを人目にさらすのは、いかにも剣呑です。
ホテルでは、まず古本市会場の方を一覧し、フォスコ・マライーニなる著者の『随筆日本』(直訳すると、日本と出会う)をサマーセールの2ポンドで購入。1959年の本でした。
それから、絵葉書フェア会場に転進。約3時間で、財布がたいがい軽くなった頃、終了時間が近づいて、片づけを始める業者が出てきました。よくできています。当たり前すぎて書き残されない身近な環境の変遷を絵葉書から読み解くことが、私の主たる狙いですが、すでに311前の2009年から関東大震災、水害などの天災ものもコレクションをはじめていたので、これも追加しました。
今回の大収穫は、はなはだ個人的なことですが、私の生まれた長崎、高島の古い絵葉書を数点、見出したこと。炭鉱の島が戦前、どういう経緯で絵葉書になったのか、興味は尽きません。
せっかくなので、どこかで音楽でも聴いて帰ろうかと思いましたが、ひとまずは無理をしないことに。ピカデリーサーカスにある「ジャパンセンター」に立ち寄り、フィールドワークに来た学生が弱音を吐いたときのための日本食品が揃っていることを確認し、私が前に関係していた無料の邦字新聞をもらって、何も買わずに日の高いうちに帰りました。
■(48)レディングの風(2013) −4 (Mon, 2 Sep 2013 23:48)
南の風3152号
<8月24日つづき・またも思いがけぬ再会>
ガーデンパーティが開かれるディビッドさんのお家は、ジェイムズ家から自転車で南に15分ほど。いま、人に貸してある拙宅の近くにありました。予定の6時半よりもだいぶ早くに着いて、ディビッド夫妻とは、ジェイムズに紹介されて初対面の挨拶をしたのですが、この旦那とはどうもどこかで会ったことがある???そう、思い出しました。
私がもと研究のベースにしていた英国田園生活史博物館に90年代半ばにやってきた、あの技官(テクニシャン)のディビッドだったのです。
その後ほとんど年を取ったと見えない彼と違い、私は頭に白いものが目立つようになりました。彼はすぐには私のことを思い出しませんでしたが、親が来た時に、彼が修復した市立博物館のジプシーワゴンを見せたことや、ワゴンの軸受には硬くて粘りがあるヨーロッパニレを使っていたが、ニレの立枯れ病で材料が手に入らなくなったこと、車軸にはトネリコ材を使うことなど教えてもらった話や、当時の博物館スタッフのことなどを話すと、「おお!」。思いがけず、懐かしい話に花が咲くことになりました。
これにはみんなびっくり。先だっての上野公園のヘレンさんとの邂逅に続き、英語で言う「スモールワールド」の一日となりました。こちらはさらに間が開いて、17−18年ぶりということになります。
さて、ディビッド夫妻が40年かけて手作りした庭は、高木がうっそうと生い茂って、水音の楽しい池畔には薄紫のギボウシが咲く、興趣のあるもの。一部は苔むして、とても産業地区に面した大通り沿いの住宅とは思えません。私はこの家の前を、そうと知らずに幾度となく自転車や車で通りすぎていたのでした。
この日のために用意された地ビールは、14種類。加えてリンゴ酒2種類がそれぞれ10リットル入りの袋箱に入って並べてあります。豚の丸焼きは、業者が12時から焼きにかかったそう。パリパリの皮のおいしい事。アップルソースと一緒にパンにはさんで食べるのですが、ジェイムズと二人、お代わりをしてたっぷり堪能しました。ビール、サイダーは、来週行くことになっている西バーク州醸造所とロドン醸造所の分を除いて、半分ほど味見を完了。すっかり幸せな気分になって、問われるままに生ハムの作り方、硝酸カリウムが日本でも入手不可能になっていること、ソミュールとドライキュアの違いなど、たくさん話したような気がします。
すっかり遅くまでおいしい飲み物、美味なるやきぶた、それとおしゃべりを堪能したあと、お宅を辞したのですが、いい気分になって自転車をこいで宿舎に戻った時には、もう11時になっていました。なんとジェイムズ家の前の道では、きつねが二・三匹、跳ねていました。宿舎までの道中、化かされぬよう心して帰ったこと、言うまでもありません
■(47)レディングの風(2013) −3 (Thu, 29 Aug 2013 07:46) 南の風3149号
、第三報は、到着翌日の
8月24日夕刻までのお話です。
宿舎で一息ついて。お世話になるジェイムズの家に向かう道すがら、知人の家に立ち寄ってご挨拶。さっそく、よもやま話に花が咲きました。夫人のRさんは日本人。日本のインターネット接続には、無料のものでも登録が必要というのが、彼女が日本で驚いたことのひとつだったと言います。それから、薄暗くなった道をジェイムズの家に向かいました。住宅街に、ラベンダーの香りが漂っています。
ジェイムズ夫妻は私とほぼ同時にスペインから戻ったところ。ドアをノックしても出ません。二階でちびちゃんをお風呂に入れている物音がしたので、お土産を置いて回れ右。メイルにて到着の一報。私も一風呂浴びてさっぱりし、時計を見ると12時になっていました。日本時間なら朝の8時。頭の芯が重い、徹夜明け同様の気分も、無理ありません。
ところが、ぐっすり休んだつもりになってふと目覚めると朝の4時。英国でのこういう重い時差ぼけは初めてのことです。
7時までごそごそして、再度横になり、8時過ぎに起きだしました。行き先は、最近ここで将来の英国王が誕生した可能性もあったロイヤルバーク州病院。食堂で、イングリッシュブレックファストが安く食べられる穴場なのです。道すがら、りんごの実が道路にこぼれていて、豊かな秋の到来を感じました。
食後、ジェイムズ家を再訪。一歳半の愛嬢フローラ・桃ちゃんとは、初顔合わせです。学生たちのお宿の段取りその他、打ち合わせと近況報告、情報交換。ロックの祭典レディングフェスティバルの音が、風に乗って聞こえてきます。
急な事でしたが、ジェイムズが台所のドア取り付けでお世話になった人が今日の夕方、自宅でガーデンパーティを開くので、よかったら一緒に行きませんかとのお誘い。なんでも、裏庭で業者に豚の丸焼きをつくらせ、地ビールをたくさん揃えてあるのだそう。私の「やきぶた」好きのことをジェイムズが覚えていてくれていたのでした。夕刻、睡魔に襲われないかとも思いましたが、ありがたくお受けすることに。
今回は、ほとんど旅支度なしで出てきたため、バスで街に出て、まずはあれこれ用足しです。安い服や室内履きのほか、調味料と食材も。ベーコンとソーセージは、老舗ビッカーズ肉屋、野菜は市場といったあんばいです。お気に入りのデリカテッセンが花屋になっていたのはがっかり。なので紅茶は、ウィッタードで調達しました。魚屋では、かつての若い衆が立派な中年です。お魚の方は相変わらずで、見てがっかりするような品質のものが揃っています。
宿に戻って軽食の後、再度出直して、銀行で軍資金の両替を済ませました。新しい店舗には海外通貨の窓口がなく、ふつうのカウンターで用が足りたのには驚きました。ちなみに英国の銀行は週日は大体8時半から5時半の営業。土曜も開店しています。
かように街を歩き回ったおかげで、昼寝の時間はなし。これからパーティです。いそいそとジェイムズのお家へと向かいました。
■(46)レディングの風(2013) −2 (Wed, 28 Aug 2013 22:34)
*南の風3148号
○8月23日
成田を定刻に離陸した全日空機は、ずっと雲の中。シベリア上空も、日欧の中間あたりまで来てようやく晴れ間がのぞきだしたので、思いついてはじめて、デジカメの動画で雪景色ならぬ綿あめのような雲景色を撮影。バルト海に近づいたところでいよいよ晴天が美しくなりましたが、そこでSDカードの容量がいっぱい。予備は預け荷物の中だったので、あいにくでした。フィルム切れと違って、デジタルは突然アウトになるので困ります。
さて、機体はテムズ川を左手に見ながらロンドン北部を西に横断します。途中、グリニッチ付近で一度旋回。ヒースローを行き過ぎて、ウィンザー城を間近に見ながらUターン。お城には女王不在と掲揚台がはっきり目視できるほどの距離した。
いつもの入国審査ですが、手前から英国人、EU諸国民、最後に、「その他すべてのパスポート」の表示があります。最後の表示はもと、「エイリアン」と書いてありました。1990年代まで、英国政府にとって日本人は、宇宙SF映画の化け物と同じだったようです。最近もまた、英国政府は移民審査を厳しくしていると聞きました。看板に「エイリアン」が復活するかも。
今回、係官の窓口が二列になっていたのは、ことによるとオリンピックがもたらした変化だったのかもと想像しました。
次は空港の中央バス乗り場に移動して、レディング行きの高速バスに乗る段取り。すでにチケットはインターネットで予約してあります。厳禁より安いのですが、それでも往復23ポンドなり。高くなりました。
時間はもう5時を過ぎていましたが、電光掲示板を見ると16時55分のが遅れていて、「しめた、乗れるかも」と喜んだのですが、さっぱり来る気配がありません。そのうち、5時15分発のが8番乗り場とのサイン。これが発車の2分前です。かさばる荷物を持って急ぐと、運転手が eチケットをチェックして、いつものようにさわやかに荷物をトランクに収めてくれました。あまり頼りにならない機械文明と、いつもながらの人情味とが好対照です。
高速バスがこれまた、恰好のいいこと。シートは黒レザー風のスポーツカータイプ。運転席の後ろには四人掛けのテーブル席もあって、足元には電源完備。PCを持参すると、インターネットが無料で利用できます。悪いけど、昨夜の成田のお宿とは月とすっぽん。
次に停車した5番ターミナルでは、いったん発車したものの、遅れてきたお客のためにベイに再度駐車して2人を回収。あと20分で次の便が来るとはいえ、ほんと、感じのいい運転手です。
車内から日本に、メイルをあれこれ送っているうちに、レディング駅に到着しました。駅舎は大きな工事中と聞いていたのですが、バスの着くあたりはもとのまま。ただ、西側には巨大なコンコースの建物ができていました。
ここまで来て急にタクシー代が惜しくなり・・というわけでもないのですが、バスの一週間切符を購入。これまた値上がりが著しく、15ポンドもしましたが、無事になじみの宿舎にたどりつきました。(つづく)
■(45)レディングの風(2013) −1 (Sat, 24 Aug 2013 14:40) *南の風3146号
岩本@英国です。昨夕すなわち半日前にレディングにぶじ到着しました。
日本との時差は8時間。日本時間の朝8時まで頑張って起きていたのですが、時差ぼけで4時間後すなわちこちらの早朝4時には目覚めてしまいました。例によって、頭の芯が重い、徹夜明けの気分です。
ちょっと前のことになりました。
○8月22日
フィールド授業でお世話になった信州・小川村土産の「またたび」生品は、意外にも去勢済みの和光猫たちに好評でした。去勢猫には効かないと思っていたのです。
家人の愛猫も、初めての新鮮またたびをしがんで、喜んでくれました。これで満足したのか、いつも賑やかな朝食のおねだりがなく、家人は、私が先に餌を与えたのかと思ったほど。改めて実つきの枝を与えて、しばしの別れとなりました。
・・・で、一日、いろいろあって。
神田、明治大学での「社養協」が引けてから、京成成田に到着したのは夜の10時半。朝から生協おにぎり一食きりだったことを思い出し、にわかに空腹を感じて、駅前の餃子のO店に入って生ビールと腹にたまる定食を注文。それから時間まで、どうということもない民情観察です。
まずは左隣に座ったでっぷりおやじ。持ち帰り用に注文したゴマ団子の折詰をモグモグ半分片付けてしまったのを何だろうと思ったら、やにわに折詰に皿から鶏の唐揚げを詰め込み始めました。おお、ことによると愛妻家か、子煩悩かも。さもなくば、逃げられた?
今度は右隣のでっぷりおやじ。餃子と生ビールを注文した後、携帯をいじくりながらジョッキのビールをちびりちびり。ひと様のことながらこの御仁のこと、「いけすかん奴よのう、燗酒ではないぞ、ビールなのだよ、ぐうっといかんかい」と私はひそかに思っていたのでした。と、この御仁がやにわに怒り出したのは、伝票に自分が注文していなかった「春巻」が記載されていたそう。
まあ、私の注文した生ビールも出さないうちに、同じ店員が「ご注文はお決まりでしょうか」という香ばしいお店ではありましたが。このおやじ、大声で若い店員を呼びつけてねちねちと、とにかく文句を言いたい様子。ストレスがたまっているな。その原因は、会社か、夫婦喧嘩か。
不愉快な空気が店に充満し、仲裁に入ろうかと一瞬思ったのですが、あいにくホテルのシャトルバスの出発時間となったために、私は勘定を済ませて現場離脱したのでした。こういうクレイミングの現場は初見でしたが、ことによるとゆすりたかりのプロだったのかもしれません。前来た時も同様のことがあったと主張していましたから。普通なら、もう来ないぞ。
驚きはまだ続きました。
私が予約した、滑走路の見える某ホテル。遅く来る人の素泊まりプランは何と定価の半額で、ありがたい限りなのですが、送迎ミニバスはシートの擦り切れたぼろバス。ビルマでチャーターしたミニバスに及ばない老朽ぶり。開業いらい、更新していないと見ました。路傍のぼうぼう薮もおそろしげで、とても一国の誇る国際空港周辺の景観とは思えません。
館内の売店はと見ると、市価280円のビールが420円。同じものが、宿泊階の自動販売機だと400円。差額が人件費かもしれません。いずれにしても、私が後進国の判定基準としている「いったん囲い込んでしまったらこっちのもの」という、客の足元を見るポリシーが健在です。
まだありました。
シャワーを浴びて、いざインターネットを使おうとしたところ、電波が来ていません。引き出しの中にもケーブルがないぞ。そこでケーブルを借りようとフロントで尋ねたら、貸し出し一回につき1000円也といいます。確認したのだけれど、これはPCの貸し出しではありません。このぼったくり商売!
飛行場のインターネットは無料アクセスなのに。21世紀を何と心得ているのでしょう。うー。成田空港周辺の大型宿泊施設は、見た目のゴージャスさとは裏腹に、実は利が薄いのかもと思ったことでした。
■(44)信州松本・小川村 (Wed, 21 Aug 2013 20:18) *南の風3144号
残暑の酷暑、お見舞い申し上げます。本日の編集会議には不参加で申し訳ありませんでした。先週金曜から信州で、先ほど大学に戻ってきたところです。
まず松本で、数年ぶりとなるゼミ合宿を行いました。初日16日の午後、中央公民館を3名の学生と訪問し、矢久保課長、床尾さん、それに地区館の望月さん、橋詰さんによる3時間あまりのセミナー。松本の公民館の歴史から、まちづくり協議会設立にかかわるごく最近の動向まで、みっちりと講義していただき、私自身にとってもたいへん良い勉強をさせていただきました。翌日、研究発表のあいまに、新たに参加した5名ともセミナーの内容を共有する時間を設け、最後に再開発計画の持ち上がっているカタクラモールを見学して解散。午後三時、松本駅前の温度計は38度の表示でした。溜り場づくりのためにある町会長さんがはじめた蕎麦屋「いばらん亭」は、矢久保さんのお勧めでしたが、翌日にさっそく行ってみたところ「本日から9月までお休み」とのことであいにくでした。
引き続き、小川村で共通教養科目「フィールドで学ぶ山村社会」。昨年につづき二度目の授業となります。9名の学生を同僚とともに引率し、さっそくフィールドと座学の繰り返し。食事時には学生を手伝って、もと副村長でずっとお世話になっている村越さんの畑から獲れた野菜を刻んだり、モンゴル仕込みの辛サラダで学生を驚かしたり。公民館長の北田さんと大学・地域連携に向けた意見交換ができたのは有益でした。
あさってから、英国です。2週間のフィールドワークをはさみ、約ひと月の滞在を予定しています。ただ明晩7時から明治大学で社養協のミーティングのため、成田で前泊しなくてはならないかと。上旬に伊藤長和さんを見舞った折、社全協千葉大会で韓国勢が歌ってくれた「アチミスル」の動画をお目にかけようとPCを持参したのに、来年の英国旅行の夢などを楽しく語ったあげく、お見せしないで帰ってきたことが唯一の心残りです。9月にはもう、元気になって退院しておいででしょう。再会を楽しみにしています。それではまた。
■(43)新宿区立中央図書館ありがとう (Fri, 14 Jun 2013 19:57) *南の風3104号
…2限の授業後に、高田馬場に行ってきました。今週月曜に続き、例のビルマ人コミュニティ関連だったのですが、まずは街頭の福島の犬・猫支援ボランティアに募金。レストラン「ルビー」でランチのあと、本日のお目当て新宿区立中央図書館へ。月曜(休館日)の下見で、緊急地震対策のため本日限りで閉館と知ったからでした。
1972年の建物はどこか懐かしく、記念に写真を撮っている人もありました。館内には閉架時代の名残も見られます。パンフレット『25年前の図書館を知る職員のメモ』や、小展示も作られていました。地域資料コーナーで戦後復興の一万分の一地図を見ているうちに「東京急行電鉄井の頭線」「東京急行電鉄小田原線」を発見。レファレンスのカウンターで出してもらった図書のおかげで、昭和17年から23年まで、戦中戦後の6年間のことだったと、ひとつ知恵を授かりました。国鉄だけではなかったのですね。
自動貸出機に英中韓の三カ国語表示があり、司書の島さんから中・韓書の収集に力を入れていると教わりましたが、ビルマ書はないそう。高田馬場を中心にしたミャンマー人が1万人ものコミュニティと聞いて驚いていました。私は、地域のニーズに応えて、新宿の図書館にビルマ書が配架される日を夢見ています。
今日も月曜と同じく、ビルマ雑貨店でお茶うけの発酵茶を求めて帰りました。あとをひく珍味。日本で購入できるとは幸せです。多文化共生の恩恵をこうむっていると感じます。
帰途、京王百貨店で鈴虫を買い求め、旧「東京急行電鉄京王線」永山駅の階段を降りていたら、包聯群さんそっくりの人がいて、ご本人でした。このところ偶然に恵まれています。
別件。来月の韓国との図書館交流で、初日の通訳が決まらずに案じていたのですが、早稲田のオ・セヨンさんが義侠心を発揮してくれました。実にありがたいことです。これで、受け入れ態勢は完璧となりました。明日15日は和光大学に、アメリカから環境系の学者さんが学生を連れて来訪します。
■(42)高田馬場のビルマ人コミュニティ (Mon, 10 Jun 2013 17:36) *南の風3102号
… 本日月曜は授業がなく、朝のうち大学で用たしの後、一念発起で高田馬場に向かいました。お目当ては、土井敏邦監督のドキュメンタリー映画「異国に生きる」の主人公夫妻が経営するビルマ料理店「ルビー」。3月の旅行以来、ビルマに関するいろいろなことが気になっていたのです。
奥さんのヌエヌエチョーさんと初対面の挨拶をして、食後、いろんなお話を何と3時間近く。仏教のこと、民間宗教のこと、ビルマの昔話のこと(意外に日本のと似通っています)、日本のミャンマー人人口は、大使館によると1万人ということや、こちらで子育てを始める人が増えていて、言葉や文化の伝承が問題になること、この9月に13年ぶりの一時帰国を考えていること・・・楽しくて、とても充実した交流ができました。私の出がけに折よくやってきただんなのチョウチョウソーさんとも、ご挨拶できました。
ちなみにランチは、9種類がメニューに載っていて、たいがい700円。モヒンガー(魚醤だしのにゅう麺)を頼みましたが、ごはん、スープ、サラダ、デザートと、温かいお茶、冷たいお茶はお代わり自由。お得なところです。
一万人ともなると、結構な人口です。新宿区の中央図書館に、ビルマ語図書がどれくらいあるのかないのか。今日は月曜でしたので、改めてチェックしてみようかと、後日の楽しみにしています。
「異国に生きる」は、今、関西に行っていて、そのうちに横浜で上映されます。
→■
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&ved=0CCsQtwIwAA&url=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DHkLavOvp7VY&ei=_Iy1Uc_vKMGOkAXL84DoDw&usg=AFQjCNHH5HyB2-SNNqUg0aD04av-x4nD3Q&bvm=bv.47534661,d.dGI
ルビーで教わったご近所のビルマ食料品店で、発酵した食用茶(お茶うけ)と辞典を求めてきました。
これから川崎市中原図書館で、韓国との草の根図書館交流の実行委員会です。7月12日午後のシンポジウムをはさみ、10日から13日まで、18名のゲストを富川市からお迎えします。キム・ボラムさんに応援を快諾していただいたおかげで、受け入れ態勢はほぼ完ぺきです。それではまた。
■(41)宝くじを買いたい気分−5月30日・東京
(Fri, 31 May 2013 16:57) *南の風3096号
… さて、盲亀の浮木・優曇華の花のようなことが、ある時には実際にあるものだと吃驚しています。思い返すだに夢のようです。と、申しますのが。
きのう30日の夕刻5時ごろ、私は上野の博物館前広場にいました。5時半に千駄木駅でゼミ生と合流するまでの時間、見かけたポスターで知った「さつき展」というものを初めて見ていたのです。そうしたら・・。
なんと、レディング時代のアカデミック仲間から、声をかけられたのでした。おお、何ということでしょう!
その、ヘレンさん(ウォーキントン博士)によれば、博物館の館内がえらく暑くて辟易。外の風に当たりに出て、コーヒー屋の椅子にかけていたそう。すると向こうに、後ろ向きで顔は見えないのだが、後ろ姿が半分・英国人のような人がいて<ほんとかいな?>、何となく知りあいのような気がした。あれこれ頭をひねって、だんなのフィルに、「あの人、誰だか?何だかヨウジに似ていないかえ」と聞いてみたけど、「日本に戻っているといっても、まさか」と、うてあってもらえず、けどやっぱり、やっぱりそんな気がしたので、さつきの展示を見ているふりをしてちょっとずつ近づいて(←うー、ここが実に英国人らしいところ)、白髪があるからやっぱりヨウジではないのかもと思いつつ、おそるおそる声をかけたら、うわあ大当たり、本物だった!と。コーヒー屋から見ていたフィルは、この時、二人がお互い絶句した十何秒が傍目にえらい面白かったそう。
発端は、20年近く前。大月書店から環境教育の本を出すというので、埼玉大の安藤聡彦さんから頼まれたご縁です。私が会員だった環境教育協議会CEEの、当時の会長クリス・ゲイフォード先生から教え子のヘレンさんを紹介された時、私たち二人とも30でこぼこの時でした。彼らの原稿を私が訳出して本が出てから、ときどき食事に招いたり招かれたり。家人を紹介したり、フィルをボーイフレンドだと紹介されたりしたのも、その当時のことでした。私が2002年に引き揚げてからはずっとご無沙汰を重ねていて、今思えば不思議なことですが、5月に入ってから、「ヘレンさんは今、どうしているかなあ」とぽっこり頭に浮かんだことが一度だけありました。が、それきり忘れていたのです。
私は英国にいた時分に「後ろ姿」をヘレンさんたちに披露した記憶はないのですが、それにしても約12年ぶりの再会。ヘレンさんは、髪に白いものが混じり出し、目じりにカラスの・・の立派なおばさん。彼女も、私を見て同じことを思ったのだろうなあと推察します。科学系の院生だったフィルはいま英国シャープの社員で、これが二度目の来日だそう。なんと、まったく癖のない日本語をあるていど使います。(ドナルド・キーンよりうまいぞ!)
ちなみにフィルは、日本風に言うと六尺豊かな上背ですが、ヘレンさんはそれより更に頭半分だけ上。英国流「蚤の夫婦」の、大きいこと。これは相変わらずでした。
フィルが日本での一週間の仕事を終えて、5日間の休暇を与えられたところに、初来日のヘレンさんが合流したそう。しかも、二人は明朝のフライトで帰国といいます。20分ほどおしゃべりしてサヨウナラはあまりにもったいない。私のゼミ生のうち二名と、非常勤で環境教育を担当していただいている角田先生はこの夏、私の英国フィールドワーク「えいたび2013」に行きます。彼らを二人に引き合わせたくもあり。そこで二人が今夜の予定がないというのをよいことに、タクシーで千駄木駅に移動。岩本一座との合流後、まずは角田さんとの4人で根津の「はん亭」へ。
日本酒初体験のヘレンさんは、改めて、オックスフォード・ブルック大学での今のお仕事のこと、5年前に求めた村の住まいでは子どもがなくて鶏やチャボをペットにしていること(当方は拾いねこ也)、ミツバチを飼いたいこと(家人ナオコも東北の養蜂家に研修に行ったぞよ)、箱根・強羅の苔庭がよく、日本旅館を奮発して畳の部屋で布団に寝たら背中が痛くなったこと、「はん亭」の暖簾
drought excluder がいたく気に入ったことなど、私と家人が英・日で結婚したのろけ話を交えつつ、気の置けない会話がはずみました。フィルが寡黙なのも相変わらず。北英ダラム出身のヘレンさんの北部なまりも健在でした。
そこに谷根千歩きを終えた学生たちも合流して、まずは自己紹介。それから電子辞書を片手に、何とか意思疎通をと四苦八苦でしたが、もちろん私たちの助け舟もあり、「えいたび2013」事前学習も兼ねて、むちゃむちゃ楽しい時間を過ごしました。
店を出るとすでに九時過ぎ。車でアメ横に移動。シーフードだと言って「たこやき」や「たいやき」を食べさせて、再び益体もない話でひとしきり盛り上がりました。
フィルが言っていました。日本の人口一億二千七百万。首都圏だけで二千万人いるところで、確率論的に言ってよくもまあ出会えたもんだと。キリスト教徒だったら当然、神様のお導き!となるところでしょうが、仏教徒の私は、仏陀のお導きと思うことに。夏の再会を約して、上野にある彼らのホテルの前で別れました。・・・やっぱり夢のよう。ありがたや、ありがたや。
それにつけてもレディング界隈の、ほかの知人に知らせたら、びっくりするだろうなあ。これまた楽しみです。
■(40)ミャンマーの風(3)−3月10日(日) その2 シュエダゴンパゴダ参詣
(Date: Fri, 12 Apr 2013
13:57:)
*南の風3066号
…(前号につづく)… 食後、昨夜のトヨタハイエースで、渋滞の道を最初の目的地、シュエダゴンパゴダ
Shwedagon Pagodaに向かう。車窓に見る、英国からの独立直後に英雄アウンサン将軍が暗殺されたビルマ政庁跡の廃墟は、博物館として整備する計画があるとガイドのマティさんに教わる。バナナはもっぱら生食用。料理用バナナは、ミャンマーにはない。乗り合いバスは200チャット。車のナンバープレートは、タクシーや営業用は赤、自家用車は黒、外交官や仮ナンバーは白、観光は青。タクシーにメーターはないので、交渉してから乗る、云々。
スーリーパゴダを左に見る。これがヤンゴン中心地のランドマーク。インド人街にはベンガル人が多く、カレーやチキンライスの店がある。ティンジンゼイはマーケットで有名。東京に譬えるなら新宿のようなところ。ヤンゴン総合病院の前を通過する。メモを取りながら聞くが、ミャンマー語の発音は日本語の音韻とだいぶ違い、聞き取りが難しい。
ミャンマーの宗教は、90%が仏教徒だが、キリスト教、イスラム教がそれぞれ4%。残りが精霊信仰で、特に地方には多いと。朝の散歩で見た菩提樹の神様のほか、道の神様、海の神様、川の神様などもいる云々。ミャンマーは仏教国というイメージで来たが、イスラム教はもとより、キリスト教徒が日本よりもはるかに多いのが意外だ。
最初の見学先、シュエダゴンパゴダは、かつて日本軍への反攻の際に、もと傀儡政権で国防大臣だったアウンサン将軍が英軍に、攻撃しないことをかけあったほどの聖地。ここには、朝8時50分に到着した。すでに陽射しは強い。エレベーターのある南門から入る。裸足で車を降り、受付でマティさんに人数分の入場料を払ってもらう。受付の天井からして、ティーク材で美しく装飾されている。
エレベーターで上がると、空中花壇が付属した回廊になっている。左手にセイロンテツボクの巨樹。境内はなんと、大理石などの磨き石で美しく整えられていて、清浄そのもの。菩提樹の巨木の根元の4体の神像に、まず目が行った。説明によると、左の男性神は帝釈天でなくてポッバーボボジイ(山のおじいさん)。右は女性神ポッバーメドム(山のおばあさん)が青い顔をした鬼のような息子を両脇に従えている。彼らには後日、ポッパ山でも会えるそうだ。つまり、仏教とは違う民俗信仰が仏さまを祭るパゴダに居場所をもらっているということで、これまた興味深い。なお、おじいさん、おばあさんは年には関係なく、敬称なのだと。きっと、敬老精神の国なのだろうなあ。
ここの菩提樹はインドから1926年にもたらされたもので、5月の満月の水祭りには、水をかけるという。これも、もとは特定の木の枝に浸した水をかけるささやかなものだったが、この頃は太いホースを使う。特設ステージで有名歌手が歌ったりする。云々。
水祭りといえば、2002年秋の国連、ヨハネスバーグの環境サミットの折に、ソエットで、道々車に盛大なる力水を頂戴したことを思い出す。こちらでも、にぎやかなお祭りなのだろうなあ。
参拝客が金色のほとけさまに金箔を貼っている。菩提樹の下で、坊さんが涼んでいる。頭陀袋から出したペットボトルが現代風だ。
とい面にある大きな図像の説明を聞いた。ここには、人が死んだ後に行く先の31種、すなわち下は地獄行き、動物への転生から、上は神様になるまでの各レベルが描かれている。ゴータマが釈迦になるまでには24種の原因があった。云々。
パゴダの参拝は右回りに一周する。昨夏トクタホさんに世話になった内モンゴルの石積み塔もこの流れなのだな。
ミャンマーでは七曜日でなく八曜日。というのは、水曜日の守り本尊だけが午前と午後で、牙のない象と牙のある象に分かれている。人々は自分の生まれ曜日の守り本尊に水をかけ、香華をささげて幸せを願うのだと。私たちが南の回廊から上がってきたところが、火曜日生まれのご本尊。順にひとつひとつ数えていって、自分の守り本尊と思しきところに朝のうちに求めていたマツリカを供え、銀の容器で水を注いでお参りするが、後で聞くとどうやら別のところであったらしい。それくらい、ほとけさまがみっしりと並んでいらっしゃる。御ほとけのことだから、少々のことはきっと融通を利かせてくれるだろう、ということにしておこう。
仏教施設には二種類あって、パゴダ(仏塔)とテンプル(寺院)。パゴダの内部には入れず、周囲を回るだけ。テンプルには入れる。このパゴダの中部には、見ることは出来ないが水が湛えてあり、船の上に仏舎利や宝石が納めてあるそう。そこへの地下通路の入り口という小さな建物には、鍵がかけてあった。
シュエダゴンパゴダのあるこのあたりは、昔々は海だった。標高58mの岡の上に、はじめ高さ20mのパゴダがつくられたが、18世紀に今の、高さ100mのパゴダが出来た。(正確には99.4m)。境内面積がいったいどれくらいだか分からないが、すべて大理石や何かの磨いた石材が敷き詰めてあり、本邦の有名な大型寺院の境内がほとんど土がむき出しの敷地で、庭が造られていてもところどころだったりすることを思うと、このお金のかけよう。信仰心の篤さの、彼我の差はずいぶんと違うようだ。
「ところで、ひとつお尋ねしますが、こちらの本尊はどれですか?」とガイドのマティさんに尋ねると、東西南北にそれぞれあると。と、いうのも、直近の「仏陀」はゴーダマだが、悟りを開いた仏陀はその前に三人いたから、と。知らなかったなあ。ガッダバーは西面と聞くが、さて、誰だろう。
パゴダの周りに筵でカバーをしてあるのは、4年に一度の金箔の貼り替えのため。3月がちょうどその時期だといい、マティさんはあいにくでと気の毒がるが、オリンピックに行きあわせたようなものだ。私は運よく見ることが出来てラッキーだと思った。
北の広場に日覆いをしたところがあり、善男善女がパゴダを望んで休憩している。昔の王様は戦争に行くときに、ここ北広場で戦勝祈願をしたそう。意外に血なまぐさい。仏教では来世の幸せを願い、パゴダをつくって徳を積むと幸せになれると聞かされるのだが、分かったぞ。ほとけさまはここミャンマーでは現世のいくさ神も兼ねているのだな。日本だと、八幡大菩薩。そのお使いの鳩が、いつのまにか西洋化されて平和のシンボルとなって宮武外骨がけなしたことや、おいしい鎌倉銘菓になったこと、伊藤長和さんはお元気かなあと、とりとめもなく連想する。
中部にある古都バガンは、後ほど訪問するところだが、13世紀のバガンにはナラトゥー王のパゴダがある。彼は、自分が王になるために、父と兄を殺した。お寺で幽霊が出るとの伝説もあり、それは人を何人か入れたまま、閉めてしまったためだと。オールドバガンには幽霊の出るホテルがある。王宮時代には処刑場だったところも幽霊が出る。云々。穏やかな仏教国のイメージがあるこの国は、実は意外に、日本の鎌倉時代的な殺戮の歴史を持っている。
風通しのよい建物の中で制服の女子生徒たちが座って何か朗読しているところがあり、聞けばお経を上げているところだと。朗読の調子は、どちらかといえば棒読みに聞こえる。
お経はパーリ語のため、普通の人には理解できないそう。この点日本の、中国語音読のお経読みと似ていて興味深い。西洋だとずいぶん早い時期に、聖書が民衆の言葉に翻訳されたのに。
休憩所で、壁面に「1965」と書かれたところがあり、これは1961年から始まった社会主義時代に作られたものとガイドのマティさん。寄進者の名前、掃除当番の名前などがリストになっていたりする。時代を通じて、国民の崇敬を集めている聖地だ。
面白いコーナーを見つけた。線刻で人面柄やみみずく柄を表した美しい釉薬の水つぼを並べて、誰でも飲めるようにしてある裏手で、鬼(バヌー)の像を祭ってある。水つぼの肩の張りの、中国宋代の梅瓶同様の曲面の美しさに目が行ったのと同様、鬼の像の足元に濡れた砂が置かれているのが気になった。ガイドに尋ねると、これは、悪いことに遭った人の厄払いに違いなかろうと。それも、民間宗教者のところで相談して、これこれしなさいという法式を教わるのとだいう。上座仏教のメッカであるここに来て、日本から持参したイメージが、少しずつ再認識を迫られている。
さらに、敷地内には、超能力者ボーミンガン(ミンガンおじさん)の像が置かれているお堂もある。彼は本来、茶服なのだが、ここに安置された像は黄金の金箔張り。生前の彼はポッパ山で修行をして、空を飛ぶ通力を身につけた。亡くなって今年で61年という、比較的近い実在の人物。命日にそのお祭りがある。云々。
ガイドのマティさんもボーミンガンを信仰していて、旅行に出る朝にはお茶をあげているそう。そのお弟子がゾージーで、お堂に2体あるのはどちらもゾージーと。これとは別に、ウェイザーという白服の超能力者もいるとのこと。いまひとつ分かりにくい。
ウェイザーは瞑想によって霊力をつける。力はあるが入滅までいかない段階をダンマタといい、ここで止まる人もあるが、さらに集中力をつけてウィパタンナーとなると、入滅できる。云々。どうやらこの地では、瞑想が重要視されているらしいと分かった。インドのお隣だものな。
「見てください、あの方は超能力者です。」と、マティさんに言われて見ると、仏教僧とはやや風体の違う茶衣の男性がいる。参詣の老婆がさっそく声をかけて、さっそく真剣な相談ごとが始まったらしい。
こうした民間宗教に対しては、批判もある。特に学問寺がそうだと。寺院には、この学問寺と瞑想寺の二つがある。ほかに、地方の村にいて得度式などの行事を司る坊さんもある。
学問寺として有名なのが、マンダレーのアマラプラ町にあるマハーガンダヨ僧院と、パグーのジャッカワイン僧院。どちらも900人から1000人くらいの坊さんがいるそう。宗派もシュイチン、マターティ、チャンミー、モーグンなど諸派あって、シュイチンが厳しい。云々。
ミャンマーの葬礼について、ガイドのマティさんに尋ねてみた。すると、たいへん興味深い返事が返ってきた。
昔は土葬だったが、今は火葬が主で、火葬場で煙が立ったのを見届けたら、参列者は帰ってしまう。その後のことは知らない。骨は火葬場がどうにかするのだろうが、墓に納める習慣がないので、参列者の関心事ではない。有名人以外は墓を作らない。故人の位牌もない。故人を偲ぶものは写真くらい。死んで三日目に葬式を出す。死んで七日目に生まれ変わると信じられている。死んで一年目、二年目の命日に坊さんを招いて法要を営む。云々。
なんと、これでいくと菩提寺にお願いする墓のメインテナンスや永代供養の心配もないし、ルイス・マムフォードのいう「ネクロポリス」が、生者の都市を覆い尽くす可能性もない。「人間至る所に青山あり」というが、その青山すらなくて、実にいさぎよい。どうせどこかで死ぬるなら、ミャンマーはいいかもと、そんなことを考えた。
正面の参道を降りる。ここは軍事政権時代に改修されたアーケードとなっていて、両側には売店が立ち並んでいる。本邦に例えるなら、相州大山の、ロープウェイの下の参道をはるかに立派にしたようなところ。並行して裏階段の参道もあるから、浅草浅草寺の参道に起伏をつけたと言えば、より正確かもしれない。こちらには、仏教書専門店もあるが、ビルマ文字に関して私は無筆なのでパス。
同道の女子学生があれこれお土産を品定めしている並びの店で、「百万遍」に使うような大数珠を見つけた。店員が、20000チャットを割り引いて18000チャットにしてくれるというので、ありがたく求めようとしたら、マティさんが気を利かせて交渉してくれて、結局14000チャットで購入できた。邦貨1400円。和光大学「アジアフェスタ」の展示で使えそう。珠はやしの実で、マンダレーで作られたという。これが私のミャンマー初買い物となった。
他に、肉厚の銅や真ちゅうでできたベルや鈴、馨のような形の金属板「ジェースイ」など、きわめて澄んだ音を発するよいものに心動かされるが、お買い上げに及ばず。(つづく)
■(39)ミャンマーの風(2)−3月10日(日) 早朝の散歩
(Thu, 28 Mar 2013 16:08) *南の風3057号
: 6時前に鳥の声を聞き、15分ほどして起床。大学院生A君、Oさんと宿の周辺を散歩した。ヤンゴンの朝は意外に早い。すでに食堂が店開きをしているところもあり、まだ丸く切ったバナナの葉を洗っているところも。(これは草をシリンダー型に編んだご飯容器に敷くものと後で知った)。屋台では油条を揚げていたり、チャーハンを作っているところもある。茹で上げた麺を3種類ばかり、蝿帳をかけて客待ちをしている露天食堂もある。これが、モヒンガーというものだろうか。
鳩の餌に、残りご飯を路上に置いているところもあり、小学生くらいの女の子が餌を撒いて鳩を集めているところもあり、してみると、鳩は害鳥扱いをされてはいないようだ。
駐車している乗用車を見ているうち、日本車の、それも1990年前後のなつかしいモデルが多いことに気づく。注意して見ると、愛知、茨城、神奈川、札幌、泉大津といった地名のスティッカーがそのまま貼ってある。車たちの、第二の人生なのだな。よかったね。
ジャスミン(茉莉花)のかぐわしい香りに振り返ると、おじさんが花を糸でつづりながら売っている。聞けば1000チャット(約百円)というので、ひとつ求めて下げて歩く。日本だと、夏に鉢植えで咲かせても一度に10輪が限度。それに比べると、たっぷりあって、おびただしく香りが強い。
ストリートマーケットの街区に行き当たった。
花屋では、切花菊をいろいろ並べている。八百屋の品揃えを見ると、多品目少量販売である。ある店舗では、たたみ一枚ほどの敷地に以下の野菜を売っていた。オクラ、きゅうり、半白きゅうり、にがうり、八角糸瓜、ドラムスティック豆、ブロッコリ、緑丸ナス、緑長ナス、緑米ナス、はやとうり、ライム、まだ青いトマト、赤丸トマト、赤しわトマト、ニンジン、とうがらし、モロッコインゲン豆、ピーマン、アスパラガス、しょうが、絹さやえんどう、大唐辛子、サトイモ、大根、とうがん、とうもろこし、花バナナ、たけのこ、刻みたけのこ、ひょうたん、その他袋詰めのもの数種。
ごみばこは、英国と同じ、四角いふたつきプラスチック製で、下に二輪がついたもの。英国では回収車がアームで持ち上げて中身を空けてしまう式だが、回収の現場はついに見なかった。
澁谷先生と合流して、菩提樹に取り付けられた神棚や、すずめに食べさせるために下げてある束ねた稲穂、街路樹の花木について教わる。それまで気づかなかったものでも、いちど目の付け所を教わると、あとからいくらでも目に入って来るところが不思議。
イギリス人が広めたのか、東南アジアの街路樹には、海外から持ち込まれたものなどがかなり共通して使われている。レインツリーはマレーシア原産だそう。大サルスベリも咲いている。通行人がだれでも飲めるよう、積善水(勝手にこう名づけた)の素焼きつぼが路傍の棚に出してあるのも興味深いと。これは、スリランカでは今やほとんど見られなくなった習慣である。云々。
頭に油条のかごをのせたおばさんが、ひなびた売り声を上げながら歩道を歩いている。通りに面したビルは上階がアパートになっていて、各戸から紐で目玉クリップが下げてあるのは、こうした時の買い物用。落語家、三遊亭金馬の吉原話では、下げたザルで紅しょうがやラッキョウを買ったそうだが、こちらも同様で、お金を下げて買い物をクリップで留めてもらったのをたぐり上げる式。こうやって、上階の自宅で朝食を済ませたり、さもなくば道端の露天で熱々を食べたりして、一日のスタートを切るのだろう。
これくらい都心に居住人口が多いのなら、ことによると人口500万人のこの都市は、かなりの程度、職住接近なのでは、ドーナツ化現象はないのではと想像されるが、確証はない。折から太陽が昇ってきて、街路が美しく赤い朝日に照らしだされた。
イースタンホテルに戻ると朝食。これは、洋式。トースト一枚にマーガリンとイチゴジャム。目玉焼きは何もいわなくても二つと決まっているよう。鶏肉ソーセージは日本の魚肉ソーセージのようで細く、それを縦に切ってから焼いてある。昔懐かしい、炭酸入りオレンジジュースが出る。コーヒーはインスタント。悪いけど、出来ることであればあまり食べたくないタイプだ。太く短いバナナがデザート。先ほどの路上食堂で食べてくればよかった。(つづく)
■(39)ミャンマーの風 (1) 初日 2013年3月9日(土) ばら銭のない国
(Date: Fri, 22 Mar 2013 13:42)
*南の風3053号
和光大学の同僚で、(東)南アジアの文化人類学がご専門の渋谷利雄先生が、ゼミ学生・院生5名を引率して30年ぶりにミャンマーを再訪するスタディ・ツアーに、私も便乗させていただいた。
年度末でいろいろあって。先月、ミャンマー大使館に二往復してビザを取得。ちなみに大使館は、品川神社の先の御殿山にある。おかげで屋形船をもやっている品川浜界隈をはじめて歩き、日向ぼっこの小母さんの生活臭あふれる話を聞いたり、ヒスイの原石博物館を偶然、訪ねたり出来た。まだまだ先のことだと思っていたのに、準備不十分なまま、にわかに出発当日になってしまった。
大学発8時15分のバスで鶴川。9時新百合ヶ丘発の成田行き高速バス。正午に空港ターミナルでメンバーと無事合流し、13時55分発ソウル行きの便でインチョン空港にて乗り換え、最終目的地のヤンゴン国際空港着は現地時間で午後22時45分、定刻の到着だった。日本時間はすでに翌日で、未明の1時15分になっている。
韓国行きの機内はほとんど満席だったが、ミャンマー行きは約3割の入り。窓際席で、頭から毛布を被って、成層圏ならではの美しい天の川や星たちを堪能できた。地上はと見ると、時々、中国奥地の都市らしい、かなり広範囲の明かりが過ぎていく。
時差というものは、毎時きっかりのものだというのは、じつは私の思い込みだった。ミャンマーと日本は2時間半。待ち時間も入れると、移動にほぼ12時間といったところ。
飛行場のビル内は冷房が効いている。構内で200ドルを通貨チャットに両替。邦貨100円に相当する1000チャット札で、厚さ二センチの札束をもらって大富豪気分。一歩外に出ると、深夜なのにかなりの熱気と湿度を感じる。ミャンマーでは、通貨はすべて紙幣。昔あったコインは、今やまったく使われていないそう。同じ金額で同じ図案の紙幣にも、なんと大小があったりして興味深い。
迎えのトヨタハイエースにて、旧市街にあるイースタン・ホテルに着いたのはほぼ1時。同室の院生A君とスミルノフ赤瓶40度で「うがい」をして、歓談の後就寝。 (つづく)
■(38) 草原(モンゴル)の風20−8月7日、最終日
(Fri, 8 Mar 2013 20:30) *南の風3046号
朝6時半過ぎに起床。ホテルの食堂は、昨日まで3階にあったのが、今朝は工事のため1階に変更になっていました。そういう変更があらかじめ客室には知らされず、行ってみて回れ右をさせられる香ばしさ。文句を言う人もありません。さすが大陸。
さて、朝のモンゴル・ミルクティーもこれが最後です。ひとわたり食べ終わったところで、トクタホさんが「ほらあれ」と、機械で押し出す式のそばが食べられるのを教えてくれました。日本で見るような「そば切り」でなく、沸騰したお湯にニュウンと押し出されたそばが落ちて茹だったところをすくい上げ、ソースをかけて食べる式でした。二種類あるソースのうち、白菜のすっぱい漬物とひき肉餡ソースをかけてもらいました。もうひとつは味噌味のよう。他のものを食べ終えてから挑戦したので、満腹、満腹。
7時半にはお迎えの徐号でホテルを出発したのですが、えらい交通渋滞で、ホテル駐車場から車が道路に出られません。ようやくのことで出たら、今度は次のT字路で左折できず、10分以上かかってようやく走り出す始末。おかげで、期待していた朝市再訪は、山上さんにはお気の毒でしたがパス。かねて気になっていた道路標識で、白地に黒文字のたすき入りは、最低速度の表示と徐さんに教わりました。
通遼飛行場で見送られ、山上さんとふたり、機上の人となりました。ちなみに。売店ではおみやげ物の革製品のほか、干し牛肉もあるのがモンゴルらしいところ。これはもともと、安いものではありませんが、飛行場価格でさらに高価でした。
キティちゃんや鉄腕アトムの図案をあしらったお菓子、それに英国の清涼ドロップ「フィッシャーマンズ・フレンド」の漢字の缶入りが売られていて、珍。「そうか、世界商品なのだな」と思いました。隣には、爆発物が見つかったときにかぶせる、まるい風呂桶を逆さにしたような大きなブツが無造作においてありました。少々の爆弾には負けないよという、空港当局のメッセージかもしれません。
昼前に北京に着いて、それからが長いこと。
通遼で預けた荷物は、羽田まで送ってくれないので、いったん受け取ってから外に出て、チェックインカウンターが開く3時半まで、山上さんとコーヒーを飲んですごしました。モンゴルとの交流の今後のこと、素朴などんぶり会計のことなどが話題になりました。
ようやく荷物を預けて身軽になってから、さっそく無人シャトル電車に乗って検査場へ。そこで山上さんに指摘されて出国カードを記入。あやうく残留孤児になるところでした。
山上さんは按摩を探しに行き、ここからしばらく単独行動。免税店を一通り覗いて回りました。品物が豊富で、さすが中国は世界の工場です。書店では、某「地球の迷い方」シリーズが中国語訳されて出ているのを発見。あこがれの山東ワインは売っていません。
空港売店の品物の値段が、日本と大して変わらないことに驚き、結局、なにも購入しませんでした。
カフェテリア式の中華食堂に食用蛙の炒め煮があるのを見つけ、青菜のゆで炒めと白ごはんを一緒に頼んだら、なんと56元。モンゴルの村の人が知ったら卒倒するかも。ちなみに、ここの若い女店員に71元渡したら、まず5元くれて約8秒。じっと待っていたらやっと気づいて、残りの10元を出してくれました。
夕刻5時に私がE02搭乗口に行ったとき、すでに搭乗が始まったところでした。座席についてしばらくするうちお客が次第に増えてきて、機内は約8割の入り。山上さんは反対側の窓際。飛行機のラッシュアワーということで、なんと小一時間待たされてからの離陸。
おかげで、羽田についた後、荷物を宅急便で送ったりしているうちに不覚にも終電を逃してしまい、横浜で一泊という仕儀になってしまいました。うー。
モンゴル供養のこと
モンゴルから帰った八月のお盆。九州に帰省しました。メインは今世紀はじめ、私が日本に引き揚げる前に物故した叔母の13回忌。早いものです。その、80を過ぎた姉者人が、「私もこれが最後だろうから」と、はるばる北海道から息子の操縦する日航機で出てきました。私がこれに合流して、岩本両親ともに長崎市、外海町の黒崎にて「隠れキリシタン」スタイルによる法事。続いて熊本にて一同墓参をして、両親はご先祖に、「そのうち来ますのでよろしく」と。
そういったことの後、私だけ福岡に数日滞在したのですが、あすは帰京という日のことです。妙に虫がさわぎました。
あやしいくらいに行きたくなった先が、博多湾に浮かぶ志賀島の西側にある、「蒙古塚」。
いつものPC、ハードディスクに、博多駅前で新規購入のスピーカーをたずさえ、地下鉄終点「貝塚」で志賀島行き路線バスに乗り換えて、午後にようやく現地にたどり着きました。
バスを降りたとたんに驟雨がやってきて、茶店で雨宿り。ここで、スタッフと常連さんにモンゴル豚の解体映像など見せて雨止みを待ち、それから、海を見下ろす雨上がりの高台にひとり立ちました。
暑い草いきれの中、PCを立ち上げ、旅行中に撮影した、独特のこぶしの利いた切なくなるようなモンゴル歌をしばし流して、異国に斃れた13世紀のモンゴル兵を偲びました。故郷の大草原ならぬ、こんな海原のはずれで死にたくはなかったろうなあ、と。
しばし、供養を終えて、来た時とは場の空気が変わったように感じました。ここでは坊さんのお経はたまに上げているようですが、こういう供養は、元寇以来、数百年の歴史で初めてではなかったかと。かくて私自身、往路とうって変わった安らかな気持ちで、帰途につくことができました。
(草原・モンゴルの風 完)
■(37) 草原(モンゴル)の風19−十日目、8月6日(月)(Fri, 8 Mar 2013 20:30)
ゆうべ遅かったのに、なんと早朝6時過ぎには、徐さんが車でホテルに迎えにきてくれました。うう、眠い。有名な通遼の朝市をぜひ案内したいと。うれしいことです。トクタホさんはベッドに愛着があり、私だけ連れて行ってもらうことにしました。
この朝市は生鮮食料品が中心。野菜と肉に、魚も。野菜は、地べたのシートの上に少量ずつ並べているところもあり、もやし如き、三輪トラックの荷台に山と積んで即売です。見るからに迫力満点。生きたアヒルや、鶏、ウコッケイも売られていました。この内陸なのに、たらいに生かした淡水魚を扱うところも2店。高粱酒の露天では、おなじみの52度から、順番に度数の強いものを並べていて、最強はなんと、
72度でした。どんなお味だったのか、度胸が足りませんでした。私の想像を超越した世界が広がっています。
滞在中のオサイフをトクタホさんにお任せにしていたことを後悔しながら、徐さんにおねだりして「手ぼうき」を買ってもらいました。これは、和光大学の研究室の宝物にしています。
その後、彼のおごりで、名物という4元ラーメンを賞味。白い麺の太さが一様でなく、まとまって団子のようになっている様子が、「目黒寄生虫館」の展示品を髣髴させる逸品。博多ラーメン同様、かんすいの少ない麺で、淡白なスープの味付けは塩と味の素と見ました。いまや会社経営者となった徐さんは、こんな早朝から働いて、いったいいくらの収入になるのやらと、実直なモンゴル同胞のことをしきりに同情しています。
ごまを機械ですり潰し、油を絞りながら売っているのが珍しく、並びのお店を見ると各種のお茶を扱うところもあり、村でなじんだ黄色バターもあります。気づいたらもう朝の8時。道向こうの歩道には、鉢植えが何種類か並べてありました。売られていたのはオリヅルラン、マツリカなど、昔からの言わば在来品種。それに対し、袋詰め培養土が多種販売されていて、中に「クンシラン用」とカタカナで印刷されているものを発見したときには、さすがに驚きました。お土産に買っておけばよかった。
8時を過ぎると朝の渋滞がひどくなります。ホテルに私たちが着いたあと、今朝、村を出てバス駅からホテルに向かった山上さんとイングさんが到着したのは、ようやく9時前になってから。タクシーが拾えず、「輪タク」を使ったといいます。
そこで改めてタクシーで街に繰り出すことにして、まず行った先が新華書店。ここで書籍とモンゴル音楽のCDを購入。それから、掛け図になった中国地図も。さいわい、売り場の片隅に紙筒があったので、これもおまけにしてもらいました。購入はしませんでしたが、かなりマニアックなオールカラーの骨董本などもあり、現代中国社会の豊かさを感じます。
じつは「図書館」という名前の大型書店の前を、車で何度か行ったり来たりしていて、大変興味深かったのですが、こちらは次回のお楽しみ。「図書館」と言いながら、日本で見るような公共図書館は、モンゴルにはないのだと言います。
次に繁華街のデパートへ。ここで私はガス台売り場を見せてもらいました。というのが、拙宅のガスコンロが、火が時々勝手に消えてしまうオンボロになったこともあり、例の、チャガン家同等のすぐれものをあわよくばお土産にと思ったのです。結局、断念したのですが、その理由が、モンゴルの家庭用ガスボンベには都市ガス、プロパンガスの区別がないというのです。日本円で5000円程度のものとはいえ、ばくちにするにはちと重い。
そこから車を拾って食事に向かいました。
まず、モンゴル食堂街の一角にあるお土産店で、お茶、バター、干し牛肉、煎り粟など、モンゴルらしいお土産をトクタホさんが私たちのために買い求めて、持たせてくれました。感謝!いちどモンゴルの、しっとり塩味の牛肉煮干の味を覚えると、アメリカのビーフジャーキーが美味しいとは思えなくなってしまいます。うう、このモンゴルの罪作り。
そこから歩いて、蘭州ラーメンのチェーン店に入りましたが、ここはひとしお興味深いところでした。
まず「牛肉冷麺」8元也を頼んだら、壁にある大きなカラー写真とちがって、肉は薄いのが一枚きり。6元の、「酸ラー白菜唐辛子炒め」を頼んだら、出されたのを見ると、唐辛子を切らしているといってピーマン炒め。さすが中国は鷹揚です。日本も昔はこうだったのか、どうか、私は知りません。
食後、宿舎に戻ってしばし昼寝。この間、トクタホ夫妻は、長らく会っていないおばあちゃんに面会に出かけました。
4時ごろになってトクタホさんが戻ってシャワーをあび、まったりしているので私も安心していたら、もう5時前。後で知ったことですが、この間、夫人のイングさんはシャワーも浴びないで、すぐに出かけられる用意を整えて待っていたそう。悪いことをしました。トクタホさんから、徐さんに電話を入れてもらい、夕食の店の予約を依頼。今回は、私がホストということでお願いしました。
ホテルの近所からタクシーに乗ったら、初めて見る女性運転手。按摩ファンの山上さんのご希望で、時間まで按摩に出かけます。さいわい、運転手が出来たばかりの店を知っていて、連れて行ってくれました。全員、1時間48元のコースを頼み、私は生まれて初めてのモミモミ体験です。ふとももの、もぞぐったいこと。ふくらはぎは、ひいひい。肩甲骨あたりも、ごりごり。横で、トクタホさんはすやすやと快眠。
「トンマ?」と言われて、私は要領を得ない顔をしていたのですが、終わった後で起きだしたトクタホさんに聞けば、「痛いか?」。言われてはじめて中国語教科書の字面が思い出されましたが、きょとんとしていて、ほんと、私はトンマだったかも。
6時半に食堂着。そこにはスタイリッシュな若いお嬢さん、誰だろうと思っていたら、徐さんの愛嬢アルナちゃんでした。おお!
蒸し茄子の挽き肉あんかけは、細かく刻んだニンジンの朱、青唐辛子の若緑が美しく、えらく辛いこと。前に英国でハンガリーの友人宅で料理を振舞ってもらったときに、その色鮮やかなことに感動を覚えたのですが、どうして。モンゴル料理も負けていません。それにひきかえ、日本料理の色合いの、地味なことったらもう。私の好きな、味のよく浸みたおでんなどと来たら、無彩色の極致です。そういえば、ハンガリーは、その昔のモンゴル時代のことを誇っていましたから、同類項なのかも。
最後に、名物のロバ肉餃子で締め。今日はホスト(私)のたっての要望ということで乾杯の応酬もなく、歌もなく、静かで和やかな、通遼最後の夜にふさわしい食事会でした。
それから徐さんの運転で、夜の市場へ。市場の入り口で子犬を2匹、並べて売っていました。これは食用でなくて愛玩用ですが、この遅い時間に子犬は難儀なこと。このあたりは主に食べ物の屋台で、臭豆腐のくさい、美味そうなにおいがします。前に黄丹青さんご案内の紹興で、本当にくさいのを外してしまったもの。このとき満腹でなかったら、実は食べたかったかも。
ほかにおでん、串焼き、焼餅など。串焼きには解凍イカもあり、海からこんなに遠いのにと驚きました。解凍と再冷凍を何度繰り返したのかわかりませんが、いかにもでろれんと、くたびれて見えます。
歩道沿いの市場を奥に進むと、食べ物屋台が終わって、衣類、靴など日用品の露店に変わります。まるで何かの縁日のよう。しかも、これは年中無休だといいます。豊かな土地柄と敬服します。
三輪トラックで機械を引いてきていて、上から原料の粟を入れると、機械の中を通って、小さいちくわのようなカリカリのスナック菓子になって高速で飛び出してくるものがあって、これは面白いと思いました。山上さんは熱心に写真撮影。地元の人は慣れっこなのか、足を止めて見ようと言う人はありません。
露店が尽きるあたりで、荒物屋が店の前に商品を並べているところがありました。農村でおなじみの、胴がそろばん玉の形をしたやかんもあります。これは、かまどの径を選ばない優れもの。黒っぽい釉薬のかかったカメも魅力的。ただ、持ち帰るには重すぎ。
それから更に、徐号で公園へと移動。ここの入り口にも食べ物屋台が出ています。行列をなして「旗踊り」をしているおじさん、おばさんあり、スピーカーで大音量のヒップホップ音楽を流しているCD店あり。英国の人も夏には公園でそれなりに楽しそうに遊んでいたものですが、この種の文化は、日本には渡来したのでしょうか、しなかったのでしょうか。縁台将棋よりははるかにスケールの大きなものです。
極めつけが、長さ1メートル近い大きな筆で、舗装の御影石を升目に見立てて字を書いているおやじさん。小さな肩掛けかばんから、見るところ「点滴」のチューブが伸びていて、筆先を濡らす工夫がしてあります。さりげなく、なかなか達者な字を書いています。山上さん曰く「究極のストリート・パフォーマー」。
引けて、徐さんはさらに私たちを別の食事に誘いたかったようですが固辞して、宿で降ろしてもらいました。今度こそお湯のシャワーを浴び、荷物を片付けてから、しばらく持参PCに入れておいた「落語」を聞いて昂ぶる心をおちつけて、1時過ぎに就寝。
■(36) 草原(モンゴル)の風18−九日目、8月5日(日)(Fri, 8 Mar 2013 20:30)
包文光さんの日本語学校を訪問し、授業見学。それから、受講生諸君にご挨拶と励ましのスピーチ。ひきつづき民族大学キャンパスを見学しましたが、ことのついでに、文光さんの運転で市内にある他の大学も一巡してもらいました。どこも、キャンパスがでかいの何の。通遼はこの2年らい、旧市街の住宅街をつぶして川向こうに巨大な新都市を建設中ですが、お昼は川向こうの新開地に車で移動して、包文光校長主催の昼食会でもてなしていただきました。
副校長のゲリルさんは、モンゴル共和国やロシアのモンゴル人をリクルートして、日本語を教え、日本に送り出した実績を持つ人。日本との交流の今後の可能性について、熱く語ってくれました。ただ、こういう宴会は、後になればなるほど乾杯が増え、酒量が多くなる傾向があります。当方としてはテーブルについてすぐに冷たい麦酒で喉を潤したいし、腹がくちくなった後は、そう飲みたいものでもないのですから、ちとつらい。
食後、宿に戻ってしばし昼寝をと思っていたら、文光さんの車が別の店の前に停まったのは、名古屋大学に留学している学生を紹介したいのだと。ついて地階に降りると、なんとここでも一席設けてあり、ありがたいような、だまし討ちに遭ったような、複雑な気分。
ここで紹介された地元勢の一人が市立博物館の警備員で、明日は開館しないが今日は開いているというのを聞きつけ、それをよいことに、ビールにもほとんど口をつけずに無礼を詫びつつ中座。トクタホさんとふたり、博物館へと歩きました。いや、暑かったの何の。
ところが、着いてみるとやはり「停電閉館」。フロア中央の机のまわりに人がたむろしているのは、トクタホさんによれば、せっかく出勤してきたのに閉館で、手持ち無沙汰な職員なのだそう。中に日本人の小さいお嬢さんもひとり、いましたが、それくらい、今日の急な閉館については職員にさえ情報が伝わっていなかったことが分かりました。
とはいえ、日数の限られた旅行者です。せっかくなので、見学できる範囲。すなわち一階部分に置かれている「新通遼都市計画」モデル図や、探しても解説が見あたらない青銅の大なべ、この地域ならではのワゴン(移動式のくるま)二台を巡覧。それから館外へ出て、隣接している「麦飯石」店やチベット仏具店、水石店などを冷やかしました。いずれもこ奇麗な、高級そうな感じのお店ばかり。
あまりの暑さに、宿に戻って一休みして目覚めると、徐天文さんが階下で待っていました。聞けば、われわれの到着直後に来たのだが、遠慮をして部屋に電話も入れなかったと。おお、気配りのモンゴル。それにしても気の毒なことをしました。
徐さんは会社の運転手、李さんを同伴。もう5時半なので、街に行っても店は閉まっているだろうと言います。それでもせっかくだからと車を出してくれました。
モンゴルといえば、馬頭琴のほか、ホーミー(喉歌)や口琴のような倍音音楽でも知られています。そこで、ビヨンビヨンの音が出る口琴をお土産にできないかと、お願いして街中の楽器店に連れて行ってもらったのです。閉店間際だったのに、日本からのお客が珍しかったのか、店員のおばさんは快く「口琴」をいくつも出してくれました。ところが、箱がやけに大きいし、重い。開けると、なんとハーモニカが出てきました。そういえば、ハーモニカは口琴というと、前に何か読んだことがあったなあ、と思い出す始末。ビヨン・ビヨンの方の口琴は置いていないそう。あいにくでした。我々が店を出て2分後に、おばさんは戸締りを済ませて退社していました。
それから、車で川向こうの新市街に渡り、新通遼にある徐さんのコンサル会社を見学。高層住宅の一階部分で、200平米もある事務所。近くでおばさんたちが行列をなして布切れを打ち振る踊りに興じていて、かたや中国将棋で遊んでいる子供もいました。いい感じの居住区コミュニティです。出来て数年の新しい街区といいますが、道の反対側には壁のペンキがはがれているビルもあります。住み心地に関係はないとはいえ、大枚はたいて分譲住宅を買ってペンキが剥げた人は、心中穏やかではないでしょう。
ビルの谷間に沈む、赤い大きな夕日を右手に見て、無料配信の脳内BGM「ここはお国の何百里・・」を聞きながら旧通遼のホテルへ戻り、改めて出直したのが、こよいは「農業は大塞に学べ」なるノスタルジックな農村家庭料理店にて、徐さんによる歓迎の宴でした。心づくしがうれしい。愛娘アルナちゃんはあいにく風邪気味ということでお休みなのが残念でしたが、なんとスコップに載せられて出てくるロバ肉と野菜料理や、卵を持った大きなドジョウの鍋など、火に載せてあってぐつぐつ湯気を立てています。おそるべし中国の食文化。
ここでは、李運転手のオクサンに子供さん、徐さんのお姉さん、さらにトクタホさんが高1で習ったという有名なモンゴル語教師、李先生も同席。歌と乾杯の応酬で大いに盛り上がりました。
ようやくお引けかと思ったら、徐さんが、名残惜しいからどうしてもカラオケに行こうと。「乾杯」や、李運転手ジュニアの、堂に入ったマイケル・ジャクソンの物まねで大いに盛り上がり、ホテルに戻ったのは1時。田舎と違い、都会は夜更かしです。
■(35) 草原(モンゴル)の風17−八日目、8月4日(土)(Fri, 8 Mar 2013 20:30)
あさ7時過ぎのバスで通遼に向かいます。村長、お医者さんなどの見送りがあり、チャガンのお父さんからは銘酒「蒙古王」、お医者さんからも二本、52度の白酒を頂戴して都合三本。ありがたやの一方、手間はいらなくなったけれど町でお酒を選ぶ楽しみがなくなったなあと。酒飲みの気分は複雑です。
通遼に向かうバスは、途中、牛の大群に囲まれて身動き取れないなどのハプニングはありましたが、にもかかわらず最終的な通遼到着は、定刻きっかりの8時40分。これはすごい。通遼の市街は、はじめ北京から来たとき以上に大都会に見えました。
荷物を抱えてしばらく移動し、包文光さんの車に拾ってもらいました。待ち受けてくれていたのが、かつて私の研究生だったサルラさん。じつは私の研究生だったモンゴル女性はなぜかサルラさんで、彼女はその三人目だったのです。どのサルラさんだろうと、会ってみるまで分からなかったのですが、まさしく三番目で最後のサルラさんでした。日本海側の糸魚川ゼミ合宿で海水浴を楽しんだことなど思い出されました。
はじめ私は、通遼から赤峰に移動して、そこで会えるといいねという旅行プランだったのですが、移動だけで往復まる一日つぶれてしまうのは惜しいと、今回は赤峰行きを取りやめにしたのでした。そうしたらサルラさんは、列車ではるばる半日がかりの赤峰市から前日のうちに出てきて通遼の友人宅に一泊し、私を待ちうけていてくれました。ありがたいことです。
彼女はさっそくお昼に歓迎の一席を設けてくれて、会場は前に日本の専門学校での留学経験があるという若夫婦のお店の二階。ここは近所にある大学の学生むけに、ランチメニューをお値ごろの値段に設定しているとのことでしたが、開店からまだ2週間で、もっか夏休み中のため、あてにしている学生はまだ来ていないません。日本留学帰りの若者の頼もしいこと。留学中いろいろ苦労もあったでしょうが、たいしたものだと、ただ尊敬します。
再会を喜び、挨拶を交わし、乾杯をして、ご馳走に舌鼓を打ち、・・・満腹。最初の話ではサルラさんは今日のうちに赤峰に戻るようなことでしたが、せっかくなのでもう一泊することにしたそう。そこで、夜は私がもつから一緒に食事を、という話を整えて、ホテルに引き揚げました。
宿舎は、最初トクタホさんが心積もりにしていた第一候補が、行ってカウンターで聞いてみると「明日から大きな会議のため一泊しかできない」というので、第二候補だったという、でっかい役所に併設の豪気なホテルに決しました。ところが、こざっぱりしようとシャワーを浴びたら、なんとお湯が出ない。「うそ、こんなに立派なホテルで?」と、これには驚きました。
うれしいこと、もひとつ。前に和光大学で修士を終え、今回は会えますまいとイキガミ胡さんの宣託があっていた、徐天文さんから、電話がかかってきたのです。彼はてっきり赤峰にいるものと私が思い込んでいたのは、前に旅行先からもらったメッセージ。一家はここ、通遼に戻っていました。トクタホさんが彼が経営する会社を探し当てて、電話を入れてくれていたのだそう。恐るべしモンゴルネットワーク。電話をとった社員は要領を得なかったそうですが、しばらくして本人から、トクタホさんの携帯に喜びの電話がかかってきて、直接話をすることができました。彼は私の弟分。うれしや、なつかしや。
そして夜。サルラさんは、通遼の知人だといって、内蒙古民族大学の教員をふたり、紹介してくれました。ひとりは教育学で、いわば私の同業者。もうひとりが長髪を後ろで素敵に束ねていて、なんと音楽の先生でした。おお、すばらしい。
モンゴルの人の歌のうまさといったらもう、この旅で認識を新たにしたことの筆頭格でした。私を歓迎してと、サルラさんが歌い、その次に歌ってくれた教育学者さんときたら、音楽の先生ではないかと思うくらいの美声。しびれました。
ところがところが、トリの音楽老師は抜群で、そりゃそうなのですが声量が豊かで、豊かすぎ。お座敷、ではない料理屋の個室に倍音がびんびん響いてすごいのなんの。ほんと、こういう狭いところではなく、ホールで聞きたいナアと思った位。はじめモンゴル民謡をいくつか。最後が「オーソレミオ」、はじめモンゴル語で次がイタリア語。タダで聞かせてもらっていいのだろうか、というくらいのプロの技量をがつんと見せつけられました。なんというしあわせ。
すっかり感動したのですが、やや正気づいて、答礼になにか致さずばなるまいと思いついたのが、Q州仕込みの「黒田節兼サンタルチア」。数年に一度、トアフェックの座興で歌っているあれです。音楽老師の前で内心恐る恐る歌いだしたところ、幸い、倍音”のようなもの”が響いているようだったので、なるべく響くようにもって行って歌い納め、ちらりと音楽老師を見たところ、びっくりしました。
私が何にびっくりしたかと言うと、その、音楽老師がびっくりしていたのです。何にびっくりしたのかは知りませんが、まじまじと私を見つめるメンタマがまん丸で、そう、喩えるなら家人の愛猫ド・ローズぽんはびっくり顔のどんぐりマナコですが、それよりも丸くって、夢枕獏『陰陽師』の漫画版に出てくる愛すべき脇役の、源博雅が驚愕した時のようなまん丸。漫画ならぬ、ナマの人間の目がここまで丸くなること、初めて知りました。ああ驚いた。
さて、その夜。ホテルのシャワーはやはり、お湯が出ません。お疲れのトクタホさんが寝入ったあと、大理石の大きな洗面台にだけお湯が出ることを発見し、・・・あとは秘密です。
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■(34) 『月刊社会教育』空を飛ぶA−公州も氷点下 (Sun, 30 Dec 2012 09:25) *
南の風3011号
○2012年1月27日(木)
最初に訂正をひとつ。ソウルの晩は氷点下9.5度と書きましたが、実は14度であったと、翌朝ボラムさんに教わりました。よく冷えていました。
さて、いよいよ公州行きです。私にとっては1984年以来、約30年ぶりという再訪で、期待があります。朝9時にボラムさんにホテルに来ていただき、タクシーで漢江の南岸にあるバスターミナルへ。10時5分の発車までのお茶休みの間、昨晩、私が初めて乗車して車内、構内の広さに感動したソウルの地下鉄が、先月、アメリカの会社によってシステムの優秀さで世界一と認定されたことなど教わりました。ちなみに、二位がパリ、三位東京だそう。
バスは公州まで1時間半の行程ですが、座席は左側2列、右側1列と広々としたレイアウト。働きづめのボラムさんに、移動中くらいは休んでもらおうとかねて考えていたはずなのに、実際は公州大学に関する予習。平生教育の講座を擁する教育学科の、全部で20いくつある教員養成の他学科と違う独自性などの講義を、興味ぶかく聴かせてもらい、休憩どころではありません。
車窓の景色も楽しく、興味深かったのが刈り入れ後の水田に並べられている円筒形の白いビニール包み。中身は稲わらで、おそらく家畜飼料でしょう。この包装は、英仏の田園ではよく見かけたものですが、日本では見たことがありませんでした。これが普及しておれば、東北の家畜に放射性セシウム汚染の毒わらを与えずに済んだのかもしれません。
公州のバスターミナルに到着すると、ヤンビョンチャン先生がいつもの笑顔で待ち受けてくれていました。春先にプサンでお世話になった愛車ヤン号で、さっそく昼食会場に。
座が整うと、正面にイ・ビュンソン学科長、右隣にボラムさんの漢字「宝藍」の名付け親で教育哲学のイ・ダル先生、さらにその右が今年着任した平生教育のパク・サンゴク先生(17号寄稿者)と、初対面の方々に囲まれていささか緊張ぎみ。この私にして、美しい料理の写真を撮らなかったほどでした。ひと段落したところで、名刺代わりに「町田市民自治学校」のちらしを配って、こういうことをやっていますと自己紹介。1時に学科長とパク先生が中座した後、にわかに緊張がほぐれて、打ち解けた世間話の応酬となりました。
きわめつけが、先日の大統領選挙の話題。ヤン先生から、「日本の衆議院選挙についてどう思いますか?」と問われて感想を述べたまではよかったのですが、お返しに「そちらの大統領選挙については?」と水を向けたところ、俄然、ヤン先生とイ・ダル先生のスイッチが入ってしまいました。熱い議論が始まってしまい、小半時、止まらなかったのです。
はじめ、イ・ダル先生はヤン先生に「文さんの教育政策を立案した責任者として、敗れた責任を取らないとね」と、冗談めいていましたが、最後は「一度負けておしまいでなくて、まだまだ先は長いのだからこれで絶望してやめてしまわないように」と、さすが年長者らしいアドバイスでした。日本の友人にもぜひ伝えたいと思ったことです。
食後、先生方は会議のため、大学表敬はあすのお楽しみにして、私たちは公州博物館まで車で送っていただきました。
国立公州博物館は武寧王陵の近くに移転して、威風堂々の立派な建物になっていました。入館無料で、うれしや。音声ガイドも無料で貸してもらえて、またうれしい。手にとって見るとカラー液晶画面つきのすぐれもので、もひとつうれしい。
さすが最新型。韓国語のほか、中国語、英語、日本語が画面から選べるタイプで、ありがたく日本語に設定しました。音量調整も画面から、ということは私には分からず、ボラムさんに教わりました。
マークのついた展示品のケース前に立つと、自動で文物の画像が表示されて音声解説が始まります。しかも、音声がテキスト表示も可能というすぐれもの。あえて難を言えば、展示品の前に立っても解説が始まらない所があったり、テキストの文字が小さかったり等のハードに関する問題点、液晶画面のくま坊やがアニメ声で専門用語を元気よく棒読みする珍妙なイントネーション、中国の唐王朝の「とう」を「から」と読んだりなど、改善の余地も少しはありますが、それは直せば済むこと。考えられる来館者サービスとして、21世紀初頭の最善の制度設計のひとつと感じ入りました。
武寧王陵の発見は、50年前のツタンカーメンに匹敵する希代の発見です。この王陵と、出土品をメインにした展示が一階。棺はコウヤマキで、ヤマトからの招来品と考えられています。二階は旧石器以来の忠南地域の考古学に、一部仏教美術を含んでいます。民俗・歴史は扱っていません。広い館内に精選した文物を展示してあり、ぜいたくなつくりと見ました。うれしかったのが、二階の展示室を出たところのケースに収められている石熊くん。私が学部3年生のとき、博物館で購入して帰った図録の表紙が、この石熊くんだったのです。私のことは覚えていてくれたかな。案内していただいた先生に「公州大学校のシンボルは熊ですが、九州大学は?」と尋ねられた、当時の記憶がよみがえりました。
気づくと外は暗くなっていました。採点業務を終えたヤン先生に車で拾っていただいて、夜は、公州大学平生教育院の忘年会への陪席でした。
鴨鍋のDuckをなぜかDogと聞き違えて、のっけから笑いを頂戴。おかげで、「それでは明日は世界一おいしい保身湯を食べに連れて行ってあげましょう」という申し出をイ・ダル先生に頂戴してしまいました。職員、院生が次々と参集して、おもむろに開会。乾杯のグラスを片手にしたヤン先生の、メンバーへの慰労と励ましの挨拶がすばらしく、答礼のスピーチもまた、しんみりとよいものでした。なぜ韓国の皆さんはパブリックスピーチがうまいのだろう、キリスト教会の影響だろうかと思ったりしたことでしたが、公州大平生教育院の教育力とチームの力量を感じて、大いに刺激を受けました。
ヤン先生の計らいで、大学ゲストハウスに泊めていただけることになり、ヤン号で送っていただいたのが夜の9時半。16階建て学生寮の建物で、入り口はカードロック式。13階5号室のドアを開けると、靴を脱いで上がるようになっており、床暖房のおかげで室内はぬくぬく。窓の外にはキャンパスの建物が並んでいます。ヤン先生の研究室はどこだろうと、明日の表敬を楽しみに、快適な眠りにつきました。
■(33) 『月刊社会教育』空を飛ぶ@−ソウルから氷点下の風 南の風3008号
(Thu, 27 Dec 2012 08:48)
…(承前3007号「再び海を越える『月刊社会教育』」岩本)…
出発前日の25日になってようやくオシゴトから解放され、まず取り掛かったのが懸案の冬支度。寒がり蘭をこの間ずっとベランダに放置していて、冷え込むたびにハラハラしていたのです。取り込む前にまずはカイガラムシ退治をと、機械油乳剤をバケツに溶いて、シリンジをはじめた四秒後にノズルの片方が壊れてしまいました。圧が逃げて使い物になりません。だからプラスチック製品は嫌い。
急ぎ、町田、鶴川、柿生と探し回りましたが、これを前に求めた森三郎肥料商店にもありません。噴霧器やジョウロを製造する零細企業が軒並み倒産と森さんに教わり、不況日本を垣間見た思い。
結局、鶴川駅から柿生経由で、多摩線のさつき台駅まで歩きました。そこのホームセンターでようやくお目当てのシリンジャーを発見。購入して電車に乗り、酒店の配達に便乗して大学に戻った時にはもう、冬の早い日暮れ時。貴重な半日を無駄にしてしまいました。
引き続き、『月刊社会教育』の荷造り。机の上に20センチほど積み重ねたひと山、ひと山の重さはそれほどでもないのに、段ボールに詰めるとずしりと重くなるのが不思議です。今回は私が大学院生のころに世話になった、80年代後半のが主体。
帰宅後、町田から持ち歩いた「金目鯛の身あら」を煮付けて、遅い食事。ゼミ合宿の伊東で、学生が「うまいうまい」と食べていた金目鯛の煮付けは、実はオーバーヒートだったことを、自作してはじめて体得しました。そのままバタン。
明けて26日。3時に目覚めたついでに寒がり蘭を室内に取り込み、二度寝。5時に家人が起きだして出勤の後、私もぐずぐず起きだしてベランダの残り半分に機械油を散布。蘭鉢をウォーディアンケースに収めて、風呂でさっぱりした後、大学へと向かいました。ところが、呼んだタクシーが来ない来ない。そう、年末ラッシュがもう始まっています。電車も遅れて、空港バスに遅れないかとやきもきしました。
ボラムさんの事前情報によれば、今日はヤンビョンチャン先生は終日会議で、私たちの公州行きは明日。なので安心して、朝食はバス車内での朝ビール。
酔眼で車窓を見ると、毎度のことですが、横浜辺の道路沿いの笹薮などの荒蕪地が、私には大変気になります。というのも、前に伊藤長和さんに見せていただいた中華人民共和国山東省の、利用の行き届いた土地の美しさったら。
日本国はこれほど、温暖と降水に恵まれていますから、植物にストックされた太陽エネルギーを適切に回収・処理して電気に変えたなら、どんなにか国土が美しく保たれて、原子力発電だって難なく卒業できるのにと、毎回、同じことを考えてしまうのです。
大韓航空747−400機は、ほぼ満席。霊峰富士を下に見て、富士山は「頭を雲の上に出し」ているのに、頂上の雪はいつ積もるのだろうと益体もないことを考えながら、活字の上に目を泳がせていると程なくソウル。大荷物の受け取りに時間を取りましたが、いつもの笑顔のボラムさんと無事合流できました。やあれやれ。
それが実は珍道中の始まりでした。委細はあえて秘しますが、話に熱中していて地下鉄を乗り過ごしたり、長い階段に呆然としながら大荷物を抱えてヒイヒイ上がったりと、笑いが絶えません。
ようやくのことで「東横イン」にたどり着いたら、極めつけ。なんと、目の前に空港連絡バスのバス停が立っているではありませんか。けれども、負け惜しみではないが直行バスより、私たちの道中のほうが、断然、興趣に富んだものであったと思っています。
チェックインして身軽になって生まれて初めてのソウル街歩き。これまた初めて体験する氷点下9.5度は冷え冷えでしたが、仁寺洞ではお茶のミュージアムに案内してもらい、韓国茶のことをあれこれ教わってから、黄茶でまったり。陳腐ですが、韓国茶の味わいは中国茶と日本茶の中間と感じました。
遅めの夕食は、景福宮の近くという参鶏湯土俗村。遅く来たのですぐに入れましたが、ここは韓国にしては珍しく「行列のできる店」で、前回ボラムさんが鈴木敏正先生たちを案内したときは40分待ちだったとか。メインディッシュは言うまでもなく、本場のキムチ、カクテキも新鮮で、格別のおいしさです。参鶏湯には圧力鍋を使っていること、ナツメの実はふつう食べないことなど、私には新知識でした。
初めてのソウルなので、あすの昼食までこちらでとも考えたのですが、ヤンビョンチャン先生はすでに公州で、学科長や、ボラムさんの恩師同席の昼食会をセットして下さったそう。ああ、何ということでしょう。私としたことが、今回は単なる運び屋のつもりで、ネクタイどころか、名刺すら持って来ていないのです。これからボラムさんと公州に向かいます。(つづく)
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■(32) 草原(モンゴル)の風16−8月3日(七日目) Sat, 8 Dec 2012 21:59 南の風2998号
隣村にシャーマンを訪ねる記、その3
カミサマとの相談です。いよいよ私の番となりました。名前や生年月日などは昨日申告したので、繰り返しません。まずは、今回の旅でお世話になった皆さんへの感謝の気持ちを改めて神様に伝えてもらいました。
私のことを知っている神様が、今日も懐かしがってそこに降りて来ているそうで、モンゴル語、漢語、それに日本語もOKといいます。お言葉に甘えて、日本語モードにしてもらったら、イキガミ胡さんの声色が途中で変わったことは分かったのですが、とても日本語には聞こえません。もちろんトクタホさんにも通訳不能で、これは失敗。欲張らずにモンゴル語でお願いしておけばよかったと思ったことでした。
以前に、和光大学の院生だった徐天文さんに、「カミサマには遠慮しないで、聞きたいことを何でも聞くのがいいですよ、それがモンゴルの習慣だから。帰国したときに私のところに相談に来る信者さんは、とにかく根掘り葉掘り尋ねていきます」と言われていたのを思い出し、それからお尋ねしたのが、高齢の両親のこと。
遠くで暮らしていて、喪主として葬式を出す都合もあり、およそいつ頃になるのか心の準備をと、恐る恐る質問したら、これは失敗。「そういうことは聞くものではありません」と、たしなめられてしまいました。そりゃそうだなあ。「最初に足腰が衰えて、それから次第に弱っていきます」。まだ先のことのようで、安心しました。
改めてイキガミ胡さんにお尋ねしたのが、あの世に行ってしまった知人の近況。せっかくの機会なので、あちらでちゃんと元気にしているのか、元気でないなら供養の香華でもと、先方のニーズを知りたいと思ったのです。
まず、昨年がんで死んだ親しい同僚のことを尋ねると、意外にも「すでに金持ちの家の三男に生まれ変わっています。なので、あなたがお話をすることはもうできません」。
享年47歳でしたが、若くして死んだぶん、再生も早いのだと。早死にの原因についても説明してくれましたが、その内容はモンゴルらしい説明、日本人の様式とはたぶん違うだろうなあと、私は受け止めました。この口ぶりからすると、生まれ変わっていなかったら話ができた様子。惜しいことでした。
次にもう一人、ひと月あまり前に亡くなったばかりの、川崎の図書館長の消息を聞きたかったのですが、神様が言うには、「死んだ人は生きている人を守ってくれます。それが死んだ人の役目です。死んだ人のことをいつまでも悲しむのはよくありません」。
ということで、それ以上お尋ねすることを控えました。こういうところに、モンゴルの死生観を見た思いがします。ちなみに、お墓は人里離れた砂漠の中につくるものとトクタホさんに教わりました。
ところで、モンゴルはチベット仏教と聞きますが、どういう仏教世界が広がっているのか興味深いところ。そこで、イキガミ胡さんにあれこれ質問をして、教えてもらいました。ちょっとしたカルチャーセミナーです。胡さんも上機嫌で、初めて見る日本人にいろいろなことを語ってくれました。
カミサマは1日、15日に「仏頭山」に集まって会議を開くそう。それで、下界のシャーマンもお休みとなるのが、昨日だったそう。それでも、私たちの対応をしてくれましたから、休日労働だったわけです。(ちなみに、ついたち15日というと、古典落語に出てくる商家の店休日と共通というところが不思議。)
「仏頭山」がどこにあるのかについては、「ぜひご自分で調べてみてください」。並み居るカミサマの中でも頭目株が、薬師如来と教わりました。聞いて昔、何かの本で、薬師如来はインド起源でなく草原の出と読んだことを思い出しました。そうか、お薬師さまの故郷は、ここモンゴルだったのだ。シナプスがつながりました。
胡さん自身はふつうの牧民の妻でしたが、心臓病で死にかかったことがあり、シャーマンとして人に尽くすことを条件に回復することを得たそう。旧知の徐天文さんは娘のアルナちゃんが、北京の大病院の専門医が見離すほどの重い脳腫瘍となり、祈って娘の回復を得ることと引き換えにシャーマンの道に入ったといいますから、モンゴルのカミサマは意外に剣呑です。
胡さんも徐さんも、カミサマの世界のことについては、それまでまったく知らなかったのに、気付くといろいろな宗教知識が身についていたといいます。胡さんが住まいを改装して、今のようなことをはじめたのは2年前。こうしたモンゴルのシャーマン、不信心な私の通俗的な理解では、スピリチュアルなコミュニティカウンセラーのようなものかと思っています。それにしても、人が祈るとはどういうことだろう。縄文、弥生の日本列島の祭祀はどうだったのだろう。もと考古学徒としても、興味は尽きません。
別れ際に、胡さんにお布施を直接渡そうとしたら頑として受け取ってもらえず、なので部屋に入ってお祀りしてある仏さまの仏前に100元置いてきました。この金額は、昨日チャガン姉妹がそれぞれお供えしたのと同額。これが相場らしいのです。
トクタホさんによると、こうしたイキガミさまの「通力」は3年くらいしか続かないことが多いそうで、結局、金に目がくらむからではないかとのことでした。以前、ここで大枚10万元もの札束をどかんと置いて、ひとつよろしくと便宜を図ってもらおうとした共産党「幹部」が、即座に追い返されたことがあったとも聞きました。
ところで、日本でも「商売繁盛」とは言いますが、こちらモンゴルでは「発財」。一段と直裁的です。貨幣経済の浸透以前はどうだったのだろうと別の興味もありますが、財を成すことに対する屈託がないのがモンゴル流。漢族と共通の文化で、中国大陸の現世利益信仰の現代的特徴のひとつがこれかと思ったのです。チベットの、チベット仏教だと、この点どうなのでしょうか。
ちなみに私が英国にいた時分の話になりますが、プロテスタントの「ホームグループ」に出入りを許されていたころ、メンバーが声に出して祈る中身は、「これこれの試練に立ち向かう勇気をお与えください」的なものが多く、「なにとぞ儲かりますようにアーメン」は一切ありませんでした。同じ現世利益の神頼みでも、ずいぶんと中身が違います。
ところで、謎めいたことがひとつ。あらかじめ、朝から晩まで信者の列が途切れずと聞いていたのに、早朝から昼の2時過ぎまで私たちがいた間、胡さんを尋ねる人は一人もありませんでした。この貸切り、何だったのでしょう。
さて、お世話になったアムターラホ村チャガン家での滞在も、今宵が最後となりました。夜はお別れの大宴会。トクタホさんやチャガンのお父さんはいそいそとイルミネーションや音響の支度を整え、テーブルには例によってご馳走が並びます。やがて村長さん、お医者さんほか、村の主立ち衆がオクサン同伴で集まってくれました。飲めや歌えや踊れやで、たいそうな盛り上がりよう。400人の村をこの十年らい束ねている村長さんが、じつは私と同い年と知ったのはいささかショックでしたが、討ち死にも辞さんばかりの乾杯の応酬も、これで最後かと思うと名残惜しいものがあります(・・・ちっとも最後ではなかったと、すぐ翌晩には判明したのですが)。
最後に村のみなさんと並んで記念写真を撮り、それを何度も繰り返し、ありあわせの品をプレゼントしたりなどして遅くまで盛り上がりました。これらお客さんがついに辞した後、夜のしじまに、チャガン家はひっそりとなりました。
■(31) 草原(モンゴル)の風15−8月3日(七日目) Sun, 30 Sep 2012 18:08 *南の風2964号
隣村にシャーマンを訪ねる記、その2
チャガン家次女のだんなで東京都職員の前幸地さんが、本日、村を出発して帰国の途につきました。迎花さんと坊やはまた戻ってくるそうですが、私と一緒にこちらにやってきた一家三人は、村の皆さんに見送られて朝7時のバスで通遼へと向かいました。
残された私たち、すなわちトクタホ夫妻と、山上さん、岩本の4名はその後、チャガン兄さんのトラックで昨日行った隣村の神様を再訪。トクタホさん夫妻の昨日の相談ごとは、最終的な決着には至らず、「さらに詳しく知りたければ、朝8時半にいらっしゃい」とのことでした。トラックの荷台に立って、アスファルト道を走り出すと、朝の風がひときわさわやかです。
そんなこんなで8時15分には、神様のお家に到着しました。幸い、他の相談者は誰も来ておらず、私たちが最初。早く済んでくれると、一日ゆっくりできるな。そんなことを期待していました。庭先には胡さんの子供さんがきょうだいで遊んでいます。のどかな光景です。
ところが、トクタホ夫妻の相談ごとだけで優に二時間超。じつに丁寧に相談に乗ってくれています。気づくと何やら緊張が解けて雑談モードのようになっていたのですが、それは待ち時間。実はこの間、トクタホさんの義兄の白兄さんがある買い物に出てくれていたのでした。
皿に盛った果物や干しチーズを勧められたとき、私ははじめ遠慮して手をつけなかったのですが、シャーマンの胡さんが言うには、「ここに来る人すべてに勧めているわけではありません。神様があなた方を歓迎しているのだから、こういう時に遠慮をしてはいけません。」
どうやらモンゴルの神様に気に入ってもらったよう。いただいた白桃は、見た目は日本で食べる水蜜桃同様ですが、果肉がパリパリしていました。
しばらくしてチャガンの兄さんが戻ってきたのを見ると、どこかで赤、黄、青の三色の布を求めて来ていました。白い布は胡さんの買い置きを使います。これらの祭具が揃ったところで、次の儀式が始まりました。
胡さんはまず、これらの布を順に机の上に広げて、モンゴル文字や面白い記号を黒マジックで配置よく書き込んでいきます。それも、トクタホ夫妻にあれこれ尋ねて必要な情報を得ては、空間をリズミカルに埋めていく。そんな作業に見えました。時には定規も使っています。モンゴル文字自体、エキゾティックで興味深いものですから、この美しい布が用済みになったらもらえないかしら、と、話の内容が分からないものですから、そんなことを考えながら見ていました。
ひとつ済んでは独特のたたみ方をして、蛇腹のようにして形を整えます。そうやって、時間をかけて、すべての布にマジカルなパターンが書き込まれました。机の上に重ねられた西洋紙は、そのための下敷きという意味もあったのでした。
布のアレンジが完了したところで、トクタホ夫妻はいったん外に出ます。私も、何かわからないままについて出て見ていると、二人は仏間の窓の外から室内に向かい、丁寧に叩頭の礼拝をしました。そこに生き神様が準備を整えて出てくると、二人を建物に背を向けて並ばせます。その背後、建物がわに例の半裁ドラム缶があるのですが、胡さんはここで布に一枚ずつ火をつけて、めらめら燃してしまいました。
見ていて、これは厄払いの儀式だったのだろうと推察しましたが、後で聞くと、トクさんが日本留学の間、長く放ったらかしにしていた先祖の供養や、清明節の行事のことなどもふくめ、さまざまなアドバイスがあったそう。ふたりの相談がすべて終わったときには、もう昼前になっていました。(つづく)
■(30)草原(モンゴル)の風14−8月2日(六日目−3) Thu, 27 Sep 2012 22:22 *南の風2963号
隣村にシャーマンを訪ねる記、その1
モンゴルは「生き神様」が多いところと聞きます。一説によれば、世の中が乱れてくると増えるのだとも。
午後遅くアップヘー村からチャガン家に帰ってきました。庭先で何となく話をするうちに、さいきん「隣村にいる」と話題に上っていた「生き神様」を、急に思い立って訪問することとなりました。まだ若い女の人だといいます。
トラックの荷台に立って表のアスファルト道を20分ほど走り、それからドロドロ道をやはり20分ばかり。隣村とはいいながら、この距離感。さすがモンゴルです。
着くとそこは普通の、牧民の家。玄関先の門柱には「福旺ん、財旺ん、運気旺ん」「家興り、人興り、事業興る」と縁起のよい対聯看板がかけてあります。レンガ囲いの敷地が広く、中庭がレンガを敷き詰めらたパティオとなっているのは、車で訪れる信者さんの駐車場兼用でしょうか。塀の内側に家庭菜園と花壇があり、花壇にはジニア(ヒャクニチソウ)、オシロイバナが咲いています。濃い桃紅色のオシロイバナは、直径四センチあまりの大輪で、日本や英国では見ない見事なものでした。右手は牛舎となっています。
話に聞いていたのは、ここは早朝から深夜まで信者の来訪がひっきりなしということ。しかし、来てみると来客は誰もなく、ひっそりしています。どうしたのでしょう。
通された家は普通の家屋で、中央に入り口があって正面側には左右ふた間。仕切りの奥にカンのある右側部分が待合室となっていて、左手の部屋が仏間?となっています。仏間の入口すぐのところに、斜めに机と椅子がおいてあり、ここが相談を受け付けるところのよう。「生き神様」がこちら向きに座り、机をはさんで相談者と対面するような並べ方です。机の上には、はさみやマジック、定規のような文房具、それに大判の西洋紙が重ねてあり、洋紙にはマジックのしみも見えます。どういう用途なのか気になります。
待合室から見える仏間の正面には、例によってチンギスハンの肖像がかけてあり、窓際を除く三面に段がしつらえてあって各種の神様がにぎやかに祭ってあるのが見えます。白い神様、金色の神様といろいろ。入り口の左手になる、この仏間の窓の外にもちょっとした焼香のできるしつらえがありました。足元には半裁したドラム缶。火が入った様子で、焼き網こそないがバーベキューの道具と同じです。
やがて、だんなさんと思しき30代のがっちりした男性が現れ、牛を小屋に入れて家の中に戻ってしまいました。近所のおばさんらしい人が外で立ち話をしています。裏のとうもろこし畑のかなたに赤い夕日が沈みました。
待つこと小一時間。御年30歳になったばっかりと見える髪のやや長い、化粧っけのない華奢な女の人が、ワンピース姿で出てきました。この人が生き神様といいます。
聞けば本日は旧暦6月15日。神々の定休日だったそう。というのが、モンゴルの生き神様は信者の相談に自分自身で応対するのではなく、相談内容を神様に取り次いでその神様の声を相談者に伝えるしくみ。月の15日には神様が会議に集まって不在となるので、そのことが分かっている信者は来ない日だったのです。
私たちはそういうこととは知らずに来てしまったわけ。なので、この生き神様(胡さん)は初め、私たちがマスコミか何か、興味本位で来たではないかといぶかって、警戒していたといいます。行儀の悪いテレビ取材班を追い返したことが前にあったそう。そうでないこと、しかも、日本からの人もいるということで特別にご出座となったと、トクタホさんに聞かされました。
トクタホ夫妻、前幸地夫妻、三男夫妻とそれぞれ時間をかけて丹念に相談に乗ってもらっていましたが、待合室に座っていると相談者の背中しか見えません。なので、もそっと前に立って、せめて様子なりとも観察。真剣なコンサルテーションが続いています。
ようやく私の順番となった時には、もう8時半を回っていました。神様もお疲れでしょうからと、旅のお礼だけ言って帰ろうとしたら「みなさんの悩み事の相談に乗るのが私の仕事ですから、遠慮しなくて結構です。」このひと言で、モンゴルの生き神様は偉いものだと感じ入りました。
さて、相談です。まず最初に、名前と生年月日、年齢の記入を求められました。これは以前に経験して知っていたことですが、今回はひとつ失敗。年齢は数えで記入するべきだったそう。日本風に満年齢で書き込みましたから、何か私の想像の及ばない誤差が生じたかもしれません。
また、モンゴルの生き神様との相談の際は、名前も重要視されています。というのも、トクタホさんは先ほど見てもらった時に「別の名前もあったはず」と指摘され、いわれてみれば小さい頃、トクタホの頭に何かついていて何とかトクタホだった、と思い出していました。
さて私は手短かに、私のところの大学院修了生で、こちらに戻ってきている人のについてお尋ねしました。3.11のあと日本を引き払ってモンゴルに帰っているということまで知っていたのですが、その後メイルで連絡がつかなくなって案じていたのです。じつは彼自身がこうした生き神様のひとりでもあり、神様ネットワークで消息がつかめないかと思ったのでした。
すると、神々の中からなんと「毛沢東」が返事をしてくれました。庫倫旗の仏具屋でも売られていた、右手を上げて前方を示している例の像です。日本でも菅原道真や、乃木・東郷だって神様になっていますから不思議はないとはいえ、共産党の領袖が神様とはやっぱり不思議。ここでは、相談の私たちからはちょいと見づらい右奥の祭壇に祭られていました。
さて、その毛沢東カミサマによると、こういうことでした。「彼のほうに事情があって今回は会えないが、いずれ先方から訪ねてくるので心配ないない」。せっかく会えると思っていたので、いささか残念です。
さらに、生き神様の胡女史は、正面右手の祭壇に「あなたのことを知っている別の神様が降りている」といって、その神様を迎える不思議なダンスを見せてくれました。
神棚を正面にすっと立ち、呪文のような祈りの言葉を唱えてから肩をいからせて腕を広げ、ひじを90度折り曲げた状態で、ひじから先を前に倒します。左右同時に倒したり戻したりするので、カックンカックンした動きに見えます。
そうやって不思議なダンスを済ませて机に戻ってきたこの生き神様は上機嫌で、もっと詳しいことが聞きたかったら明日いらっしゃい、モンゴル語でも漢語でも日本語でも答えられますと言っていました。
すっかり遅くなってから、チャガン家に帰宅。残りものを温めなおしてもらって遅い夕食でした。
■(29)草原(モンゴル)の風13−8月2日(六日目−2) Wed, 26 Sep 2012 20:20 *南の風2961号
白い四輪駆動車でトクタホ生家へ
さて、トクタホの生家があるアップヘー村への道のりは、思い出深いものとなりました。
私たちを乗せた白い四輪駆動車「狂潮」号は、はじめこそアスファルト舗装の幹線道路を快調に飛ばしていましたが、いったんわき道に入ったとたん、激しい動き。それもそのはず、昨夜来の雨のおかげであっちこっちが尋常ならぬ泥濘なのです。轍掘れにつかまらぬよう、車は水溜りにさしかかるたびスピードを落とし、ザッパン、ジュルジュルと走り抜けていきます。乗り心地の悪さったらもう、首がくがく。ひたすら前方注視、揺れを予測しながら歯を食いしばるしかありません。
いい加減走り疲れて、そろそろ目的地ではと勝手に思った頃、ついにやってきました。初めて経験する、四駆のスタックです。
大きな水溜りを、右に避けるかなと見当をつけていたのですが、実際に進んだのは左のほう。反対車線に大きく膨らんだところで、深い轍掘れにしっかりつかまってしまいました。前進後退、どうにもなりません。オートマ車だったらそれなりに手もあるのでしょうが、マニュアルギヤでは打つ手なし。あいにくウィンチもついていません。
仕方ないので、全員車外に出て、路傍の柳の枝を折ったりしてあれこれタイヤの下にかませましたが、効果がありません。車を押そうかという気がまったく起こらないぬかるみです。やむを得ず救援を待つことにして、ぶらぶら。こういう人里離れたところでも携帯電話が通じるというのが現代モンゴルのすごいところです。
私はそのあたりで写真を撮って、退屈しません。車窓から見るばかりだったものがいろいろ撮れて、悪いけど結構うれしいかも。
小一時間ほどして、改めてタイヤの下にあれこれ噛ませなおしたところ、運よく自力脱出することができました。やあれやれ。
そこからトクタホさんの生家まで、同じようなどろどろ道をさらに小半時。さすが、日本人が入るのは初めての村というだけのことがあります。
トクタホさんは7人きょうだい。母屋は建て替えてあるそうですが、年の離れたお兄さんが家を継いでいます。正面に母屋を見て左手には、昔ながらの土壁のお家があり、これは物置になっていました。
家の前にはブタが一頭、樹下に番犬と一緒に飼われています。「今度来たときに食べてもらいましょう」、と。こればっかりは、お気持ちだけで十分だと思いました。ほんと。
さっそく、例によってお茶を出していただきました。それから、この日、私たちのために調達してもらった牡馬二頭を出して、いよいよ砂漠行き。一頭をカートにつなぎ、それに乗っての入場です。馬がパカパカ歩くと、人が歩くよりだいぶ速いのですが、それで15分ばかり。空のまことに広いこと。
二頭のうち、一頭は性格が穏やかで初心者向けということでこちらに乗せてもらい、トクタホさんを馬方にして、砂漠の丘陵を一周しました。鞍の代わりに、座布団をしばりつけてあり、鐙はなし。手綱は一本。初日に幹線道路沿いで見たおじさんの愛馬と、装備は寸分変わりません。大学院で歴史学を専攻しているというトクタホの姪御さんが、もう一頭のほうを見事に走らせていました。おおかっこいい。
砂漠の植物で、紡錘形をした指頭大の実を生らせるものがあり、食用になります。タンポポのような白い乳汁を出し、モンゴル名は「らくだの乳」だそう。食べてうまいというものではないが、トクタホ世代にとっては、幼少の頃を思い出す懐かしい味といいます。こういう、自然と文化のあわいを実地で体験できるのが、私にとっては無上の喜び。
もう少し遊んでいたい、出来れば馬のフリーライドに挑戦してみたい気分でしたが、ご飯どきなので帰らねばといいます。もと来た道を引き返し、トクさんの生家に戻ると、立派な午餐の用意が整っていました。
カンに接したテーブルに設けられた客席で、トクタホ兄さんの接待にあずかります。例によってご挨拶と、白酒の乾杯。お兄さんは「実直」を絵に描いたらこうなります、と言った風貌の人物。言葉は通じないながら、気持ちは通じ合う。そういう想いを新たにしました。女衆は例によって私たちとは別のテーブル。そういえば、こちらのご飯は戸外の平釜で米を水煮して、穴あきお玉の大きなのですくい上げたものでした。漢族と同じ炊飯法で、粘りを喜ぶ日本式ではありません。いつごろモンゴルに入った習慣でしょうか。
家の周りには、トウモロコシが例の高畝で植えてあります。熟したのはないかと子供の後について畑に分け入ったところ、時期尚早の上、花粉で全身黄色くなり、クシャミの連発。時ならぬ花粉症で、えらいことでした。イングさんによると、このとうもろこしもF1品種だそうで、毎年、種子を購入しているのだそう。モンゴルの奥地にして、意外なことでした。
家の横の菜園に、レタスなどと共に「食用ほうずき」がたくさん植えてあったのが珍しく、摘んでもらったのを口に入れてみましたが、まだ若くて甘みはほとんどありません。
名残は尽きないが、器量のよい灰色とら仔猫の写真を撮り、さらに家の前で全員の集合写真を撮ってお別れ。帰りはさすがに、剣呑な往路は避けて広い道を遠回りでした。途中、車を停めてトクタホが話をしていた犬<グレイハウンド>連れのおじさんあり。ほんと、知り合いの多い人だと感心します。今日は明るいうちにチャガン家に帰り着くことが出来ました。(つづく)
■(28)草原(モンゴル)の風12−8月2日(六日目−1)(Wed, 5 Sep 2012)*南の風2950号
トクタホのレクチャーを聴いて、モンゴル茶の淹れ方を見る
六日目、8月2日。昨夜はずっと雨。6時前に起き出し、小雨の降る庭先を歩いてみると、地べたが激しくぬかみます。砂地なのに、これは驚き。さらさらの白砂でなく、砂が有機質を含んで黒っぽく固まったところが、ぬるりとすべります。すてんっ!と転びそうで、意外に危険。砂漠の意外な表情を知りました。
本日はトクタホさんの生まれ故郷アップヘー村を訪ねる予定と聞いていましたが、道路状況が心配。ただでさえ悪路と聞きましたから、厳しいのではと思ったのです。トクタホさんは、とうもろこし畑があぶない。水がはける先がないと、浸水被害を案じていました。
かくて様子見となった朝のうち、ゲルにてトクタホさんの研究に関わるレクチャーを初めて聞きました。ハラチン右旗の族長(王)であったグンサンチルグが1903年に日本に行き、民族教育を意図した初めての学校を作り、寺子屋や家庭教師による教育の時代を終わらせたこと。ただ、彼の独立運動は、36旗の旗長(王)会議で諮ったものの、賛同を得られなかったこと。グンサンチルグ研究が許されるようになったのは2000年以降であったこと云々。
雨が降ると畑仕事はお休み。牛の放牧は、遅出で早帰りといいます。雨や雪のことを、「父でも母でも休ませてくれない仕事を、天の神様は休ませてくださる」という俚諺があるそう。宴会でスピーチの交換や乾杯も楽しいが、こういうまったり、しんみりした時間が持てるのはもっとうれしいことです。
そうこうするうちに、トクタホ夫人のイングさんが声をかけてくれて、炊事場でのお茶作りの様子をビデオに収めました。というのが、毎朝、食卓に着くとすでにお茶は魔法瓶に入っているため、これを作るところをぜひ見て帰りたいと、お願いしていたのです。
半戸外の台所に置かれたプロパンガスの二口コンロは、火力の強いすぐれもの。日本円にして3000円位だそうで、お土産に買って帰りたいと思ったほどです。ただ、チャガン父さんたちはおっかながって日ごろ使わないため、今度のように若夫婦が滞在しているときだけの出番といいます。このコンロに、お茶のなべがかけられていました。
黒褐色のお茶の葉をレンガの形に圧縮整形してあるせん茶(石偏に専)は、例のヤギ解体に使われた手斧で砕いて布袋に収めてあります。大きさは小さなこぶし大。これを径30センチ余りのなべで煮出しているところでしたが、すでにミルクも加えてあります。
このお茶は、トクさんによると、3日目になって出が悪くなっても、新しいお茶の袋と一緒に煮出せばまだ使えて、さらに風味がよくなるといいます。ことほどさように、お茶がモンゴルで愛されていると知りました。
同じお茶とはいえ、はるばるモンゴルに招来されるこれは、じつに葉柄たっぷりでタンニンがしっかりしていて、茶の香りには土埃っぽいにおいも加わっていて、率直に申せば日本で尊重されている旨み・甘みに富んだ鮮緑色の玉露や抹茶の対極とも見えます。しかも、味噌汁同様のお椀に注いだミルク茶には、乾燥チーズの薄切りや煎り粟や、果ては小割りした月餅、ビーフジャーキーなどいろいろなものを投入して、お箸でいただく習慣なので、もはや「喫茶」とは言えないかも知れません。それでも、やはり紅茶を産しない英国におけるミルクティー同様、生活の一部として溶け込んでいます。お茶文化の広大さを改めて感じました。
ここで、モンゴルミルクティーは、じょうごで魔法瓶に移す前に、お玉杓子ですくっては泡立てながらなべに戻す作業を繰り返すことで、空気を含んで味が良くなると教わりました。紅茶を西洋風に入れるとき、沸騰直後のお湯を使うのも同様の目的かと思うと、たいへん興味深いことです。
わずかに塩味が感じられる程度に、塩を投入します。朝食のテーブルに出してある白砂糖は、やはり煎り粟を入れて食するヨーグルト用で、お茶に入れることはしません。
朝食後さらにまったりしていたところ、トクタホのお兄さんから、馬も借りて準備しているから出ておいでと電話あり。大丈夫かなあと心配はありましたが、10時になってから、北アップへー村のトクタホ生家に向けて出発しました。この村名は「きれいな女性」の意味で、北アップへーのほか、東・西・南・上と、つごう五つの村があります。例のチンギスハン三男からであったか失念しましたが、アップヘーは、「ここで仔牛に草を食べさせなさい」と、この土地を与えられたのだと。(つづく)
■(27) 草原(モンゴル)の風11−8月1日(五日目)−4 ねずみの手開き
(Fri, 31 Aug 2012 20:25)
*南の風2947号
…(承前)…: 大人三人が、砂漠をジープで一時間も走り回って、獲物はねずみ一匹。こよなく貴重な一匹です。モンゴルでも近年、超高級品食肉としての人気が高まり、品薄。何でも、共産党幹部しか食べられないそう。ねずみのおじさんこと、ウンドゥースさんの家に帰ると、さっそく「食べますか?」。もちろん、お断りする道理はありません。
ねずみをぶら下げたまま、台所でしばらく待っていると、おじさんが戻ってきた瞬間に調理が始まりました。ビデオの準備をする間もあらばこそ。なんと手開きだったのです。
まずぶちっと、首をちぎってボトリ。無造作に土間に捨てます。台所の土間は砂地。「首ねじ切って捨ててんげり」と、そういえば『平家物語』にありました。
次に、首に向かって胴体を押し出すように、毛皮を裏返しに剥いてしまいます。左右の足先のところで、毛皮をちぎりとってボトリ。それから、内臓をまとめてつかみ出して、ボトリ。
最後に、長い尻尾の皮を爪先でしごき取ったところで、仕上げにおばさんから容器の水を注ぎかけてもらって清めて、一丁上がり。この間、ほんの1、2分という早業です。
これに塩を振り、外へ。おじさんは燃料を一抱え、持ってきて、雨よけの下に置いてあるドラム缶かまどに火をおこします。たった一匹のねずみに対し、申し訳ないくらい薪たっぷり。ドラム缶の上に、鶏小屋に使う金網を置いて、焼き網にします。このドラム缶かまどにはパイプが溶接してあり、冬季は暖房用にも使うすぐれものと教わりました。
焼きあがったねずみを皿に載せて食卓へ。ここで改めて、白酒を勧められました。おお、本日の何杯目でしょうか。
ねずみの塩焼きは、最初の一瞬だけアンモニア臭を感じましたが、気になるほどではありません。古代ローマやインカの人も愛したというねずみ肉は、繊細な赤身で味わい深いもの。腹腔内には心臓・肝臓・腎臓が上手に残してあって、滋味豊かでした。残したのは大腿骨くらい。あとは骨をパリパリ言わせて、尻尾まで食べてしまいました。
この愛くるしいトビネズミは日本のペットショップで売られているというので、その後インターネットで調べたら、ん万円もしていました。ああ驚きました。
■(26)草原(モンゴル)の風10−8月1日(五日目)3−砂漠のねずみ狩り
(Fri, 31 Aug 2012 19:39)
*南の風2946号
…(承前)…
庫倫旗から州境を越えてチャガン家に帰りついたのは、もう遅い時間でした。前幸地一家とチャガン父さんは近所の親戚の家にお呼ばれということでお留守。充実した一日のことを思い浮かべながら「あとは寝るだけ」のつもりでしたが、前に話のあったトビネズミ狩りをこよい決行と、急遽決まりました。
車で村はずれにある親戚のお家を訪ねると、そこは「ねずみのおじさん」の家でした。ちょうど宴会が終わってところで、チャガンの親父さん、婿どのの前幸地さんは、ほぼ出来上がっていました。なので、ねずみ狩りの参加は、トクさんと私、ねずみのおじさんの三人だけ。改めて、飲み物(もちろん白酒)をひとしきり勧められてから、ようやく出発。いよいよ砂漠に出撃です。
ねずみ号は、年代ものの四輪駆動車。運転席の天井をカンバス地で張ったソフトトップで、昼間お世話になった韓国製「現代」車とはだいぶ違います。荷台にトクタホとふたり立ち並んで前方注視、悪路をこれから砂漠へと向かう様子は、旧軍で戦車隊員だった司馬遼太郎もかくやと思われるほどの気分。そう、ここは夕日も朝日も赤い、旧「満州」でした。
十分あまりで砂漠に入り、道がなくなりました。砂漠といっても疎に草が生えた草原砂漠です。夜間、巣穴から出て群れで草を食んでいるというトビネズミを求めて、「ねずみ号」は縦横無尽に走り回ります。
目を凝らすと、「ねずみのようなもの」がいくつも見えてきます。しかし、強力なトーチで照らすとそれらはいずれも、ネズミであることをやめて、うしのくそになってしまうのです。まことに不思議。
急に車が止まり、「ねずみのおじさん」がドアから飛び出してきました。あれよと見る間に、荷台の棒を手に取ると駆け出して、ぴしりぴしりと必殺の一撃を続けざまに繰り出します。
十数秒の後には、伸びた獲物が尻尾でぶら下げられていました。それを荷台に放り上げると、次の獲物を求めて発進。
しかし、雨がぽつぽつと降り出してきした。そこでトクタホさんとふたり、座席に座って索敵を継続することに。車が左に曲がるたびに助手席のドアが開いて、私は砂漠に転げ落ちるのではないかと気が気ではありません。その都度ドアを強く閉めるのですが、ヒンジが緩んでいて、直る気配がないのです。
そういうことをしばらく続けていましたが、雨が次第に本降りとなり、もう、ねずみは穴に戻ってしまったというので、引き返すことになりました。砂漠のねずみも、濡れネズミは嫌と見えます。
引き返すといっても、砂漠。道があるわけではもちろんなく、雨なので星も見えません。どうやって帰るのか、心配になりました。しかし、そこはそれ、10分あまりで見覚えのあるところに戻り、しばらくして、ねずみのおじさん邸に無事帰着。大したものだと思いました。モンゴル人の方向感覚に驚嘆する一方、うしのくそが嫌いになりました。(まだ続く)
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■(25)高知を歩く−8月27〜28日 (草原の風、今日は小休止)
(Wed, 29 Aug 2012 13:55)
:南の風2945号
: *小林先生 今ごろは油山で、グラス片手に、旅の疲れを休めていらっしゃることでしょう。
内田純一さんの大変なご尽力のおかげで、高知の風土が生んだ見識に触れることができ、
まことに有益であったと思いました。韓国との交流がさらに深まったことも何より。
ちなみに当方手持ちの『月刊社会教育』の古い号、ヤンビョンチャン先生のところに行く
ことが決まりました。もと、福岡市博多区の公民館のコレクションをベースに私が追加して、
英国帰りというワールドトラベラー。和光大学図書館に全巻揃っていたので、だぶっていた
のですが、韓日友好の架け橋になれるとはめでたい。欠本もありますが、不足は皆さんに
助けていただければと思っています。
私は昨日午後の大会終了後、オ・セヨンさんにくっついて、87歳でご存命のセヨンさんのおばあちゃんが、終戦後韓国に引き揚げるまで暮らしていたという美良布(びらふ)の里を訪問しました。何でも、もと養蚕農家で、当時の日本姓は不明だが金姓だったので金なんとかを名乗っていたのではとの話。
時間が惜しいので高知駅までタクシー。昼食とビールを求めて、土佐山田まで列車の人となりました。今日中に行って帰れると分かり、車中にてまずは前途の成功を祝して乾杯。土佐山田からはアンパンマン・ミュージアムに見当をつけて、バスに乗り込みました。
物部川を左に見ながら、バス賃530円也の「美良布」にて下車して、おばあちゃんの故郷を散策。そういう思い出の地というだけで、第三者の私の目にまで「特別な場所」に見えてくるのが不思議です。家並みは変わってしまったにしても、山の稜線は同じだろうなと。
消防署などもある集落の中心地には、アンパンマン以下、やなせたかし氏のキャラクターがいっぱい。セヨンさん、よろこぶよろこぶ。住宅地を北に抜けると、ハヤが群れ泳ぐ清流がありました。双眼鏡ごしにハヤを見て歓声を上げるセヨンさん。しっかりビデオに収めました。歩いてゆくと、物部川にかかる赤い橋が見えてきました。
橋の上でしばらく涼み、折り返した小学校のあたりでにわか雨。工作が楽しい「林田さん」のお宅を拝見したりしながら、鳥居が三つ並んだ神社を経由。おばあちゃんがもと住んでいたところが「大きな神社の敷地になった」というのとは、ちと違って見えます。
バス停までの道すがら、農産物売店をチェック。私が車中のおやつにとホワイトゼノアいちじくをひとパック買い求めて待っていたところ、どうしたことか、同じいちじくをセヨンさんも続けて買い求めたと判明。「気が合ったね」と大笑い。結局、バス待ちの時間にふたパックとも平らげてしまいました。駅の売店でやはり缶ビールを求めて、列車内で今度は見学成功の乾杯。一段とうまい。
夕刻、高知駅にて空港に向かうセヨンさんを見送りました。
からすカアと鳴いて、28日。ホテルで朝食後、食堂にて法政の荒井ご夫妻に声をかけてしばらく情報交換。法政にも「はたけ」があると教わったのは収穫でした。それから街へ。
まずは県立図書館の郷土史コーナー。レファレンスのカウンターにも相談して、「美良布」情報をチェックしなおしたところ、旧県社の神社が、歩いたあたりよりちょっとばかり東側の、アンパンマン・ミュージアムそばにあったことを発見。おばあちゃんはそこに住んでいたのでした。次のバス停で下車すればよかった。
10冊ばかり目を通しているうち、昭和十年に美良布第一尋常小学校が出した郷土学習のテキストを探し出していただき、昔の村の写真図版をデジカメ撮影。オセヨンおばあちゃんが、懐かしがってくれるかもしれません。
そこで本日の予定(牧野植物園と桂浜水族館)を変更して、さっそくにも美良布再訪と行きたかったのですが、お隣の県立文学館に立ち寄って「こびと展」。さらに、寺田寅彦の展示室など興味深い常設展を瞥見してからしばらく歩いていたら、台風の影響か、尋常でない猛烈な雨降り。
県庁に逃げ込み、遅い昼食。結局、外出には半端な時間となってしまいました。庁舎内郵便局で、先般お世話になったトクタホさんに本を発送。丸の内の炭屋さんで話を聞き、私の欲しいくず炭がかえって品薄になっていると教わりました。しばらく前に読んだ紀州の炭焼きさんの本では、ちょっとでも品質が落ちると買い叩かれるとありましたが、中国の禁輸令が影響しているそう。
さらに市民図書館のレファレンスカウンターで、西原理恵子氏いうところの浦戸湾「野良ペンギン」について相談したりしている内に、空港に向かう時間となってしまいました。植物園と水族館は、急ぐこともありませんから、またのお楽しみです。(8月28日記)
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■(24)−草原(モンゴル)の風9 <8月1日午後、「烏雲の森」など>
(Sun, 26 Aug 2012 18:01) 南の風2945号
: *小林先生、 いわもとです。モンゴル報告を高知から送信するのも、おつなもの。
遠い昔の出来事のような気がします。
社全協・全国集会二日目、朝方韓国のヤンビョンチョン先生、チェイルソン先生、
やはりプサンでお世話になったチョン女史、オセヨンさん、ボラムさんと、日曜市
散策とひろめ市場での朝食を楽しみ、その後、平和の分科会でした。昨日らい、
茅ヶ崎グループとの出会いがあり、いろいろなことを教えていただきました。
それにしても、高知の経験に学ぶこと、多々あります。これから、教科書無償の
映画を見に行きます。終了後、和光の学生3名と、ひろめ市場で合流の予定。
午後、予定では研究生だったサルラさんを訪ねることになっていましたが、聞けばまだ連絡はしていないといいます。(おお、モンゴル!) そこで、急遽目的地を変更して、「烏雲の森」へと向かいました。
というのが、烏雲の森は、日本人で小学校教員だった烏雲先生の呼びかけで、砂漠の緑地化が行われた有名な場所。前に和光大学で布和(ぶふ)さんがこれをテーマに修士論文を書きました。里山保全の授業を持っている私としても、ぜひ実見しておきたいところでした。
ところが、道がいまひとつ分かりません。途中で尋ね尋ねしながらたどり着いたのは、トクタホの遠縁という牧畜農家。はじめ何がなんだか分からなかったのですが、イングさんがおばあさんの手を取って、なつかしそうに家から出てきました。
ここは牛を舎飼いで40頭と、ぶたなどを育てています。サイロの餌を与えていましたが、新築のサイロを見ると、地面を掘り込んである、横に長い式。これなら北海道などにあるタワー式と違って、動力コンベアを使う必要がありません。賢い。
木陰には、黒豚のお年寄りが、紐でつながれていました。豚小屋のこぶたは色とりどりで、三毛豚というもの、ここではじめて見ました。おいしくて可愛いぶたちゃんたち。
烏雲の森は、その農家から通りに出てすぐのところでした。入り口の門柱を入ると、まず管理人宿舎、それから事務所や宿泊施設などあり。日本国の某県知事が書いた標柱も立っていました。宿泊施設の部屋数、ベッド数を数えてみると、60名収容と判明。しかし、このごろは日本からのボランティアが来ないため、使われていないそう。トヨタ財団の助成が終わったことと、砂漠化を食い止めるための植林活動が別の場所に移ったことなどが理由といいます。
先月、里山受講生と有名な人工林「明治神宮の森」を巡検したこともあって、この森がどれくらい自然に回帰しているのか、特に林床の植生がどうなっているのかが私にとってたいへん興味深いところでした。
そこで、まず車で最奥部まで行ってもらい、しばらく歩いたあと、再度車で引き返して、もっとも古い植林箇所を見学しました。といって、20年あまり前のことでしょうか。直径15センチばかりの、若い常緑の松と落葉のポプラが交互に列植してあり、どちらかが生き残るよう工夫がしてあります。まだ自然更新どころか、淘汰すらあっていません。林床の下ばえも、光を好む草原のまま。湿地のアシが侵入しているところもあります。木が茂って光が少ない場所では、下草を欠いたところもありました。このような特徴から、烏雲の森は人工のプランテーションの域を超えていないと結論付けられそう。
ちなみに、森の入り口の施設では柏の実生や若木を育てていましたが、植えつけてあるところを見ません。聞けば柏の植樹は、やってはみたものの、うまくいかなかったそう。惜しいことでした。
先ほどの農家に戻ると、お茶の支度ができていました。ありがたくいただいていると、村の食堂でぜひご飯を食べて行けと、これまた急なご招待です。
歓迎の宴会。例によってご馳走がテーブルいっぱいに並び、乾杯の応酬。白酒のビンを片手にふらりとやってきたのが店主で、トクタホとは高校の同級生といいます。よくしゃべるしゃべるしゃべる大変にぎやかな人。トクタホ夫人のイングさんとは初対面だそう。すっかり満腹となりましたが、ここから更に車に揺られて約2時間。運転手さん、ご苦労さんでした。(まだつづく)
■(23)草原(モンゴル)の風8
−8月1日(五日目)庫倫旗へ1(お寺参りと、ダーフラさんとの再会)
(Sun, 26 Aug 2012 00:25) 南の風2945号
地平線のかなたから昇る赤い太陽が美しく、あさ7時前には、チャガンお父さんが畑にホースで水遣りをしていました。いつもは手動ポンプの井戸水を、モーターでくみ上げます。良く出来ています。ただ、こちらの電気は電圧が不安定で、冷蔵庫が壊れることなどが多々あるといいます。なので、冷蔵庫より丈夫な冷凍庫のほうが好まれている由。
朝食はいつものミルクティーに、肉、野菜の炒め物。はじめて炒りタマゴが出ていました。その色の濃いこと。「滋養」と書いてあるよう。
食後さっそく車に乗って、先年、東京で会っていたダーフラさんに会いに、西方の庫倫旗(クルンキ)に向かいました。四輪駆動の大きな乗用車で、これを出してくれたのは町の商店主。私たちのために、店は奥さんに任せてきたそう。アスファルトの幹線道路に出るまで、村と村をつなぐでこぼこの悪路を、結構な距離、走りました。
ようやく幹線道路に出ると、道は一直線で飛ばす飛ばす。対向車もほとんどありません。途中、草原で休憩。遠目に見えていた青い花は、可憐なヒエンソウでした。ここモンゴルがふるさとであったとは。濁りのない青のほか、紫の色変わりもありました。野生のキンギョソウは、小輪でクリーム黄色にオレンジが差しています。モンゴルヒルガオの花には模様があって、たいへん愛らしいと知りました。
周りに何もない、こんなところ、と思われるような場所にも、家畜糞が落ちています。イングさんは子供のころ、草原に来て、竈で燃やすための乾燥牛糞をバケツいっぱい集めたものだそう。春夏のは水気が多くて、乾燥してもすぐ燃え尽きてしまうため、秋口が牛糞あつめの季節といいます。伝統的な生活の知恵が、この世代まではまだ伝わっています。
車はアスファルトの道を快適に飛ばします。途中、大規模な風力発電施設を見ました。風力タービンが数十本も林立しています。しかし、不思議なことにどれも回転していません。
クルンキ植物園にて、まず合流したのはトクタホさんの姉夫婦。彼は七人兄弟ということで、いろいろな人に会えます。広大な敷地で、谷あいにはプールがあり、キッチュなリスやトラの像が並べてあります。どうやら子供向けの施設のよう。樹木は、さすがに乾燥地らしく、りっぱな水鉢を作って植えてもらっていますが、何と、どれも名札がありません。植物に名札が付いていない植物園は、初めての体験でした。歩くと、地層が垂直に現れたがけがありました。つい、化石は落ちていないかと気になります。ガラス温室はありません。
はずれのソバ畑を見学。ところが、蒔いたソバは未開花で、いま花が咲いているのは、去年のこぼれダネから生えたものだそう。ダッタンそばが広く使われていると聞きますが、見た限り、茎の赤い普通のそばのように見えました。
朝吐魯の町外れ同様、丘の上に石積みが何基も、それも規模の大きなものが並んでいます。ここのは、人が集まるようにと近年作ったものだそう。ここも例によって三回ずつぐるぐる巡りました。横手の草地に、ショッキングピンクの、目にしみる紅色をしたナデシコを見ました。小輪で、香りはありません。モンゴルの野生植物はどうしてこんなに色鮮やかなのでしょうか。
高台は見晴らしがよく、双眼鏡が交流の役に立ちました。セメント工場が見えます。チャガンの村の方は砂漠地帯で、時々見かけた石灰岩の石材は、このあたりで購入して、トラックで運んでもらうそう。
さらに、ダーフラ夫妻と合流してからお寺参りとなりました。数年ぶりに再会のダーフラさん、四胡の大きなケースを携えてきてくれました。相変わらず、若々しい黒髪です。トクタホさんからすれば姪御さんもふたり。それぞれ大学生、大学院生とのこと。
このお寺は、あの文革の時代にも廃仏毀釈を免れたという、由緒ある寺院と聞かされました。よほど紅衛兵の信仰心が篤かったのか、仏罰が怖かったのか。
塀が赤く塗られた裏手から入ったら、片側はじゃがいも畑でした。ここは興源寺、ちょうど読経が終わったところで、本堂から若い坊さんが大勢出てきました。数にして20〜30人。入ると左手に当番の坊さんが二人、机に座っていて、受付のよう。背後には、お寺の法要の年間スケジュール。さらに「寺管会」2009年5月付けの掲示があり、十戒律が明示されています。これを仏教の正統とすると、大黒さんがいてお寺が家業になっている日本の仏教は、はたして仏教と呼べるのかどうか。
本堂の天井からは、青黄赤白緑の五色の布のたれ飾りが多数、下がっています。堂の奥のほうには、正面のお釈迦さまを囲むように、金色の菩薩・羅漢がぐるりと並んでいます。例の、筋肉質で額に第三の目が開眼しているラブリーなほとけさまもいます。チベット仏教は、どういう仏世界なのか、知りたくなりました。朝吐魯のお寺のほとけさまと同じく、仏像の首に白、青、黄といった布(旗)を掛けてあります。
ここは庫倫旗三大寺といい、ほかに福縁寺、象教寺があります。
大きな松の根方にごぼうが生えていました。自生地は欧州といいますから、自生ではなさそう。かといって栽培でもなく、これを食用にするのは日本だけと聞いたことがありますから、ことによると日本人の多かった「満州」時代の名残かもしれません。興味を惹かれます。
ちなみに、町の雑貨屋で売っていた野菜の種のなかに、ごぼうの種子はありませんでした。赤い実のニワトコもあります。こちらは植栽でしょう。
境内各所に設けられている小型の「灯篭」が不思議。スタイルは日本で見るのとまったく同じで、春日灯篭のような形をしています。高さ90センチくらいのミニサイズで、なんとプラスチック製なのです。暗くなると明かりをともすのでしょう。これまた奇妙。
広大な境内は高い塀で区切られていて、そこに建物が点在。外のレンガや屋根瓦はグレーですが、内部は色鮮やかに荘厳されています。天井も美しく彩色されていて、解説板によると「硬山式」建築とあります。
「救度仏母殿」は康熙9年、1670年の建築。同年の「玉柱堂」には、歴代の旗の王の肖像を並べてあります。高いところには植木鉢の植物(盆栽)の絵画パネルもあり、一部には古いものも残っています。園芸史の興味を惹かれました。
門と建物の間に、ついたて状をした屋根付の構造物(目隠し)をはさんでいるところ、沖縄と似ています。鐘つき堂が望見されましたが、撞木も美しく着彩されていました。高台の広場から町を見下ろして、左手がトクタホさんが卒業した高校。新しいお寺の建物群は、かつて文革の時代に境内をけずって地方政府の建物が建てられていた跡地。政府は別の場所に移転したそうで、信仰心の勝ちと見えました。もと人口108人の寒村に過ぎなかったこの町は、お寺のおかげでここまで大きくなったといいます。
お寺の前庭には、濃ピンクのハマナスに似たバラが植栽されていました。八重で香りよく、話に聞くマイカイがこれかと。そうび<薔薇>でないほうのバラと推察しました。
珍しかったのが、入り口近い境内の建物に、お寺でないいろいろの施設が入っていたこと。診療所、留学仲介センター、物置、一番奥はなんと、ドラムの個人指導教室でした。
広い広い正面の階段を降りて境内を出ましたが、正面の狛犬も、黄色い布(旗)を首に巻いてもらっていました。
場所柄、数珠などの仏具や仏像を扱うお店があり、スピーカーで女声の念仏「南無阿弥陀仏」を流していました。中を見せてもらって、結局何も買わなかったのですが、にぎやかな仏像に混じって毛沢東の立像が高いところに置いてあったことが珍しく、目に留まりました。私の好きな「六臂瑪哈」など、ラマ教らしい仏さまはありませんでした。製造コストの問題かも。プラスチック製の大玉の数珠など、日本では見ないようなものも売っていました。
並びの土産物屋では、美しいモンゴルちゃんちゃんこを山上さんお買い上げ。だいぶ値段を交渉してもらっていました。壁に掛けてある四胡は、粗末なものでした。
道を渡り、モンゴル楽器を扱う別の店には、それなりに見た目の良い四胡がありました。ダーフラさんが出してもらって、しばらく調べていましたが、お眼鏡にはかなわず「観賞用」とのこと。
昼の宴はモンゴル楽器店の並びの食堂の個室にて。ここのミルクティーは、きざんだ牛肉煮干し<ビーフジャーキー>と煎り粟をバターで炒め、そこにポットからミルクティーを注いで、ジウッ!といわせる、凝ったバターミルク茶。例によって挨拶と乾杯の応酬。義兄さんは、オバマ大統領のモンゴル訪問でも歌われたという旅人を歓迎する歌、ダーフラさんは四胡の演奏でした。名人、上手がそろっています。
すっかりいい気持ちになって店を出て、今度ははじめて乗るオート三輪タクシーにて、市場脇のダーフラ邸に到着。ここでもお茶を出してくれたので、日本から持参の川崎名物の、柿生みつばち「柿ワインケーキ」を出して、切ってもらいました。お返しに、大きさ手触りともに洗濯石鹸によく似た乾燥チーズをいただき、かえって恐縮。お隣に焼き鶏レストランがあって、ステンレス製の鶏焼きかまどや、中に入れて使う、ひなびた焼き物の専用コンロが道端に出してありました。ここで、地元勢と別れて四駆ハイヤーに乗り込みました。(つづく)
■(22)草原(モンゴル)の風7…7月31日その3 (Sat, 25 Aug 2012 06:55)
南の風2942号
: おはようございます。昨夜は私たち四万十フィールドワークのメンバーも、中村にて川
エビびなどを食しておりました。スーパーで、立派な手長えびが100gあたり450円で売
られているのを見ました。それでは本日午後(全国集会・第1全体会)でお目にかかります。
−承前−
<歓迎の宴、もうひとつ>
チャガン家に戻ると、トクタホさんの同僚だった山上亜紀さん(成城大学研究員)が、私たちと同じ北京からの便で到着していました。さっそく、ヤギ肉料理で歓迎の宴となり、ゲルに村長さんはじめ村の主立った男衆が集まって山上さんに歓迎の献杯。チャガン父さん秘蔵の、日本土産の金杯にて。私も「お流れ頂戴」で少しは加勢してあげたのですが、程なく酔っ払いの一丁あがりとなりました。誰かのお土産だったのか、高価そうな白酒の入った立派なパッケージに、「過度飲酒 健康有害」と印刷してありました。
山上さん、今度は子供相手に相撲をとっていましたが、そんなことはお構いなく、包文光さんの日産車にて、午後の日程です。
<ラマ寺参詣>
まずは朝魯吐の町外れにあるラマ教のお寺「寿寧寺」参り。それから、丘の頂上に作られた石積みの宗教施設に参拝。どちらも、アスファルト道から望見されて、気になっていたところです。平原のモンゴルでは、ちょっとでも高いとありがたいのでしょう。石積みは無造作ながら仏さまも安置してあり、時計回りに三周、反時計回りに三周してから拝むのが作法と習いました。年に一度、「お祭り」があると聞きましたが、これはフェスティバルでなく宗教セレモニー。
ここ寿寧寺は、文革でなくなっていたものが、数年前に再建されたそう。線香をいただき、お堂の鍵を開けてもらって、いくつかの建物を順に参拝しました。金色の仏様のきらびやかなこと。その昔の日本の仏様も、さぞかしこんなだったのだろうと想像。お地蔵様まで金色です。金色のお地蔵さん、わたしは良く知りませんが、本邦では平泉の金色堂くらいかと。准提菩薩、送子観音といった、日本ではなじみの薄いほとけさまも。羅漢さまはとりわけ、リアリズム彫刻。那迦犀那尊者は表情豊かに耳をほじくっています。六臂瑪哈とある筋肉質の仏さまは、いかにもラマ教らしく、額に第三の目が開き、迫力があります。
本堂に村長以下、一同座して、坊さんにお経を読んでもらいました。私たちは正面の本尊に向かい、その左手の一段高くなったところに坊さんが座り、それに対峙するように村長が座ります。日本では、坊さんの背中を見ながらお経を上げてもらうことが多いのではと思いましたが、モンゴル流は違います。
それから、休憩。サルラ商店の店頭でスイカを呼ばれました。これも、あらかじめ切れ込みを入れておいて一気に割る式でした。
<「公園」から放牧地へ>
次に公園を見学。これは最近の整備で、お寺の塀の外側。矛を頂上に立てた塚には2009年の年号があり、建てられている馬上の将軍像は、銘板に「哈布図哈薩尓、1164−1227」とあり、チンギスハンの三男といいます。命ぜられて、この地域を治めたそう。観光の拠点を作りたいのだと、トクタホさんに習いました。
さらに、隣接する放牧地へ。あまりに広いので、再度車に乗って行きました。牛も羊も一緒に放牧という、珍しいことをやっています。牛にはつらいはず。道理で、よく痩せています。羊も痩せています。
牧草はと見ると、何とかグラスと呼ばれるような改良種ではなく、これまた痩せた雑草というか、在来の自生種をそのまま利用しているよう。生え方も疎で、栄養状態も良くないものでした。トクタホさんに尋ねると、以前、ヘリコプター播種を試みたが、うまくいかなかったそう。普通に浅く耕起して蒔けばよかったようにも思いますが、生態系としてはこちらがオリジナル。
どう見ても過放牧に近く、その昔の「コモンズの悲劇」を思い出してしまいました。みんながちょっとずつ我欲に走ることで最終的には共倒れになるという、思考実験としては面白いアメリカ人の論文。コモンの本家、英国人からの批判に耐えかねたのか、書いて十年もしてから著者自身が不適切だったことを認めて撤回したのですが、そのことはあまり知られていないよう。日本でいまも一人歩きしてしまっているのを、時々目にします。
<ごみを捨てて帰るモンゴル>
広い放牧地の反対側に、やや小高くなった丘陵があります。そこまで車で移動して腰を下ろしたたところで、包文光号のトランクから出てきたビールをラッパ飲み。持参の双眼鏡を一同に回して、家畜を鑑賞。誰からともなく良い声で歌いだす者あり、唱和する者あり、歌声が風に乗ってまことに風流。
ところが、帰りがけにびっくりしました。ビンを捨てて帰るのがモンゴル流だそう。道理で、ビンやプラスチックが草原の景観を損なっているわけです。しかし、町も同様ですから、捨てておけば天然自然が土に還してくれた時代からのDNAは簡単には変わらないものと見えます。ちなみにチャガン家では、裏手に掘られた六尺深さのごみ穴で処理していました。自治体によるごみの回収はありません。
<やっぱり日本勢全滅>
夜は再度大宴会。クミン、とうがらし、ごまを効かせたヤギの串焼き。胃袋も、ホルモンで言う、いわゆる「ぞうきん」の部分を、ひも状に切って歯ごたえよく焼いてくれました。例の、スープかゆも振舞われました。ヤギ肉のボイルには、頭蓋骨もはいっています。ただ、目は抜いてありました。抜くところを見たかったかも。
お腹がくちくなると、歌舞音曲の部。村長、お医者さんも。ぐるぐるダンスと歌で大いに盛り上がりました。山上研究員は、丘から帰るなり本格的にバタンキュウで、ついに姿を見せませんでした。ことほど左様に、モンゴルの白酒は効きます。(7月31日) おわり
■(21)草原(モンゴル)の風・6
−7月31日その2・モンゴルの家普請(Thu, 23 Aug 2012 18:12)*
南の風2941号
…(承前・「南の風」2940号)…
砂の道を村の奥のほうに進みます。家のこちら側に来るのは初めて。わくわくします。まず目に付いたのが、チャガン家の入り口と同じ、柳で編んだ民家囲いのスクリーン。英国の「ハードル」=陸上競技の名称はここから来ています=は、割ったヘーゼルの木で作りますが、悪いけどそれよりも繊細。芸が細かくて美的です。
まず屋根を半分、トタンで葺いただけの、レンガ積みのお家を拝見。まわりにはまだ、使わなかったレンガが積み上げてある、見るからに工事中のところです。
ひもで鉛直を取る錘が下げてありましたが、レンガは例によって縦縦横横の粗雑な積み方。中は一間きりで、チャガン父さんが砂に字を書いて30平米と教えてくれました。室内にはチャガン家同様、40センチほど高くなった「カン」がこしらえられています。焚口はとチャガン父さんに尋ねると、入り口を入ってすぐの地際を示してくれました。まだレンガで塞いであります。
もう一軒の方は、やはりレンガづくりですが、すでに室内壁をグレーのコンクリで塗ってありました。
こちらのお家はふた間。一間はふつうのカンでしたが、もう一間には、床暖房の設備が設けてあります。これは新しい設備で、普及してまだ2,3年といいます。焚口は建物の外に設けてありました。冬、氷点下の屋外に出るのは寒かろうと思いました。
天井を見ると、皮をはいだ8センチほどの白い丸太の上に、外で見ると同じ柳のスクリーンが載せてあり、「地産地消」を感じました。この、天井に木を編んで使うやり方は、私は、テムズ川をやや上流に行った町、ハンガーフォードの古い家で見たことがあり、また英国とモンゴルの共通点を見つけてしまいました。ほかに、アンペラか何かを編んだものも同様に使われています。
ここで興味深かったのは、ふた間を仕切る壁の天井部分に金具で止めてある赤い布。30センチ四方と見えます。聞けば、この家の中心だそうで、日本の棟上げではないが、なにか家屋新築の民俗儀礼があるのでしょう。
近所に伝統的な土壁の、小さな廃屋があって、これまた興味深いものでした。
入り口は南に面した右手。入ると狭い土間。左手に居間がひと間きりですが、やや広い目の趣きあるガラス窓が南面に開口しています。長辺の切妻方向に太い丸太を7本渡し、直交して細目の丸太をたくさん渡した上に、もう一度、葦の茎を直交させて敷きならべ、天井としていました。いずれも、長年の煤で黒ずんでいます。屋根が破れて穴が開き、日が射し込んでいるところもありました。
居間の北側に?があり、だいぶ崩れています。北側にはひとつだけの小さな窓は、防寒のためか、ふさがれていました。カンの焚口は、入ってすぐの土間側にありました。
居間の正面、すなわち西の壁の内側に、毛沢東の若いころの肖像が貼ってあるのが興味深く、北西すみには、赤く塗られた仏壇であったというキャビネットが置かれていました。居間の天井に貼られた古新聞が日に焼けて、剥がれて垂れ下がっているものもありましたが、1998年の日付のものがありました。20世紀に入って打ち捨てられたものでしょう。どのような生活がここで行われていたのか、興味をそそられました。
こうした伝統的な農村家屋のことを、中国政府は後進性の象徴のように考えて退治したいよう。レンガ造りの家を造るのであれば2万元すなわち日本円にして約30万円相当の建築助成金を出しており、最初に見学した二軒はそういうものであったそう。ところが、その助成金に自己資金を追加して広めの家を建てるといった融通が利かないのだといいます。
途中に見た牧民の家はいずれも小さく、こうやって引き比べてみるとチャガンさんのお家は村内でも素封家と見えました。柳編みのフェンスで囲った庭先には平釜のかまどがあり、やかん用の小さなかまど周りに、水がめ、柳のバスケットもいくつか置かれています。バスケットには、焚き付けにする「トウモロコシの芯」を入れたものや、シイタケを干してあるものも。フェンスを背にした花壇には、奥から順にホウセンカ、ジニア、マツバボタンが列植されて美しく咲き乱れ、キュウリ、メロンなどの植わった立派な家庭菜園が作られています。
戻る途中で、有刺鉄線のフェンスを通過しましたが、そこで見た「踏み越し段」も大変興味深いものでした。これは、フェンスの両側に切り株などの足場を置き、手すりの木を二本立てた間を通り抜けるもので、英国のと酷似しています。近くで見た、ゲートの上に柳の枝を渡して、緑のアーチにしてあるのも、気が利いていました。
さらに、とうもろこし畑を通り抜けましたが、逆V字形の高畝づくり。前に和光大学に留学していた吉林省出身の学生が、和光畑でとうもろこしを育てたときも、このやり方だったと思い出しました。乾燥のため、生育不良の株も混ざっていました。(つづく)
■(20)草原(モンゴル)の風・5−
7月31日、四日目 火曜=やっぱり豚がいい=
(Thu, 23 Aug 2012 12:13) *
南の風2940号
: 岩本@高知空港です。社全協大会に先立ち、本日夕刻から
四万十川ツアーに参加して、25日の全体会に合流します。
6時ちょっと前に起床。きのう母屋前のパティオに放たれた例のトビネズミ君は、脱走トンネルを掘って姿をくらましていました。
6時にはチャガン家の前の道を、牛が牧場に出勤します。その様子をビデオに収めていると、後方からいささか違う、緊迫感に満ちた牛?の声。見ると、例のヤギが縛り上げられるところでした。白い、やや長毛種。角も立派です。あてにしていた解体名人の都合がつかず、別の人に来てもらったそう。チャガンのお父さんも奮闘しています。
ヤギの解体は、ぶたのと似ていますが、違いは、ヤギは皮がお金になると言うこと。毛皮を上手に剥ぎ取ります。なので、沖縄名護の島袋正敏さんのところでいただいたような、香ばしく焼いて毛を除いた「おさしみ」は、モンゴルでは期待できません。
例によって首から流れる血をたらいに受けますが、今回は刺すのでなく、折りたたみの刃物で切っていました。ぶたと違い口を縛っていないためか、傷口が大きい分苦しいのか、動脈を切られても悲鳴がなかなか止みません。これは、聞くだにつらいもの。ついに喉笛をすっぱり切られると、ようやく鳴き声が止まりました。鴎外の『高瀬舟』を思い出しました。
こと切れると、お湯で毛を除く代わりに、さっそく腹の中央に浅い切れ込みを入れて、皮はぎにかかります。片手で皮の端をしっかりつかみ、もう一方の手でこぶしを作って押し込むようにしながら、背に向かってべりべりと皮をはいでゆきます。手足の内側にもナイフですっと切込みを入れ、まるで着物を脱がすよう。蹄は残したまま、足首の関節は、ぶたのときと同じ要領で、ねじってぶらぶらにしたのち切断。蹄の足先が皮にくっついた状態に仕上げます。台の上で皮を剥ぎ取られると、赤むけの身が、生皮の上に横たえられているようになりました。
最後のひと手間が、毛皮はそのままに、立派な角の付け根を頭蓋骨から外す作業。これには、小型の斧のような道具が登場しました。普通の斧と違い、柄に対し刃先が縦でなく横についています。これで角と頭蓋骨のつながった辺りをごんごんやって、細かい骨片をあたりに飛び散らせながら、ぶじ取り外しに成功。
ちなみに、この斧のようなもの。日ごろは、煮出してミルクティーにする磚茶(せんちゃ)をたたき割るのに使う、いわばお茶道具。いろいろな使いでがあるものです。道具とは本来、こうした汎用性のものだったかなあと、「専用工具」や、それに類する○○用カビ取り剤のようなものにあふれた世界に属する身としては、考えざるを得ませんでした。
その後の解体は、ヤギ自体ぶたを小さくしたようなものですから繰り返しません。ただ、見ている限りでは、刃物の切れ味か、脂肪の少ないヤギ肉の切りにくさか、はたまた解体人の腕前かはわかりませんが、ぶたの解体の時のようなさくさく感をそれほど感じませんでした。
消化器系も同じように処理され、血抜きの血と溶き小麦粉をベースにした血のソーセージがまたも作られました。腸はぶたよりだいぶ細くて、茹で上がったソーセージには、ぱきぱきした食感がありました。ドイツソーセージで使っている羊腸に似ています。ぶた腸は肉厚で、思えばゴムのようでした。
ヤギの消化器系の、ぶたとの違いは、何といっても四つある胃袋。反芻動物なので、ヤギの胃は牛のと似ています。これを切り裂き、たらいの水で丁寧に清めたあと、改めてなんと洗濯用の粉洗剤を振ってもみ洗いするのには驚きました。
作業中のイングさんに聞けば、以前は、昔、湖だったところから取れる白い結晶を使っていたそう。アルカリ塩でしょうか。今はまず洗濯洗剤で洗い、次に食器洗いの液体洗剤で洗い、最後に塩で揉んでぬめりを取ります。
見に来たおじさんが、何か声をかけていたのは、「あんまり洗うと、味がなくなってしまうぞ」ということだったそう。本邦東北の滋味「ホヤ」に通じるところもある、微妙な問題です。
これまで内臓系の洗浄はすべて、井戸水を貯めた甕から容器にくみ出した流水を使っていましたが、たらいで水を替えながら洗うところをはじめて見ました。いよいよ、洗濯物と似ています。
ヤギの解体が終わったところで、解体名人代理はオートバイに乗ってどこかに行ってしまいました。なので、本日の朝食はだいぶ遅くて9時から。見ると、はじめてのお客さんが食卓についています。日本留学に行ったことのある子連れの若夫婦と、そのお父さん。こちらで初めて食べるゆで卵の卵黄の色が最高にすばらしい。カロチン色素の添加でないから赤味はないのですが、黄色が何ともみっしりとしていて、滋養に富んでいることが一目瞭然。モンゴルでは卵は、日本と違って高価らしいのです。庭先卵を、漢人が買いにくることもあるそう。都市部ではなんと、合成タマゴまであるという話。いったいどうやれば合成卵か作れるのかは、誰も知りませんでした。
ちなみに、さっきのヤギ解体名人代理は、家を建てに工事現場に出勤して行ったのだと。
聞けば村内で二軒、家が建設中といいます。せっかくなので、食後にチャガンお父さんの案内で見学させてもらうことにしました。(つづく)
■(19)草原(モンゴル)の風・4−7月30日、三日目 月曜=今日はゆっくり=
(Sat, 18 Aug 2012 00:51) *
南の風2938号
小林先生、 岩本@九州です。ネットのつながらない「隠れキリシタン
の里」から、町に出てきました。
6時に起床。今日はこれといった予定がないというので、朝から庭回りの写真を撮って過ごしました。昨日午後に、養魚地そばの砂丘で捕獲されたトビネズミ君は、「ねずみのおじさん」に耳のダニを取ってもらい、カゴから玄関先のパティオに放されると、しばらく逃げ惑っていましたが、そのうち片隅の砂のあるところで、前足で穴を掘って身を隠していました。前足でチョコチョコほじくり、長いカンガルーのような後ろ足でパッパと飛ばします。あのダニ、「ニシマルリスジラミ」ではないが、ことによると新種命名できたのではないかと、後になってちょっと残念。
7時半には食事の用意が整いました。チャガンのお父さんがプラスチック容器から注いでくれた水は、なんと白酒。口をつけるまで、てっきり水とばかり思っていました。びっくり、うー。まるでミネラルウォーターのような5リットルペットボトルで小売りしている白酒を、小分けしたものでした。
さて、初日に購入のドリアンには、実は、これと酒を同時に食すと当たって死ぬという謂れがあります。というか、戦時中、南方で陸軍少年飛行兵をしていた私の父がそう申していました。そんなわけで、おっかなびっくりではありましたが、朝食後、通遼で求めていたドリアンを開いて一同で食したところ、意外に好評。臭がって食べない人も、当たって死んだ人も、幸いありませんでした。
空になったとげとげの厚い外皮は、その後、運転手さんが器用に元の形に復元して、紐で縛り上げてポプラの木につるしていました。モンゴルの青空白雲をバックに珍なる景色。これはシュールでした。
おやつの時間には、すいか。これまた、モンゴル流の切り方が珍でした。私たちは包丁でまず半裁、さらに四等分してしまいますが、モンゴル流はジグザグに切ってばらばらになる寸前でくっついた状態にしておき、最後にドンと衝撃をくれてやると、食べやすくほどけるという超絶技巧。食べなれています。
その後、再び家の周りを散策して、写真撮り。コンパクトデジカメは思ったように写らないので好みませんが、フィルムの残りを心配しなくていい点だけは、たいへん助かります。もちろん、現像代やフィルム代の点でも。
お昼は、なすの味噌炒め、ジャガイモ・野菜豆・豚肉の煮物、枝豆など野菜物がうれしく、これに高名な牛肉煮干(ビーフジャーキー)を加熱したものがつきました。まだまだご馳走ですが、少しだけ、家庭の日常食に近づいた印象を受けました。
昼食後、チャガン父さんの弟さんが150キロ離れた村に帰るというのを、朝魯吐(町)の商店街の鎮役所がわにあるバス停まで、トクタホさんと、包文光さんの車で見送りました。
その後、文光さんが、携帯電話代の支払いといって「中国移動通信」の事務所に立ち寄りましたが、道路から入った通路脇はダリアの花も咲く野菜畑になっています。やはり砂地で、にんにくや豆、トマトなどが植えてありました。家の前のレンガを敷き詰めたところには、例の、モーターと手動ポンプ兼用の井戸がありました。チャガンのお父さん宅のよりも、ちょっと小型。
前に私の研究生だった王サルラさんのだんなの生家が数軒隣と聞かされ、誘われて立ち寄ると、だんなのお母さんが、煎り粟とミルクティーで3人を歓待してくれました。トクタホさんに聞けば別に予約もない飛び込みで、これがモンゴル流なのだそう。手ぶらで行って気の毒しました。
帰途、商店街の端にある「サルラ商店」に立ち寄ると、アイスキャンデーをサービスしてくれました。これもモンゴル流だそう。(友人知人が多いと、商売にならないのでは?)ここは漢人の店で、奥さんがモンゴル人のサルラさんだそう。店をモンゴル名前にして、地元の受けを良くしていると、トクタホさんから教わりました。
夜はゲルにて、来訪した親戚のお客さんと会食。男性二人。どういう縁続きかは失念しました。丸顔がそっくりだけれど、親子ではないそう。前幸地さんが、たばこを進呈していました。
食卓には豚肉のよく茹でたもの、豚肉とネギ白菜の炒め物、キュウリと魚肉?ソーセージの炒め物、ニンジン・キャベツ・インゲンなど野菜の塩漬け、塩辛い味噌だれで食べる生野菜(ネギ・やまくらげ・きゅうり・にんにく)が並びました。例によって素敵な声量の美声で歌を歌ってくれて、当方からも日本の歌を2、3曲お返しし、十時過ぎまで、和やかな交流となりました。
お客が帰った後、気がつくといつの間にかヤギが届いていて、つながれていました。暗闇から、じっとこちらを見ていました。
■(18)草原(モンゴル)の風・3−7月29日の続き
(Wed, 15 Aug 2012 05:11) 南の風2936号
…(前号につづく)… 昼食の時間となり、今朝がた7時過ぎまでぶたこさんだった、この上なく新鮮なボイル肉やソーセージ、血のお好み焼きなどの大ご馳走が、ゲルの食卓に並びました。また乾杯。茹でたてソーセージは、村の人がことのほか好むものと知りました。ぶたの盲腸は太いので、太いソーセージができると知りました。
私としては、茹でただけのソーセージより、油焼きの方が香ばしさがあってうまいと思いました。英国の血のソーセージ「ブラックプディン」も、フライパンで焼いてから食べていました。
最後に出された、骨付き肉をボイルしたスープでつくったというハトムギとトウモロコシの雑炊が、何とも胃にやさしく、うまいものでした。牧民はからだを使うせいか、毎回食卓に上る野菜の漬物をはじめ、どれも塩気がよく効いています。この雑炊も、塩気がしっかり、ほどよく感じられました。
庭先でのぶたの屠殺・解体という大イベントを経験して、お腹がくちくなった午後は、やれやれゆっくり一休み、と思ったらさにあらず。モンゴル勢がいそいそと支度をしているのは、車で近郊の養魚池にてお魚とりなのだそう。包文光さんがこの養魚場の社長さんと小・中学校の同級生で、そのご縁でのご招待と聞きました。
車窓から、枝を利用するための切込みで面白い形をした柳を興味深く見ながら、悪路を養魚地に向かいます。柳の幹は人の丈ほどのところで切断してあり、一箇所から枝を叢生させるコピシングの技法。これで、細い枝から太い枝まで、太さが揃った柳の枝を収穫して、かご編みなどの目的に応じた使い方をします。英国テムズ流域で見るのに比べ、若木で幹は細いのですが本質は同様。これって、モンゴルの「里山」かも。興味深々です。
さて、車を降りて早々、ウンドゥースさんが砂丘斜面にトビネズミの巣穴を発見。
飛び出してきそうなあたりに網を張って捕獲に臨みましたが、穴を掘っていると、なんとネズミはウンさんの懐に。窮鳥懐ではありませんが、窮鼠、懐の瞬間を逃さなかったのは、さすがベテラン。彼はこれ以後、「ねずみのおじさん」と呼ばれることになりました。
話には聞いていたものの、初見のトビネズミは、カンガルーのように後ろ脚が長く、独特のジャンプをします。先に白黒の房毛のついた長い尻尾をつる草で縛り上げられ、あわれ御用となりましたが、それでも、逃走を試みるとたいしたスピードです。
目がくりくりとして愛くるしいったらありゃしない。話によると、格別に美味で肉屋でも非常に高価なのだそう。これは色が淡く、この春に生まれた若い固体といいます。
養魚場についたとたん、モンゴル勢はお父さん以下、童心に帰ったようで水遊びと魚とりに熱中。私と前幸地さんは水に入る度胸がなく、池の周りをぐるぐる回るばかりでしたが、それでもいろいろな発見あり。
細葉ながら、葉の形が麻にそっくりな珍しい植物は、ためしに茎を裂いてみると繊維が丈夫。あとで尋ねてみて、やはり麻(芝麻、ただゴマにはあらず)と教わりました。昔は種子を集めて油を絞っていたそう。
それから、フトイ、サンカクイが生えている浅い湿地帯を点検していると、なんとカブトエビがいました。これも初見。体長二センチほどで、尾の先は二つに分かれていますが、カブトガニによく似ています。掌の上で活発に動き、裏返しにすると小さな足をもじゃもじゃ動かしているのが分かりました。化石でしか見ない三葉虫も、その昔はこのような生活ぶりだったのかと想像しました。
極め付きが、ミズスマシ大の不思議な生物。水中を泳いでいます。ミズスマシくらいの大きさですが、昆虫にしては様子が変だと手にとって見ると、なんと薄い殻の二枚貝でした。開口部から赤味のある肉質の細い足を何本も出して、器用に水を掻いている間だけ浮かび、やめるとゆっくり沈んでいきます。見るからに楽しい癒し系。ペットボトルに数匹入れて連れて帰って、ゲルの中でペットにしています。貝が泳ぐとは、モンゴルはさすがに奥が深い。
さて、お魚の漁獲はといえば、ひげのないコイ?が一匹と、あとはソウギョが20匹くらい。どちらも初見ですが、ソウギョは目が顔の下にある不思議な顔をしています。帰ってからトクタホさんが包丁の腕をふるって造ってくれたお刺身は、せっかくでしたが不味。結局、塩味のスープになりました。池の魚ですから、生臭みはやむを得ません。
夕刻、5時になると、朝6時に放牧場に出勤した牛が帰宅します。包文光さん同伴で道向こうのお医者、ウーリージトクタホさんの牛を見学させてもらいに行きました。すると、せっかくの客人だからとわざわざ白衣に着替えて、診療所の中も案内してくれました。
医薬分業、ではありません。薬品キャビネットの上に仏さまが祀ってあるのが珍しく、机の上には村民400人分のカルテ。机上には、赤ん坊の写真がたくさん、透明ビニールの下にはさんであり、ハッピーな雰囲気が感じられる診療所でした。
同じ屋根の下のお住まいも拝見しましたが、ここもまたチャガンさんのお家同様、家具調度が少なくて、すっきりした生活ぶりと拝察しました。物まみれの生活をしていると、どうしてもあこがれてしまいます。
このお医者さん、私が来てからだって毎日、チャガン父さんのお家においでいただいて、飲んだくれて。ほんと、村の患者さんは大丈夫だろうかと、つい余計な心配をしてしまいました。そういえば、前幸地坊やの瑞(るい)くんが風邪気味で、今朝早くには往診してくれて注射を打ってくれたのだそう。るいくん、今日はでぼちんに保冷剤を貼ってもらっていました。早くよくなりますように。
本日は日曜。夜にはさらに大勢の人が集まり、バーベキューで串焼きパーティ。この日のために、あらかじめ木を燃して砂をかけて消し炭をつくったのだけれども、足りないので私の到着の日に購入に及んだとのこと。
トクタホさんによれば、こよいチャガン家に参集しているのは「村人の半分」だそう。歌と踊りで大いに盛り上がりました。モンゴルの皆さんはなんでこうも歌が上手いのか。自然に、朗々と声が出ます。そしてもうひとつ、なんでこんなに、遠来の客を歓迎し、慰労してもてなす歌が普及しているのか。私は日本の歌のことをそれほど知りませんが、かようなジャンルがあるかどうか、自信がありません。ことによると、こうしたモンゴル客迎え歌の伝統は、20世紀に入ってからのものでないかと推測したりしています。今後、知りたいことのひとつ。
村の皆さん、いろいろなパフォーマンスで歓待してくれましたが、とりわけ、布切れを振り回しながらモンゴルの伝統踊りを披露してくれたお医者さんのはじけぶりが素敵でした。すっかりうれしくなりました。
主立ち衆を見ていて、年齢の割に白髪頭が少ないと感じていましたが、この晩、飲んで男同士でワルツ!をおどったりしているうちに、モンゴルの人は指の掌や骨が太くたくましい反面、肌がきめ細かで柔らかいことなどを新たに発見。こういうことは、本を読んでも分からないことかもしれません。
■(17)草原(モンゴル)の風2−7月29日(日) 村の二日目=私も豚になりたい、と思った日
(Sat, 11 Aug
2012 17:43) 南の風2934号
…(前号につづく)…
夕べ、どうやって就寝したのかを知らないまま、ゲルに敷かれた布団で目を覚ましました。白酒の心地よい酔いが後を引いていて、聞けば前幸地さんも私同様、おしまいの記憶がないそう。
朝から男衆が集まっていて、なんだか騒然としています。そう、今日は豚を屠る日でした。私にとって初めての体験です。レディングで知り合ったハンガリー出身のアッティラが、農村のおじいさんの家の庭先でぶたをつぶす一日の高揚感を熱く語っていましたが、いよいよと思うとわくわくします。
奥の豚小屋で昨夕、ちょこなんといい姿で座っていて、私と目が合った、色白ぶたこさんのけたたましい叫び。ビデオをつかんでぶた小屋へ行くと、ちょうど男衆によって口と前足後ろ足を右左ずつまとめて縛り上げられ、小屋から引っ張り出されるところでした。男衆は、足の間に丸太を通して、湯の沸いているかまど近くに置いた台の上に、ぶたこさんを横たえて固定します。
その喉元をよくよく確かめてから、頭の側に立ったブタ刺し名人が、刃を口元に向けたナイフをぶすり。その瞬間、何があったの?ときょとんとしていたぶたこさん、二刺し目で動脈を切られ、鮮血がだくだくとナイフの柄を伝って流れます。ブタは刺すもので、このときナイフを絶対にひねってはいけないとヨーロッパの文献で読んだことがありましたが、見事なものでした。
流れた血は、かねて用意の水溶き小麦粉の入ったたらいに受けてぐるぐるかき混ぜ、これは後ほどソーセージの原料となりました。喉もとの傷跡には、血がこぼれないようにティッシュペーパーをつめています。なぜかこれが、キリスト教の教祖の聖痕のようにも見えました。このときのバタバタで、ぶたこさんは台からずり落ちてしまいましたが、急速に絶命。見ると、目をつむって、はや安らかな死に顔になっていて、口元には微笑みがありました。素敵な死に顔。こういうぶたに、私もなりたいと思ったほどです。
気づけば脱糞あり。あとで解体していて分かったことですが、消化器系の内容物もたっぷり残っていました。屠殺前日の朝まで通常通りの給餌。昼からは水だけだったと、後で教わりました。
息絶えたぶたこさんはただちに平釜の上に担ぎ上げられ、かまどに薪を足してお湯を沸かしながら、お湯を注ぎかけて湯灌。熱いには違いないが、沸騰するほどの熱湯ではありません。お湯をかけて毛の立ったところを、柄の取れたお玉杓子のような金具でガリゴリこすって毛を始末。こすりに二人がかり、お湯当番ひとりで都合3人。てきぱきと、丁寧に仕事を進めていきます。
ビデオ撮影にすっかり夢中になっていましたが、毛の処理にはまだ時間がかかるからとトクタホさんに促され、ここで朝食。みなさん、愉快そうに朝から飲んでいましたが、二日酔いにはちとつらい。なので、なみなみと注いでいただいた白酒は口をつける程度にして、私はもっぱらビール。「雪花?酒」は度数3.3度で、オリオンビールのような柔らかな口当たりで美味でした。
ごはんは、ミルクティーに香ばしい煎り粟を入れたもの。硬い硬い干しチーズを入れ、ふやかして食べます。乾燥で空隙ができているため、意外に早くほとびます。別に、煎り粟を碗にとり、酸味のさっぱりしたヨーグルトと、バターのマヨネーズくらいにゆるいものを入れて砂糖をちょいと加え、よく混ぜていただきます。
トウモロコシのパンは市販品ですが、蒸かしなおしているのでたいへん美味。わずかな甘みがあります。他にピーナッツの皿も。これらでお腹が十分くちくなってきたところに、さらに結構な肉と野菜の料理がサーブされてくる大ご馳走。とても、ふだんの食事とは思えません。
今回同行の前幸地さん(次女のだんな)は沖縄、コザの出身と聞いていましたが、なんとお父さんが、私が三月に訪問した与那国(どなん)の出と判明。私が持参していたどなん土産の唐辛子ペーストで大いに盛り上がりました。本島のものと辛さが違うそう。たしかに、文句なしに火を噴く辛さで、肉料理によく合いました。
<いよいよ解体!>
食後、いそいそとビデオカメラを抱えてぶたこさんのところに急ぐと、ちょうど毛抜き処理の終わりかけ。時折お湯をかけながら、二枚刃カミソリをつかったり、ナイフを当てたりして、表皮のわずかな汚れまで丁寧に丁寧に清めていきます。耳の中、口の中もきれいにしています。気づいたときにはすでに、爪を抜いてありました。
すっかり白くなったぶたこさん、これからいよいよ解体作業です。
まず最初に、ヒジ・ヒザ下の部分をナイフで刺して、手を入れる穴をつくります。それから、てびち、すなわち豚足部分の切断。関節回りにぐるりと切り込みをいれ、えいやと折り曲げるとバキンと音がします。ひねってぶらぶらになったところを、ナイフで切断。右の後ろ足がなかなか上手くいかず、お次に交代した人がありましたが、改めて3センチほど先を切り込むと、そこが関節。バキンと、今度は上手くいきました。最初の人は照れくさそうに、上手くいったほうは得意そうに笑っています。こうやって技術が伝達されるのでしょう。豚足は次々と柳で編んだカゴに放り込まれていきます。
次に、頭を落としました。喉元から止血ティッシュを取り出し、ナイフで首回りをぐるりと切り込みます。喉元を切り開いたところで、あごの皮にナイフを刺して、にぎり部分をこしらえておくのがポイント。それから、豚足のときと同様、頚椎をバキンと言わせて、切断。一気に耳の後ろまでナイフを入れて頭部を切断します。血を流水で清めたあと、首がどさりとカゴに入りました。
それから、開腹にかかります。喉元から正中線に沿って一直線に、すっとナイフが入りました。ここで、お腹の中央辺の左右に一箇所ずつ、逆さ包丁でナイフを刺しているのは何だろうと思って見ていると、これは指を入れてしっかりホールドするための穴。首を外すときのあごの下も同様でしたが、魚の解体では見られない技術です。内臓を傷つけないように細心の注意を払っていることが、はたで見ていて分かります。
おなかの中には、腸がうねっています。消化器系の両端を細い紐で縛り、前足の間のあばら肉を幅20センチほど切り取って、窓を開けます。さらに細心の注意を払いつつ、内臓を外して、たらいに取り出します。腹腔内の血液は、丁寧に汲みだして、たらいに。それから、水を容器に汲んで、腹腔内を水で清めます。使うのは、顔を洗ったり水を飲んだりするいつもの琺瑯容器です。
ここから、作業は二手に分かれました。
まず、精肉部門。右側を下にした状態、すなわちお腹を手前に、首を左、尾を右にして、頭がわと尾がわの両方から解体が進んでいきます。誰かが仕切るのではなく、手ぢかな所から自分のやることをやるという感じ。さくさくと作業は進み、見た目ですが、重さにして1〜2キロほどの塊が次々と切り出されていきます。切った人は肉塊を手近な台の上やぶたこちゃんの体のうえに載せるだけ。ブロック肉は別の人手によってたらいに放り込まれます。解体の達人とアシスタントの役割は、どうやら決まっているよう。
あばら骨は、3、4本ずつ外していきます。最初に肋骨に沿ってさくさくと肉を切り、背骨に接した付け根にナイフで数回筋目をつけ、えいと力を入れるとバキンと折れます。それを切り離すと、のこぎりは要りません。市販の、というか、英国の肉屋に届けられていたぶたの半身が、背骨をのこぎりで縦断してあったのと、この点が違います。
両側から二人がかりでさくさく切り分けて来ましたが、最後はひとり。こうして、ぶたこちゃんの左半身がすっかりなくなると、残りの半身も同様に処理されて、作業は完了です。
これら肉塊は、広げて粗熱が取れたところで、運び込まれてきた冷凍庫に収められました。アイスクリームを入れるような冷凍庫二台がいっぱいになり、ここで、本日のぶたこちゃんは100キロあったと知らされました。ここは電気が不安定なため、冷蔵庫では不安といいます。冷凍庫のほうが、電圧低下による故障の心配が少ないそう。冷凍しておけばとけるのに時間がかかるということもあるのでしょう。
<腸の処理>
並行して、消化器系の処理が進められていました。のどぶえの軟骨は外して、ここは放り捨てていましたが(おいしいのに!)、その直下で食道をくくり、内容物が出ないようにします。腸は胃の下の12指腸から出発。うねっているのを、腸間膜を切ってまっすぐになるよう整えながら、80センチほどの長さに切っていくのですが、そのやり方がよく出来ています。
すなわち、二人一組で、ひとりが腸の端っこと80センチほどのところを両手でつまみます。切り口に右手を添えてちょっと広げてやると、もうひとりがそこに注水。腸が半透明に膨れたところを、左手はそのまま持った状態で逆さにしてやると、水と一緒に内容物がガボガボと流れ出してきれいになります。それをナイフでちょんと切断。切った腸は、中央で折り曲げて切り口を揃え、台の上に置きますが、その際に切り口をやや台の外にはみ出させた状態にするのが流儀。時に切り口の汚れを、相方に水を流してもらって清めながらこの作業を続けますが、こうした作業はあらかじめ砂地を深く掘った穴の上で行っていました。よく工夫されています。
前処理の終わった腸は、中に箸を差し入れ、裏返しにします。これがソーセージのケーシングになります。
すでに骨付き肉は平釜でボイルされていましたが、そのアクをすくい取っては容器に入れています。これは捨てるのでなく、例の小麦粉と血を混和したたらいに混ぜています。にんにくなどの薬味もみじん切りにして、投入。こうしてできた、赤いどろどろがソーセージの中身です。
腸の一端を結び、もう片方を、底を抜いたワインのガラスビンの口にはめて、この中身をおたまじゃくしですくって入れていきます。入れ終えると輪っかに結び、完了。
生ソーセージがある程度たまったところで、菜園のはずれに持っていきます。そこには、ブロックを三つ置いた上に平釜がすえられ、お湯が沸いていました。ソーセージはこの中にそっと入れられ、丁寧にボイルされます。
途中で何度も茹で加減を確かめつつボイルし、茹で上がるとさっそく15センチほどにちぎったアツアツを手渡され「おいしいよ」。ぶたこちゃんの屠殺からまだ3時間ほどしか経っていません。ひき肉のソーセージは作りません。腸に収まりきれなかった血のどろどろは、台所でフライパンに油を敷いて、お好み焼きのように焼かれました。(つづく)
■(16)草原(モンゴル)の風・1 (Sat, 11 Aug 2012 16:09:22)
南の風2933号
*陳東園さんの歓迎会(8日)、盛会で何よりでした。私も参上したかったのですが、
戻った日の夕刻はさすがにモンゴル疲れで、残念なことでした。
<7月27日(金)、成田から北京へ>
朝8時15分の始発大学バスで鶴川に下り、新百合ヶ丘9時発のバスでさくさくと成田飛行場へと向かいました。メイルのチェックでしばらく時間をつぶして、昼すぎに予定通り前幸地・白迎花夫妻と合流。チェックインカウンターで、重量オーバーと言われた前幸地夫妻の荷物を私のかばんに移し変えたりというハプニングはありましたが、3時過ぎの中国国際航空の機中の人となり、四時間の飛行の後、夕刻6時過ぎに北京到着。新しい空港の第三ターミナルでした。到着後あれこれあって、ホテルの迎えのおんぼろハイエースが到着したときには、さすがに消耗。何より、北京がこんなに蒸し暑いとは。
空港近くのホテルでは、前の客の片付けが済んでいない部屋に通されかけて、別の部屋に替えるだけに小一時間も待たされたりと散々。接遇がまるでなっていないホテルでした。白さんがインターネットで探したそうですが、このホテル、よほど腕のよいウェッブデザイナーとカメラマンを使ったものと見えます。
こんなホテルにお金は落としたくないと、遅い夕食に出ようとしたら、外は雷鳴ざあざあ降りというやらずの雨。結局、ホテルの食堂で済ませましたが、味はまずまず。このホテル、地べたに子犬、子猫が遊んでいて、残飯をもらっているのでしょうか、愛くるしく寄ってくるのもいます。遅い時間にシャワーを浴びて、ようやく人心地ついて就寝。
<7月28日(土)、通遼郊外のアムターラホ村へ>
早朝4時半に起きて、5時のホテルのバスで昨日と同じ飛行場第三ターミナルへ。それが、これまたひどいこと。まず、国内線発券カウンターを探しに、広い建物内を右往左往。極め付けが、チェックインカウンターのとんでもない混乱ぶりでした。
というのも、天候不順のため夕刻の飛行機が出ないかもしれないとアナウンスがあったそうで、切符を早いのに換えてくれるよう大勢が殺到したからたまらない。行列などなく、赤ん坊づれだと分かっていても、割り込む割り込む。赤ん坊泣き出す。阿鼻叫喚の巷。前幸地ご夫妻、ご苦労さまでした。
ようやく検査場に来たら、今度ばかりは赤ん坊づれだからとすぐに通され、やあれ安心。ところが、まだ続きがありました。
エスカレーターを上がってから分かったのが、28Gなる搭乗口はいちばん遠いところ。出発時間が迫っています。さいわい構内移動用の電気連結車が寄ってきて、「急いでこれに乗れ」と。自転車と同じ音のベルをチリチリ鳴らしながら、すいすい走ります。まことに快適。
やれありがたや、助かったと思ったら、そこはそれ。タダではありません。ひとり10元、前幸地さんに立て替えてもらいました。ゲートを出て満員のシャトルバスに乗り込んだとたん、やあれやれ。早朝からの疲れをどっと感じたほど。タラップを上り、機中の人となりました。通遼まで1時間20分の飛行。
<通遼に到着>
通寮はかわいらしい飛行場で、お隣に新しく大きな建物が建設中でしたが、現行のビルは貨物用ベルトコンベアも、荷物を受け取る部分の長さにして10m足らずしかありません。重いトランクを受領して、なつかしいトクタホさんら、お迎えの皆さんに会ったら、旅の疲れも吹き飛びました。前に池袋「満月会」でお会いしたことのあるチャガンのお父さんは、次女迎花さんの息子に初対面です。
さっそく、車二台に分乗して、通されたのが中心街にあるモンゴル料理店。建物の中にゲルや草原風景が再現してあり、しかしトクさんによれば漢族の資本だそう。朝食だというのに、ミルク茶に腸詰、茹で羊肉まで出て、白酒で乾杯。歓迎と答礼のスピーチの応酬。ミルク茶は、湯のみ茶碗でなくお碗でいただきます。薄切りの干しチーズや「牛乳干し湯葉」を入れてふやかしたりして、飲み物と食事の中間のようなもの。感覚としては、日本の味噌汁でしょうか。食器類(白い磁器製の皿、碗、湯飲み茶碗、蓮華とガラスコップ)が一人前ずつセットになって、プラフィルムできつく包装してあるのが珍しかったのですが、今回の旅先の食堂ではずっとそうなっていました。
それから、中国銀行にて日本円の換金。気持ち、小遣い程度を手元に残して、旅の軍資金はトクタホに一任です。すっきりとした店内には、窓口のほかにもキャッシュディスペンサーも。大型カラー液晶は、操作待ちのあいだいろいろな「広告」を映している最新型。金利は3.25%から5.3%まであり、お申し込みは5万元以上、10万元以上といった有利な大口金融商品が各種、用意されていることが分かりました。裕福な人がさらに資産を増やせる社会と見えました。日本も昔はこれくらいの金利だったなあと。
雨上がりの道路には、普通の乗用車のほかに、トラクターでひっぱる荷車や、リヤカーならぬフロントカーつきの自転車、電動バイク、小型電動自動車も走っていて、新旧渾然としています。並みの日本人では手が出ないような大型の外車も珍しくなく、中国の豊かさを垣間見た思い。
途中、車で通り過ぎただけの旧市街には、生活臭あふれる風情のある商店が並んでいて、歩いたら楽しそうなところ。かごに入れた鳩も売られていました。文字看板が多いのですが、メッセージなどさすがに漢字の使い方がめっぽう上手く、読んで楽しいと思いました。漢字看板の上に、モンゴル語で読み方が書いてあるのは、中国本土でローマ字が書いてあるのと同様だそう。
ショッピングセンター「太平洋商業広場」内の食品スーパーで、バーベキュー用の木炭に食材。野菜も大量に売られていて、鮮度のよいものとそうでないものが混ざっていました。卵は500gで3.79元。青とうがらし同1.69元。野菜を少量パックにしたものも売られていました。こちらは2〜3元です。83元と高価でしたが、珍しいドリアンを購入に及びました。
外に出てから、さらに冷凍肉専門店で羊肉も。500グラムで38元から44元、「分割全羊」とあるのは、半身がふたつということでしょうか。これが20キロで1400元と、結構なお値段です。なぜかここでは、なまこの干したのを美しく箱詰めにしたものも販売していましたが、値段はついていません。見るからに高価そう。ワイン専門店には、世界各国のワインがディスプレイされていました。
<馬上の牧人と出会う>
目的地はアムターラホ村。アムターラホとはモンゴル語で「味わう」の意味といいます。もと和光大学研究生で、いまや外国語学校校長の包文光さん運転の日産車で、一直線のアスファルト道を快走。あまりの快適さにうとうとしていたら、車が停まり、放牧の牛がいるから見ていこうと。そこいらじゅう、牛、牛。地平線まで、周囲の視界をさえぎるものがありません。
はるかかなたに、迷彩服を着たおやじさんがひとり、座布団を縛り付けた馬にまたがり、牛を追っています。
そのうちこちらにやってきたのを見ると、見事に日焼けをしていて、手綱は左手の一本だけ。どういう操縦法なのでしょう。しばらく立ち話をしていました。手にしている棒切れは、これがないと牛が言う事を聞かないのだそう。日本にもあるかと聞かれましたが、さあ、見当もつきません。せっかくなので、走って見せてやると馬を駆けさせる、その姿の良いこと。いよいよモンゴルに入ったのだと実感。
村の近くまで来たところで、町の「瑪拉(金3つ)超市」にてビールを購入。入ったところにはスイカが転がしてあり、トタン細工のやかんやちりとり、それに八番線など生活臭あふれるお店。鎌は柄が長く、お土産にしたいほどでした。ほうきの上で、痩せて目やにだらけの子猫が昼寝をしていました。店内には生活用品が一通り揃っている、いわゆる万屋。革で出来た「チンギスハン1162−1227」のポートレイトが店の奥にかかっていました。
<いよいよチャガンの村へ>
幹線道路を左折して砂の道に入り、30メートルほど行ったところで停車。いよいよアムターラホ村に着きました。牛やニワトリが遊んでいて、何とも懐かしい感じがします。左手にある鉄のゲートが、チャガンボルクの生家。柳の細枝を美しく編んだ右手のスクリーンが素敵で、お父さんが手作りしたという「ゲル」が正面に待ち受けてくれていました。
これは直径4メートル近い円形に鉄骨を溶接し、ビニールを張り巡らしています。さらに上には日陰となるよう寒冷紗。
入り口ドアを開けると、内側には蚊帳のカーテン。入って正面奥には、やはりここにも「チンギスハン1162−1227」のポートレイト。中央には扇風機が回っています。昼間はビニールのすそを上げると風通しよく快適。つくづく、よく工夫してあります。
長女でトクタホ奥さんのイングさんとは、数年前の満月の会いらいの再会。すっかり成長した娘、息子に、三女夫妻の息子もいて、何ともにぎやか。幸福な一族です。
<牧民家庭のレイアウト>
まずはお庭を一周して拝見。モンゴルがこんなに砂だらけとは予想していなかったのですが、砂地の中庭には、塀の内側にホウキグサやホウセンカが列植されていて、オオケタデも花を開いたところ。ユウスゲのように見える黄色い花は、つぼみを食用にするそう。金針菜がこれでしょうか。開いた花は、さわやかなよい香りがします。
建物は、英人なら目をむくかと思われるほど粗雑に積まれた赤レンガ製で、左にパティオから入るガラス戸の玄関。扉や窓は二重になっています。赤レンガはコンクリートを目地として、縦縦横横に積んであります。前からあったという屋外のシャワールームには、上に黒ビニールの丈夫な袋が載せてあり、温水が得られる仕組み。私たちの来訪のために室内にも別にシャワールームをこしらえてくれたのですが、こちらは子供のおもちゃ置き場。結局滞在中は、シャワーのお世話にはなりませんでした。
ゲルの先の右手が、木戸を開けて入る家庭菜園。囲いは、ニワトリが入らないようにでしょう。垣にはマルバアサガオの紫紅色が美しく、除草の行き届いた砂地に太ネギ、白いぼキュウリ、半白キュウリ、まくわうり、ささげ、にら、ししとう、とうもろこし、やまくらげなどが育っていました。ネギは葉を切り取って収穫したあとがあります。痕で知ったことですが、ヤマクラゲは、葉だけを収穫して塩気の効いた味噌だれをつけて食べると、ほろ苦く美味でした。
ゲルの裏は左手から右に向かって順に母屋の勝手口、電動三輪カートの駐車場をかねた物置き、プロパンガスコンロが置いてある外台所。ここまでがレンガ造りの壁と屋根つき、その右手の露天には平釜をすえつけたレンガのかまどがあり、煙突の奥はレンガで冬の鶏小屋になっています。はじめ小さな家から出発し、少しずつ増築していって、今の形になったのだそう。
裏手に通じる木戸があり、出て右に行くとお父さん手作りの「衛生間」すなわちお手洗い。これもレンガ造りで、入り口の方を向いてしゃがむ式ですが、金属製の半分ドアと、なんと天井には大きな水タンクがあり、手元のコックをひねると水が流れる立派なもの。私たち日本からのお客さんのために、ステンレスを滑り台式に張って改良したのだそう。これは手動ウォッシュレットにもなることを発見。じつに快適。ありがたいことです。
右手の家庭菜園の奥には、レンガ造りのぶた小屋。手前から黒豚の大と小。小は鼻面に白いマークつきでチャーミング。次が小型犬二頭の犬舎となっていて、歓迎の手ぺろぺろ。猫と違って舌がざらざらではありません。その奥には白ぶたが一頭、ちょこんと両手をついて、いい姿をしていました。一番奥には中型犬が二頭つないであり、しっぽでさかんに砂を払いながらわんつく、ご挨拶。
前庭の、道路から入って左手には、井戸。これはポンプ式ですが、モーターもつないであり、よく出来ています。ポンプを使うには、まず、横の水がめから琺瑯の容器で呼び水を流し込み、レバーをはじめ小刻みにすこすこやっているうちに水が上がってきて、今度はズンボズンボと汲み出せます。柵の裏側に金網と寒冷紗でできた夏の鶏小屋。10羽ばかり、草を入れてやると喜んでついばんでいます。母屋に面して左手は果樹園。アンズはすでに終わっていましたが、ちいさなリンゴやスモモ、それに若いブドウも実っていました。あちこちからコケコッコー、トッテコーカーの鬨のこえが聞こえる、のどかな農村風景でした。
時折、風でポプラの木がごおごお、なびいていましたが、さっそく昼ごはん。母屋に通されて、月餅にチーズ、煎り粟、ヨーグルトでミルクティーです。お茶は、日本でも売っている木をくりぬいた椀でいただきました。やっぱり、味噌汁感覚です。
初日の夜は盛大な歓迎の宴。村長さん、村医者の先生はじめ、村民の三分の一がやってきたという話です。男衆は裏も表も分からないくらいに日焼けしていて、首の後ろにはみごとな亀甲皺がきざまれています。あとでトクタホさんに尋ねたところ、モンゴル人も冬はさすがに色が白くなると言っていました。例によって、スピーチと乾杯の応酬。
初めてオクサンの里にお目見えという前幸地さんは、オクサンにあれこれ指示されながら、初対面の、といってみんなそうなのですが、目上の皆さんにたばこを差し上げて、火をつける。婿殿のお披露目は、これがモンゴルの流儀だそう。思いがけず、観光客の知り得ない世界を瞥見することができました。
(つづく)
■(15)広島の博物館めぐり (Thu, 31 May 2012 12:10)
南の風2893号
*遅ればせながら、内視鏡の処置がぶじ終了とのこと、おめでとうございました。
続けて二晩、当方の夢に出てこられたのでどうしたのだろうと案じていましたが、
風の便りで納得、安堵しました。
この週末(19−20)、社養協の集会で広島でした。日程は土曜午後から、国立江田島青少年交流の家が会場だったのですが、私にとってははじめての広島。あれこれ見ておきたいと、金曜晩のうちから羽田発の飛行機で移動したほどです。
羽田では折からの大風で滑走路が一本閉鎖になり、全日空ご自慢の新型B787に1時間余計に乗っていられました。翼の鎌型が美しく、さすがボーイングはいい飛行機を作ります。窓がスイッチ操作で黒くなったり透明に戻ったりするのが、いかにも不思議。
原爆公園の近くに宿を取り、土曜朝はさっそく、平和記念館。開館直後だったのにもう観光バスが5台も並んでいて、館内も来館者でいっぱいでした。内容は別として一階の展示がいかにも見づらかったのは、パネルが横書きなのに導線が反時計回りだったこと。基本的な設計ミスと見ました。それにしてもこの円高なのに外国からのお客様も多く、ありがたいことです。もっといろいろな言語で解説があればよいと思いました。
地階の展示室は、上階と違って閑散としていました。戦後になって市民が体験を描いた絵画の展示は、よいものだったので、惜しまれました。写真の特別展では、明らかに「和平の塔」と写っているのに、解説で「平和の塔」にしているようなところもありました。よくわかりません。
こういう施設で入場料を取るのはどうかと思いますが、それはともかく、理解に苦しんだのは、図録などを売っているちゃんとした売店が、3階の有料ゾーンに置かれていたこと。1階の誰でも入れる売店は軽食堂兼用で、いわゆる観光土産を扱うお店。館の貴重なスペースを使うほどのものでもないと思ったのです。それから、300円の音声ガイドを試してみましたが、録音内容が説明パネルと大差なく、パネルを一読して理解してもまだしゃべり終わらないのは、時間の無駄かと。300円は授業料でした。
もひとつ言えば、広島原爆は、福島の原発事故に比べると核分裂したウランの量もずっと少なく、生成された放射性物質の半減期も短いものですが、3・11を経験した身としてはやはり、内部被爆の観点からの展示が欲しいと思われました。
それから、人体の一部を液浸標本として展示していましたが、(夜中に賑やかかどうかは別として)、21世紀の人権感覚としてはどうかなと。爆心の特定にクリノメーターが使われたというのは私にとっては新知識でしたが、その英語がアングルメーターになっていました。質の高い博物館展示を作るのは難しいことです。
社養協の会議では、広島女学院大学のOG,院生、学部生の学外実習での学びと気づきの経験が語られたのがとても良い感じで、学生に聞かせたいと思ったことでしたが、委細は省略。一泊して朝の集いでは日の丸を揚げて、君が代を流して三十余年ぶりのラジオ体操。そういえばこれは、国家総動員時代の産物だったと思い出しました。
総会、理事会、研究発表・質疑の後、昼食を取って解散。その後、個人なら事前申し込みなしで自衛隊が旧海軍兵学校を見せてくれると言うので、理事の佐藤さんにくっついて海上自衛隊施設のガイドツアーに参加してきました。
敷地内の売店で定刻まで時間をつぶし(ここがなんとも面白い。床屋には、「危険だから小学生は入ってはいけません」の表示もありました。何でしょう?)、予定では3時から4時半までのところを結局5時すぎまで、見学させてもらいました。
退役自衛官のガイドTさんは福岡、大岳の出身。「志賀島の近くですか?」と言ったら当たり。驚いていました。そして、ツアーの解散後に、お客4人だけでコース外の戦艦長門の主砲まわりまで案内してもらったのでした。
ここにある「教育館」というところ、彼によれば博物館ではないそうですが、敗戦にちっとも懲りていない、まことにつまらない施設でした。帝国海軍のご自慢だった(すなわち、同時代の帝国陸軍をこけにしていた)合理精神のかけらもありません。「日本がいつまでたっても国連常任理事国になれず国際社会で三流なのは、軍備が弱いから」と、いろいろと屈託のあるこの(国連の趣旨を知らない)70過ぎのガイドさんも、砲弾の装薬と炸薬を間違えて説明していました。補給艦勤務の下士官どまりなので、やむをえないかも。ツアーには外国のお客さんも多かったのですが、日本語だけで、日本人にしか受けないような話。英文つきの図録くらいあればいいのにと思ったことでした。
海上自衛隊はここを教育目的で作っているそうですが、この展示に若い自衛官はどういう感想を持っているのか、知りたくなりました。血書きの遺書を、女子高生が気持ち悪いというのでだいぶ引っ込めてしまったとガイドさんは嘆いていましたが、市民感覚としてはこちらが常識的かと。
展示品はたいがいつまらなかったのですが、例外もあり、たぶんグレコ・ローマン学の呉茂一が寄贈した、そのおやじさんが集めたという上級軍人のサイン帖など楽しめました。森鴎外はさすがに手がよく、有名な山県有朋は意外にへたっぴい。秋山真之が、字の代わりに墨で鯉の絵を描いていたのがチャーミングでした。どかんと置いてあった宇垣纏の日記「戦藻録」は、通しで読んでみたいものでした。(戻ってから調べたら、活字になっているようです)。
じつは数年前から和光大学で開講している「文献・史料研究法」の授業で、最近、大正の国定教科書から「日本海海戦」を読んだところでした。20世紀に入ってから、軍国主義がこのように作られたと興味深く学生と分析を加えたのですが、その時に戦艦三笠と信濃丸ともに英国製ということを学んでいました。ここの展示のおかげで三笠の甲鉄がクルップ製と知り、日露戦争が英国ばかりかドイツ経済にも貢献していたことをはじめて学習しました。
常々、自衛隊の広報サービスがいいとは聞いていましたが、本当でした。そして、卒業時の成績が定年までついて回るエリート主義は、まったく、社会教育の精神とは相容れないものだと思いました。
この教育館、変色に気をつけなくてはならない紙ものを並べているのに展示室が普通に明るく、紫外線対策が講じられているのかどうか気になります。
夕方のバスで「小用」の港に出て、フェリーで呉に渡りました。レディングの知人に以前、「日本と言えば、自分はキューリに行ったことがある」と言われて目を白黒させたことのある港町。私になじみの長崎とも違い軍港らしいところ。夜の街を散歩しましたが、ここも広島同様アーケード商店街が立派でした。
一夜明けて朝のうち、例の金環日食をテレビで楽しみ、ヤマト博物館を見学したら、列車の時間がもうすぐ。鉄のくじら(潜水艦)まで見る時間はありませんでした。
大和ミュージアムでもボランティアガイドさんに案内してもらいました。彼はきのうのTさんよりも十歳ほど若く、常識的。大和の測距儀がニコン製といったことなど、小さな声で説明してくれましたが、私にとっては身近な、川崎、津田山の物語です。戦艦金剛から外したボイラーの実物を展示してありましたが、建物の暖房用として、なんと1993年まで現役だったそう。戦争で沈められたらそれきりですが、丈夫で長持ちのよい製品でした。
海軍工廠の歴史・産物を中心とした戦争博物館、地域史博物館、子供向け科学博物館を、2億数千万だが実際には4億以上かかったらしい10分の1スケールの戦艦大和の模型を中心に配置していました。地域史部門がまだ食い足りませんでしたが、呉住民に占める旧軍関係者の割合、市民の声などデータの裏づけがあるともっとよいかと。
終わったあとガイドさんに声をかけて質問したら、興味深いお話を聞かせてくれました。展示してある46サンチ(センチ)砲弾を寄贈してくれた「中国化薬」という会社は江田島にあり、海上自衛隊の御用達で、爆発事故を起こしても不思議に倒産せず、数年後には復活しているそう。某原発の原子炉格納容器は、戦艦大和の主砲が製造された某所で作られたそう。日本の戦前戦後がかようにつながっていたとは。おお!
こういう美味しいお話を、こっそり教えてくれました。
戦艦大和というと46サンチ砲で有名ですが、19世紀のうちに英国海軍がこの大きさの砲を積んだ軍艦を開発していたことはミュージアムのどこにも書いてありません。戦艦陸奥の41センチ砲も「当時としては世界最大」と。ことによると唯我独尊かも。
私にとって有益だったのは、大和製造に使われた工作機械がドイツ製とはじめて知ったこと。ドイツ海軍は、大和級の戦艦を作ろうと思えば作れたということです。
この博物館は、外国との情報交換を密にすると展示の質が向上しそう。解説版のミスプリントは、突貫工事のおかげ?
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■(14)与那国から那覇へB (Fri, 11 May 2012 16:09)
*月が改まって、古い話になってしまいましたが、尻切れトンボというのも収まりが悪いので。
これにて完結です。
…(承前・南の風2870号)…
4月1日の飛行場は、与那国を去る小学校の女先生との別れを惜しむ児童と母親たちで賑わっていました。「記念写真はまず四年生から、次は…」というところを見ると、複式学級だったのか。あいにく、行きのプロペラ機と違い、帰りは図体の大きなジェット機で、しかも満員。同じ便に乗り合わせたはずの彼女とはお話しする機会を得ませんでした。
さて、到着便が遅れての待ち時間のこと。苦そうな「ゴーヤーのジュース」なるものを飲んでみようかと入った飛行場の軽食堂で、私の目に留まったものがふたつ。ひとつは、壁に貼ってあった台湾の遠望写真で、これは「水平線の彼方」というには、ちと近い。私の父祖の地、花蓮港とは姉妹都市とのこと。最近のニュースでは、水上バイクで友好訪問団が与那国にやってきたそうですが、こんなに近かったとは。改めて、前日の荒天が惜しまれました。
もうひとつが、メニューと同じくテーブルの上に出してあった、平成23年度の公民館の年間行事表。「こんなものがなんで、飛行場の軽食堂にあるの?」と思ったほどですが、見るともう、お祭りごとばっかりです。
注文のゴーヤー・ジュースが配膳されたときに、好奇心いっぱいで食堂のおばさんに訊ねてみると。意外やよくご存じで、あれこれ教えてくれました。「公民館長は、ある意味の名誉職で、与那国では、男はこれを務めて一人前というところがある。ただ、持ち出しも多いので、誰もが出来るということではない。しかし比川のような小さな部落では、やむを得ず回り持ちになっている」。この行事表、「役場で新しいのをもらって来ないといけない。これは古いものだからあげましょう。シワのないのが別にあるから」と、奥から出してもらったものをありがたく頂戴して帰りました。いよいよの段になって、いささか調査めいた情報を得ることができました。
来るときは直行便でしたが、帰りの飛行機は石垣経由。機材の与那国到着がえらく遅れたために、なかなかスリリングな乗り継ぎでしたが、ぶじ定刻に那覇に着きました。機上で、離着陸時にしか撮れない写真を撮影していたら、スチュワーデスさんから、「あのう、お客様・・」。電波を発するデジカメと思われたらしいのです。
使用機材は、1950年代のライカM3。20年来の付き合いです。古めかしい皮ケースに入っているのを見せて「いえね、これは電波がなかった時代の古い写真機なのですよう」と言ったら、妙に納得されてしまいました。もちろん、電波は19世紀から使われていました。若い女性をだまくらかしてしまったのかと、ちょっと反省。
那覇では、いささか土地勘を得たのをよいことに、「一日モノレール切符」を求めて、まずは市民会館の骨董市へ。これを教育委員会が後援している理由が分かりませんでしたが、即売品の約半分は内地のもの。とはいえ、これも発見でした。
初めて見るシャム焼きの「古酒甕、35万円也」は素敵でした。おやじさん、「もとは百万したのに、すっかり安くなってしまって」と。この中で熟成させてもらえたら、どんなに幸せだろうと思いました。
別の出店で、大正頃という芭蕉布の縞の着物もあり。魅力的でしたが、傷んだところの修繕が出来ないので見送り。(大宜味村に送ればよかったのかも。)
珍しかったのが、晴天白日マークの古箱つきの清朝の紛粧磁器。初見です。蓋つき瓶子と花瓶がありましたが、南京など博物館の収蔵品が、国・共内戦の混乱時に日本に流れてきたのだそう。骨董屋のおじさんによれば、「東京にいたおじが持っていたのが80箱くらいあり、その半分を形見分けで自分が貰った。ほとんど売って、残りがこのふたつだけ」、と。
急なことでしたが、「博物館」と聞いて血が騒ぎました。個人的な趣味からいえば、青磁・白磁に比べ色の賑やかな染付けは好みではないのですが、私にお迎えが来る前に中国にお返しできそうと、道向こうの病院まで行ってキャッシュ・ディスペンサーで大枚を下ろし、購入に及びました。うー。
その後、壷屋の焼き物店街であわただしく、「古酒用のミニチュア杯」を捜し求め(あるお店では、出掛けに、「お客さん、くれぐれも飲み過ぎないように」と言われました)、それから公設市場の2階で腹ごしらえ。昼食は内地では食べられないヒージャー汁の定食。濃厚なスープに、よもぎ(フーティバー)が添えられていました。
これで大いに元気を回復して、モノレールでいよいよ首里城へ。初めて訪れるこのお城では、石垣積みの精密さに感嘆しつつ、時間に追われて有料ゾーンはまたのお楽しみ。首里の郵便ポストは内地と違って、どうして紅色が濃いのだろうと不思議に思いつつ、生協店舗でおみやげ品を調達した後、最後の公設市場へと取って返しました。首里の公民館、図書館もあり、国の施設だったところが更地になって、売りに出ていたところがありました。
夕食は、チャーミングでカオの大きなハリセンボン(アバサー)の味噌汁+唐揚げと決まり。「ずいずいずっころばし・・・嘘ついたら・・」という俚諺がありますが、これかなあと思いながら2階でお腹を満たし、さらに階下で夜光貝とモズクを宅急便で送ってもらうようにして、別に伊江島産の新にんにくを買い求め、名残は惜しいが飛行場に向かった次第。
今となっては夢のような沖縄行きでした。その後、和光大学では図書館に与那国関係の文献を揃えてもらったりしています。やんばるも、奥も、那覇も与那国も。再訪を楽しみにしています。
*南の風2882号
■(13) 与那国のこと A (Sat, 21 Apr 2012 01:53)
与那国2日目となった3月31日は、前日とは打って変わって横なぐりの雨。遮るものもないところですから仕方ありません。遅く食堂に入った私を世話してくれたスタッフの大辻青年は、愛知は豊川の出身。家人に習った私の「のんほい」に驚いていました。石垣島で働いていて、ここ「アイランドリゾート与那国」の開業に合わせ勤め替えをしましたが、この、とんでもなくHPが魅力的な宿泊施設は5月いっぱいで店じまいといいます。4年前の開業といいますから、リーマンショックにたたられました。部屋の窓から飛行場のかなたに望見される、断崖に打ちつける大波を双眼鏡で鑑賞しつつ、昼前までゆっくり。
雨が小止みになったのを見て、巨岩の中腹にあるティンダハナタから崎元酒造所を尋ね、午後、祖納の伝統工芸館に降りてきたことは前(
9 与那国に行ってきました)にお知らせした通りです。途中、赤や黄色の原種カンナ(ダンドク?)が珍しく、シマタニワタリや、これまで見たこともない、ダンチクを細くしたような幹にエノコログサ様のねこじゃらしをつける不思議な植物を見て、大いに魅了されました。
無料のバスで西の久部良を尋ねる途中、与那国牛の飼育場がありましたが、舎飼いで飼料はたぶん米国起源の穀物。これにはいささか、夢がこわれました。ところどころ、遠くにポニーが見えました。
久部良で日本最西端の岬を訪ねたことも省略。ここでひとつの発見は、岬の南側に立派な港が出来ていたことで、レジャーダイビング用の船が3隻、係留してありました。岬はあれほどの大波だったのに、ここは島陰で、水面が驚くほど穏やかで、サンゴがすかして見えたことが印象的。道々の鉄砲ゆりは雨にも負けず、風にも負けずで、もっと素敵。
久部良バス停脇の商店で預かってもらっていた荷物を受け取り、比川経由で祖納に戻り。バスの運転手に頼んで宿舎の横で降ろしてもらいました。比川には、「自衛隊誘致は私たちの悲願です」の横断幕。小さな島の世論が二分されていることを、ここで初めて知らされました。
宿舎の脇にはバショウ(バナナ)の仲間の植栽のほか、例の木立エノコログサが生えていました。
夜は、「国境」の筋向いにある「女酋長」へ。土曜らしくお客もそこそこの入りで、リラックス出来ました。おねいさんは島の人。マスターと話をしたかったのですが、「国境」と同様、厨房はカウンターの向こうのさらに奥にあり、残念でした。
この晩も、祖納からの帰途、同じ夜道を宿舎に向かいましたが、前の晩と異なりフクロウの声もせず、例の山のじっとりとした視線?を感じることがなかったのは不思議です。「どうやら悪さはしない」と、警戒心を解かれでもしたのでしょうか?
*南の風2870号
■(12) 思い出すままに 与那国のこと @ (Fri, 20 Apr 2012 15:40)
那覇を(30日)午後のプロペラ機で発ち、夕刻に飛行場に到着。まず目に付いたのが「自衛隊配備反対」「町長は町民の声を聞け」ののぼりです。迎えのバスに乗って宿舎にチェックインすると、さっそく共同売店で求めていたフェルト底の足袋に履き替え、祖納方面に向かいました。お目当ては、港の西側に流れ込む川から出たところの海岸。
製糖工場を過ぎて川に出ると、堰き止められた澱みに意外に大きな魚が群れていて、早くもエキゾティックな気分です。橋から道を左手に取り、出られるところまでと海への道を歩くと、沖縄本島ではまだつぼみだった鉄砲ゆりが岩場に純白の花を開いていて、おお、旅情をかき立てられました。
そこから海へ。波打ち際を覗き込み、いろいろな生き物の営みを確認してから、やぶの縁のサンゴ化石の石垣を伝って岡へと向かったところ、痛てて・・・。浮石でバランスを崩してくるぶしをこすったあとを見ると、足袋にはしっかり親指と人差し指ほどの丸い穴が開いていました。サンゴ石灰岩はかほどに摩擦係数が高いこと、身をもって知りました。
道に戻り、先ほどの堰の上の橋を渡って祖納の砂浜へ。近ごろ珍しくボール遊びをしていた中学生が、「観光ですか?」と声をかけてくれました。後になって、「いえね、実はこれこれ公民館の・・・」と相談しておけばよかったかもと思ったのですが、東側に抜けてコンクリのブロックにて自然観察を継続。径4、5センチのカキが付着しているのを、試みにひとつつぶしてみるとうまそうな身が現れましたが、ここでは誰も食べないよう。7センチばかりのトビハゼが、コンクリの波打ち際を「ここまでおいで」式に逃げていきました。
橋を渡って、サンゴ礁の磯を見ると、かなり潮が満ちていました。波のない内海でひとり、のどかに泳いで行ったり来たりしている人もありましたが、私はもっぱら自然観察の続き。かなた東に墓域が望見されたあたりで引き返し、西の方、日の入りをカメラに収めました。
薄暮の町内を散歩し屋根の上にシーサーのいない赤瓦の民家を写真に収めながら一周。役場にはこうこうと明かりがついていましたが、思えば年度末の最終金曜日。地元の生徒による、与那国言葉で書かれた食育標語の看板に驚愕しながら、空腹を抱えてぶんじん先生ご教示の「国境(はて)」に入店。
ところがなんと、店内は見事な満員。ようやくカウンター前に空席をみつけましたが、お店のおねいさんはパニック状態で、注文するのもはばかられるくらい。さすがは3月30日、年度末の金曜です。ジュースで別れを惜しんでいる教師づれの高校生のグループもあり、まさしく送別の季節でした。
帰途、暗闇の中を祖納から飛行場との中間地点にある宿舎まで歩きましたが、その間ずっと、左手の巨岩の存在感に圧倒され通しでした。種類は知りませんが、フクロウの声が途切れなく聞こえます。山の精の凝視を一身に集めているような、不思議な気持ちがしました。
*南の風2869号
■(11) 沖縄、思い出すままに・・「黙々百年塾 蔓草庵」など (Wed, 18 Apr 2012 19:58)
韓国フォーラムの記事(南の風2866号)を拝見し、残念がっています。14日は、里山保全の授業の初日と重なってしまい、折からの荒天でいろいろなことを忘却してしまっていたのです。今日は今日で、3限授業の後、すっかり昼食を忘れてこの時間。山城千秋さんから連絡を頂いたのをよいことに、大学で沖縄のビデオをDVDに焼く作業中なのです。
▼やんばる対談(名護・底仁屋「黙々百年塾 蔓草庵」、右端・島袋正敏さん)20120328
島袋正敏さんの「黙々百年塾 蔓草庵」(3月28日訪問)は、泡盛の瓶や甕に幾重にも囲まれて、思い返すだに、まこと夢のような空間でした。初めて口にさせていただいた17年古酒はすばらしく芳醇。泡盛は年月とともに成熟を重ね、だてには年を取らないのですね。「ああ、私も泡盛になりたい」と思ったほど。
ここで振舞っていただいたヒージャーのお刺身は、これまたはじめての味覚でしたが、まことに絶品。私たちはともすれば、褒め言葉として肉に「臭みがない」などと言い、あたかも無味無臭が最上であるかのごとき価値判断を下しがちなところがありますが、私の考えは、いささか異なります。すなわち、牛は牛らしく、豚は豚らしく、それぞれが種々天賦の香気と味わいを持っていることこそ、賞玩すべきポイントであると、私は思っているのです。
この点、先日私たちのために供していただいたヒージャーのお刺身は、神品の域でありました。私はヤギ肉自体に関しては、かねて英国レディングのイスラム肉屋でハラール肉を求め、塩であぶったり、塩とクミンシードで炒めたり、残りをカレーに煮込んだりしていささか親しんだ経験を持っています。神の名の下に聖別されたハラール肉は血抜きが徹底していて、鶏肉にしても牛肉にしてもヤギ肉にしても、純な味わいを持つものでした。
で、名護にて初見参のヤギのお刺身。丁寧に毛を焼き除かれた皮はコリコリ感を残し、筋肉組織は噛み締めるほどに味わい深く、そして、これが重要なのですが、食後に胃の腑からぽっくんと浮上してくれる「げっぷ」は、ヤギ肉ならではの香気を運んでくれて、まことに幸せな気分をもたらしてくれました。(醤油でいただきましたが、これには酢味噌は使わないのでしょうか?)
私は自ら刃物を手にして四つ足を屠ったことがないのですが、可能なことであれば、かように食味の優れた食肉処理の文化を学び習うことができればなあと思ったことでした。
天仁屋の御神松のこと、案じています。私は古木とご対面するときには、必ず掌をしばらく当ててご機嫌を伺う習慣なのです。今回はあいにく十分な時間がなく、ただ走り寄って道路側から瞥見するばかりでしたが、20センチもの太枝を下ろしたあとが枯れこんでいたことが気になりました。木は、切断面の木部が風雨にさらされると容易に腐れ込み、それが内部に及びます。そこに水がたまり、洞になって、樹皮ばかりで命をつなぐとなると、今度は風倒の心配が出てきます。
さいわい、樹医に看てもらっているとのことでしたから、防腐作用もあるコールタールや、場合によってはセメントを併用して適切な手当てが行われ、回復することを切に願っています。
*南の風2867号
■(10) 那覇・福州園のこと (Thu, 5 Apr 2012 13:10)
4日、和光大学では学部、大学院の入学登録でした。いよいよ新学期の疾風怒濤が始まります。
とは言い条、本日、那覇公設市場から珍味「夜光貝」が届いたこともあり、与那国・崎元酒造所の泡盛のほろ酔いのままに、思い出されることを。
福州園(那覇)は、首里城、モノレール、県庁庁舎と同様、私が前に那覇にお邪魔したときにはなかったもののひとつ。初日にバスの比嘉運転手に教わってはじめて知ったところですが、お宿に近く、翌朝金ボラムさんと散策する機会がありました。
ひと言でいうと、面積はそれほど広くないのに、ビュー・ポイントがみっしり詰まっています。私たちのほか、来客がほとんどいない貸切状態だったのもラッキーでした。池から築山まで、高低差を上手に利用して目を楽しませてくれました。その築山も、内部は通路がいくつもあって、ひとつひとつがビュー・ポイントにつながっています。メインテナンスは大変そうでしたが、美しく手入れが行き届いていました。折から、滝に池の水を供給するポンプの交換作業が進行中でした。
ガビチョウのさえずりも聞かれて素敵。その一方で、スピーカーで園の由緒を聞かせるエンドレス放送ガイドは、私は感心しませんでしたが、総じて現代中国の造園の妙=水準の高さに感じ入った本格の場所です。
しかも入場無料。こういったガーデンが自宅のそばにあったらどんなに素晴らしいことか。木陰で本を一、二冊、気ままに読みたいところ。願わくば、この庭園からの眺望が、周囲の美しくない中・高層建築によって妨害されませんように。これは、那覇市の都市計画の問題です。
園を出ようとしたところに、武田さん。ご一緒できなくて残念でした。
植栽のリュウノヒゲ。ヤブランではないのですが、葉の幅、丈ともに内地の3倍は下りません。リュウキュウチクも植えられていて、まことに興味ぶかい所でした。
*南の風2859号
■(9) 与那国、崎元酒造所に行ってきました (Sat, 31 Mar 2012 18:58)
蒸し暑い晩だった昨夜とは打って変わり、一夜明けると強い北風で雨が横殴りという荒天。気温は下がり通しで、結局20度に達しませんでした。
朝のうち宿舎の窓から、飛行場の西の断崖に20メートル以上も打ち上げる大波を、双眼鏡で鑑賞して楽しんでいましたが、昼前に雨が小降りになってから、おみこしを上げて外出を敢行しました。
酒造所の昼休みの時間調整で、まずティンダハナタ。岩山の中腹の砂岩の、上に珊瑚石灰岩が乗っている境目が帯状にえぐれ込んだところが、祖納の街を一望する展望台になっています。風の強いこと。野生のオオタニワタリ(シマタニワタリ?)の新葉が半分なのは、地元の人が芽の時に先端を摘んで食べちゃったあと。おいしい証拠です。
あいにく、もと社会教育主事だった崎元智代さんは本日お休みということで、午前中に電話でお話ししただけでしたが、ぶんじん先生のことを懐かしく思い出したご様子。お兄さんの敏男さんに工場を案内していただきました。移転して5年目という新しい設備が、中二階の展望廊下から一望できます。
一度に1トンのタイ米を洗い、いくつかに分けて丁寧に蒸し上げます。10キロの米に400グラムの黒コウジを混和、それを残り全部の米に混ぜて、自動化した温度管理の下で発酵を進め、19日目に蒸留。ここで使っている古典的な蒸留器は、八重山47蔵のうち5つの醸造所でしか使われていません。
これをステンレスタンクで貯蔵して落ち着かせ、加水後もさらに寝かせて味のなじんだものを壜づめにして出荷。年間の生産は、70石。もとは100石だったのが、このごろのアルコール離れで生産を減らしています。
「花酒」がなぜ与那国にしかないのか、私の問いには、明治以降、首里から泡盛の製造法が島嶼部にまで及んだことと、台湾の度数の高いコウリャン酒の影響との説明がありました。しかも明治末には、花酒が与那国の葬送儀礼と結びついたそう。すなわち、人が亡くなったら遺骸とともに花酒を二升、お墓に納める。7年後の洗骨のとき、7年古酒の一升は骨を清め火をつけるのに使用。もう一升は集まった人が故人をしのんで飲んだり、飲めない女の人は具合の悪いところに塗りつけるのに使いました。
となると、花酒は文化交流から生まれ、与那国に新しい民俗を生んだことになります。あなおもしろ。花酒に水をつけてもらうようにお願いして、東京に送ってもらう段取りをしてきました。
それから伝統工芸館経由で、無料バスに乗って久部良。お店でスパム卵おにぎりとビールを購入して、日本最西端の西崎灯台へ。風が猛烈で、いや寒かったのなんの。沖縄の海は、こういう荒れ模様のときにも、波が琉球ガラスのように美しいブルーを見せることを知りました。波の写真をたくさん撮影しました。
2時間ほど遊び、海水浴場で星砂を拾ったあと、最終バスに乗って比川経由で祖納に戻り。これで、一応は3つの集落を瞥見した勘定。それにしても、よく歩きました。今晩もぐっすり眠れそうです。
そうそう、久部良では道路わきで仔ヤギが二匹、母親の乳房に時々頭突きをしながらおっぱいをもらっていました。可愛いったらありゃしません。こういう愛らしい生き物を私たちの歓迎のためにつぶして下さった、やんばる島袋正敏さんのお心遣いに改めて感謝です。いわもと拝
*南の風2855号
■(8) 那覇・びっくりニュース (Tue, 27 Mar 2012 02:07)
24日の定例研究会でお会いした時は、名護で4分間の挨拶をとのお話でしたが、本日夕刻のお知らせで「20分の講演」チラシも完成とは驚天動地。私はショックのあまり、オリオンビールを前に、オレンジジュースを飲んでいたほど。前もってご連絡あれば、パワーポイントで英国の写真でもご覧いただけたのにと。さて、何をお話ししましょう。いま、寝ないで考えようか、寝てから考えようかと思案中です。
前後しますが、自由行動報告です。
昨日(25日)、羽田からの飛行機が送れて到着してほどなく、西の海にお盆のような太陽が沈みました。チェックインのあと国際通りから公設市場方面に繰り出し、奥まったところに、魚料理を食べさせる比較的新しい店屋を発見。さしみ盛り合わせ、グルクンの代わりに勧められたイシミーバイ(カンモンハタ)の塩煮が美味だったので、聞けば「二階の生簀に泳いでいます」。さっそく見に行くと、ウチワエビがいたので、味噌汁にしてもらって暴れ食い。やっぱり海の近くが好きです。
さて本日。私は昨秋からの「鎌倉詣で」が発展して、庭園めぐりを楽しみとするようになりました。そこで、かねて図書館から借りた本に解説のあった世界遺産「識名園」を朝から見学。行きのバスはお客も少なく、運転手の比嘉健勇さんは話し好きと見えて、沖縄のバス会社のこと・・・などあれこれ教えてくれました。
庭園は大きすぎず小さすぎず、いい感じのお庭で、再建された御殿は往時と違って畳以外に内装がなく、潔くさっぱりしています。周囲が俗化していないのが素晴らしい。那覇・国際通りの喧騒に引き換え、「世界遺産に指定されれば観光バスがばんばんやってきてお金になる」とばかりは限らない一例かと。園内では藤が見ごろ。チョウ各種に、キジバトを見かけましたが、どうも内地のとは雰囲気が違います。どこがどうと、いわく言いがたいのですが。これがリュウキュウキジバトというものでしょうか。
それにしても、携帯電話か何かのアンテナが2本も立っている世界遺産を、私ははじめて見ました。
県庁方面に戻ろうとバス待ちをしていたら、さっき私が降りたバス停に止まったのが、なんと比嘉さんのバス。何周めか知りませんが、偶然もあるものです。向こうもびっくり。
さて、県庁のお目当ては「食堂」。じつは、20数年前の末本先生の「神戸大学沖縄キャラバン」の後で資料をいただきに社会教育課を訪ねたとき、大盛りのヘチマ炒め定食が400円だったのです。あいにくヘチマは時期はずれでしたが、沖縄そば定食400円、ソーキそば定食500円。あまり変わっていません。東京の半額以下かも。
売店では、菊の露の古酒40度が2400円でした。ちなみに和光大学の近所の赤荻酒屋だと2900円。ここで2万5000の国土地理院の地図を求めようとしたら、これは不発。市内で一番大きいというジュンク堂を勧められました。
そこで目の前のデパート、「リウボウ」の書店にて、だめもとで訊ねたところ、土屋さんという店員がとても親切。最初ジュンク堂と言っていたのですが、念のためと目の前で電話をかけてくれて、ジュンク堂で扱っていないことを確認し、那覇市内に一軒だけという地図の店をインターネットで探して、そちらにも電話を入れてくれました。こういう親切な店員のいるお店をひいきにしたいもの。(そういえば朝方、ホテルに荷物を預けて沖縄青年会館の場所を確かめて戻ったときにも、道に迷ったのではないかと声をかけてくれた親切なおじさんがありました。沖縄、好きです。)
同じデパートの4階に「那覇市立博物館」があるというので見学。これはまったくの犬棒。火災の恐れが皆無でない商業施設に公立博物館を常置するとは、思い切ったことをやったものです。私には「辻」の意味が分からなかったのですが、受付の具志川さんが以前の企画展の冊子を教えてくれて、吉原のようなところと納得。「和服仕立て」に対し「琉球仕立て」があるのかどうかは分かりませんでしたので、今後のお楽しみ。
それから、「天久」までタクシーを使って、これから行く名護、与那国などの地図を買出し。この運転手さん、はからずも「辻」の住人といい、面白い話を聞かせてくれました。なんでも息子さんが高校生のころ、帰宅途中に「遊んでいかない?」と声をかけられて・・。
帰りはバスに乗って、国際通り下車。那覇市伝統工芸館を急ぎ見学して、その足で青年会館、というわけでした。同じ屋根の下にいて、メイルをお送りするというのは誠にみょうな気分です。
*南の風2853号
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■(7) 埼玉の里山
(Sun, 25 Mar 2012 12:10:49)
3月23日の東松山は、なんと朝の6時半に宿舎で目覚めて、行動開始。8時5分発の、座席数13というかわいらしい市内循環100円バスにて、まず「丸木美術館」へ。予期していなかったことですが、美術館周辺は長らく放置された里山で、コナラの平地林の林床は、4メートルにも伸びたアズマネザサで覆い尽くされていました。大都市近郊ゆえ、ごみの不法投棄、産業廃棄物処分場やプレハブ工事現場事務所のレンタル会社物置もあり、景観はいっそう損なわれています。
バスを降り立つと、鶯が美しいさえずりで迎えてくれました。9時の開館まで、里山観察で時間つぶし。きわめて手入れのいい一区画があったのですが、林床が裸地でほとんど下生えがない、ちょっと不思議なコナラ林。道の反対側では、盛大に伐採が進んでいて、その後雑木林として再生されるのか、それとも、資材置き場のような土地利用になるのか、気になりました。
美術館では職員の方と和光の卒業生、小峯みずきさんの消息などを話したあと、次のバス(11時45分)までたっぷり鑑賞。「原爆の図」で打ちのめされた後、丸木俊(赤松俊子)や、折からの特別展で位里のお母さんの70過ぎて絵を始めたという天真爛漫な作に心なごまされ(私はおばあちゃんの「簪」が好き)、最後の展示室で「アウシュビッツ」「南京大虐殺」などの大作に再度、打ちのめされました。
丸木夫妻の大作を前に、戦争絵画といえば、私は第一次大戦で戦死した将校の供養に建てられたサンダム礼拝堂に障壁画を描いたスタンリー・スペンサーのことを思い浮かべたのです。この礼拝堂は拙宅からそう遠くなく、ナショナルトラストが「国民の文化財」として管理・公開しています。スペンサーの作品は、ロンドンのナショナルギャラリーにも収蔵されています。あざとさを感じるほどの生々しい裸体画と、幸福感に満ちた静かな宗教画を描いています。
丸木夫妻の大作には、スペンサーのような宗教性を感じませんが、無用の殺戮で横死を遂げた人を描いたものですから、それは当然かもしれません。片隅に描かれた、死んだ猫、死んだ鶏、やせこけた仔犬が哀れを誘います。
それにしても、日本国建国のモットーにもっとも近いモチーフのこれら作品群を、一括して国宝に指定しない日本国は、どこかずれていると感じました。
小雨の中を例の循環バスで高坂駅。ここから、大東文化大学の学バスに便乗して、大学訪問。広大なキャンパスに驚き、生協のビュッフェで胃袋を満たしました。
裏手の、キャンパス拡張工事を横目で見ながら、裏手にある古刹「岩殿寺」の観音様に参詣。桧皮葺の鐘撞き堂がチャーミングで、天然記念物というイチョウの老木の、からまりあった根は、先ほど見た原爆犠牲者の死体の山を連想させました。
それから埼玉県平和博物館を見学。せっかくなら、里山を切り崩さずに、都心の便利なところに建てて欲しかったというのが、最初の印象。
館が独自に制作というアニメ映画をふたつ観賞。まえに九州、太刀洗の平和博物館でも感じたことですが、主情的、ムーディな反戦映画が日本のお家芸のよう。私は、博物館は科学に準拠して、資料やデータで勝負すべきところと思っていて、こうした上映には厳しい評価なのですが、その理由は、ムーディな反戦映画は、今後、時代が変わったとき、ムーディな主戦映画(や、世論の動員)がより優勢になった場合にはひとたまりもないだろうと予想しているからに他なりません。
戦前のこどもの遊具、双六の特別展があっていました。男の子が兵隊、女の子が看護婦。火星探検のようなエキサイティングな冒険譚の延長線上に兵隊や戦争があって、子供たちは自然に戦争に組み込まれていったとの指摘は重要でした。
さて、4時半に閉館してからが大変。大東文化大に戻るつもりが、道を90度ずらしてしまい、延々歩いた先が隣町の東京電機大学。満員の学バスのお世話になって、なんとか高坂駅に帰着することができました。池袋まで出ないで武蔵野線に乗り換えましたが、悪くありません。
近くて遠い埼玉をはじめて、堪能しました。
*南の風2852号
■(6) 小田急沿線図書館の会と、行田ゼミ旅行 (Fri, 23 Mar 2012 02:44)
: いま、埼玉に来ています。学生がB級グルメのことを気に入り、旅行の行き先はまず行田となりました。神奈川と東京の境目にいるもので、埼玉にはこれまで、なかなかご縁がなかったのです。
忘れないうちにまず、昨日のことを書いておきます。夕刻、和光大学で図書館科目をご担当の非常勤教員ふたり、戸室、二木両先生においでいただいて情報交換の会。それから、新百合ヶ丘に移動して、こちらは急なことでしたが、川崎市の麻生図書館、池原館長のお誘いで、某生姜料理のお店を会場に、小田急沿線の会の臨時会となりました。
参加者は町田から尾留川館長他2名、川崎からは池原さんと中原の寺内館長。初参加の多摩、関戸図書館の栗崎館長と私たちのつごう9名。尾留川さんの、司書は自治体職員でなく自治的な専門職集団に所属すべきとの提言は斬新で、続く寺内さんとのやりとりは非常に興味深いものでした。私が川崎でずっとお世話になっている寺内さんは、本年度末でご退職。ささやかな感謝の花束を贈呈しました。次回は5月に開催です。
さて、本日の行田。日経新聞に小林先生とご同郷の野瀬記者が連載していたB級グルメの記事がご縁で、はじめて足を運びました。「フライ」「ゼリーフライ」というものを各所で食し、それからお城の中にある郷土資料館を見学。128点展示されていた「足袋」の札は、縦書きの15点を除くと左右書きと右左書きがほぼ半々。戦後と戦前・戦中と分けることが出来るかもしれません。
アンズが早くも開き始めている水城公園ではカイツブリや尾長ガモを見、秩父鉄道駅への帰途、各所に蔵のある街歩きを楽しみました。さすが旧城下町で、道が鍵の手になったりしています。チェーン店よりも個人または家族経営のお店が多いようでいい感じ。ただ、人口漸減の余波か、昭和様式のチャーミングな木造家屋の、屋根の破れたのを見るのは痛ましいことでした。
夕刻の電車で社会人学生とは別れ、東松山に移動して投宿。ご当地の名物は「やきとり」で、豚のほほ肉などを使うのが珍しいといいますが、九州博多の焼き鳥屋で豚ばかりか牛肉のサガリなどを焼いて供しているのを知る身としてはインパクトとしてはいまひとつ。塩をして焼いた上に、客が味噌を塗って食べるのは、あきらかに塩分の取りすぎと見ました。ただ、塩をしておかないと味噌の減りが早かろうという経営的な理由は推察、理解できることですが。
あす(もう今日!)は、いよいよ丸木美術館に参上します。
ps、夏の内モンゴル行き、さっそくトクタホさんからご連絡をいただきました。
「旅の仲間が一人でも多いほど楽しみがいっぱいなので、大勢で来て下さい。その方が最も思い出深いです。」 なるべく早く日程を確定したいと思います。ご関心のある方、早めにご連絡ください。
*南の風2851号
■(5) 彼岸中日の里山三昧 (Wed, 21 Mar 2012 14:55)
お彼岸の中日の本日20日、和光大学地域流域共生センター主催の「チェーンソー・刈り払い機安全講習会」。私もようやく念願かない、学生や地域の環境ボランティアのおじさんに混じって受講することができました。エンジンのこぎりやエンジン草刈機はだれでも使える設計ですが、それなりに危険もあるため、安全に複数名で作業が出来るようになるための様々なノウハウやヒントを学ぶことが趣旨。講師はNPO法人「鶴見川ネットワーク」事務局長の小林さん。かつて北海道で林業に携わっていた経歴の持ち主です。
私と社会人学生の定本さんは、開始前の朝一番で、裏山の伐採木(ミズキ)になめこを植菌。今後は運次第ですが、ともかくも最新型携帯電動ドリルのおかげで、200個の種駒の打ち込みを30分ほどで完了。10時半に教室へと向かいました。
講習会は堂前雅史センター長(川崎市社会教育委員)の開会挨拶にはじまり、午前中はテキストで座学。昼、おにぎりの後、「和光畑」にて放置越冬のたまねぎ苗や、昨日農協売店「セレサモス」にて購入の絹さやえんどう、ブロッコリ、そらまめ、イタリアンパセリなどの野菜苗を植え付け。午後は川崎市条例指定の保存緑地「岡上和光山」となっている大学の裏山にて、笹刈りと伐採の実習でした。風が止むと日差しが暖かで、絶好の里山日和でした。
受講生8名が順番に機材に給油して、アズマネザサの刈り払い。初心者には地表すれすれに回転刃をスイングさせるのが案外難しいものです。その後、同様にチェーンソーを使って伐採実習。こちらは2サイクルエンジンのため、混合燃料で、別にチェーンオイルも必要(これには、植物油脂を使うとおがくずの分解が早いそう)。
里山らしいくぬぎ、こならの落葉林を取り戻すために、例によってヒサカキなどの常緑樹を伐採しました。これまで私の「里山保全」授業ではもっぱら手のこでしたが、それに比べて早いの何の。私の順番は胸高径25センチほどのシラカシでしたが、あっけないくらいに倒れてくれて、玉切りも、ものの数分。木の命を奪っているとの心の痛みは、まず感じません。喩えは適切でないかもしれませんが、先の大戦末期の日本兵になった気分で、石油文明のすごさに感じ入りました。
裏山の一角が明るくなり、地表のキンランなど喜びそう。タマノカンアオイはまだつぼみでしたが、シュンランは精一杯開花していました。
道具を倉庫に片付け、賞味期限2年間の「修了証」をもらって講習は完了。私たちはさらに畑作業の続きを終えたあと、前年9月の台風で浮き上がっていた高さ4mの「タラの木」の根をごそっと抜き取って、はたけ分園の「橋の上花壇」にて10センチほどに切断、プランターに根挿ししてやりました。分量が多くて75センチのプランター4つでは足りず、尺鉢もひとつ動員。数ヵ月後には大量のタラ子が芽生えているはずです。これは来春のてんぷら用。 この橋の上花壇では、福寿草や東洋一のスノウドロップスのコレクションは終わりに近づきましたが、珍しい洋種セツブンソウが一輪だけ開花。ばらの芽がふくらんで、幸せを感じます。ちなみに、はたけ道の例のうめ「思いのまま」は、夕方見ると朝よりもだいぶ咲き進んでいました。
その後9階にて、今月末で退職の共生センター職員の岡崎さんと社会人学生とでお疲れさま会。冷蔵庫にありあわせのつまみでビールのつもりが、途中から自家製イカの一夜干し、つぶ貝の煮付けに石鯛のあら汁など、急遽拙宅から持参した豪気なものが並び、9時過ぎには先日鎌倉で購入した熊本の銘酒「香露」の一升瓶が、めでたく空になっていました。よい一日でした。
*南の風2849号
■(4) 彼岸二日目 (Sun, 18 Mar 2012 21:24)
16日の夜は、町田にて、松田さん紹介のチャリティ落語「明和寄席」だったのです。50回記念ということで、女性色物師による江戸ごまの曲芸もあり、とりの鯉昇師匠の「味噌蔵」は絶品でした。約2時間のあいだ、出演者は前座を入れて4名。たっぷり聞かせてもらいました。寄席の倍でしょうか。あいにく所用で来られなかった松田さんの分も、大いに笑ってきました。
昨日、ちょっとした締め切り仕事がひとつ片付いたのと、今朝の夢見が不思議だったこともあり、本日18日は彼岸らしく鎌倉詣でに及びました。あいにくの小雨模様でしたが先日までと違い暖か。さすが、暑さ寒さも彼岸までだなあと感心しつつ、龍口寺の骨董市を冷やかしたあと、極楽寺と成就院に参詣。11月からの朱印帳が片面、いっぱいになりました。
私のいる多摩丘陵のはずれと違い、梅がよく咲いていて、伊藤長和さんのことを思い出しました。梅というもの、もとは中国渡来でしょうが、いまも中国では蘭のように愛されているのでしょうか。
羽織の紐を、前の猫がかじってオモチャにしてくれたので、新しく求めてきました。明日は和光大の卒業式です。
*南の風2847号
■(3) この夏、内モンゴルへのお誘い (Sat, 17 Mar 2012 14:48)
ほかの事を先に書いてしまって前後しましたが、風2843号のトクタホさんからの便り、たいへん懐かしく拝見しました。しばらく連絡がなくて案じていたのです。赤峰学院にご就職とのこと、おめでとうございます。
実は当方、数年前に和光大学で研究生だったチョウリンパゴンさんから、「先生ぜひモンゴルに来てください」と度々招待を受けていました。あまりに不義理を重ねるのもいけないので、この夏は英国行きをやめて、あこがれの草原の旅の実現をと思っているところなのです。
同じく研究生だった同名の女性ふたり、サルラさんたち。町田の柿島屋でけっとばしを食べさせた某君(馬肉を食したと同胞に知られたら大変なことになるという本人の強い要望で、特に名を秘す)。和光の大学院を修了して、前に研究会に同道したことのある私の弟分チンゴルトも、昨年の震災後、ご家族ともにモンゴルに引き揚げています。そう、あのチャガンボルグはどうしているのだろう。会いたい人は少なくありません。
旅行の日取りは今のところ未定で、これからおいおい計画するところですが、もしご関心のある方あれば私宛にご一報ください。iwamoto@wako.ac.jp
*南の風2847号
■(2) 今日もさけさけ、明日もさけ? (Fri, 16 Mar 2012 18:10)
大学内に植えているウメ「思いのまま」がようやく開花しました。本日、3輪。先ほど柿生に用足しに出たついでに、さっそく農協直売店で報告して、一緒に喜んでもらいました。
さて、このごろお酒づいています。火曜は川崎市立麻生市民館の「運審」最終回のあと、引退する入口茂館長を囲んで一献。区役所出身の初めての館長でしたが、こども文化センターに長かった方。社会教育のことをよく考えて、よい仕事をされました。地元の審議会メンバーも個性派ぞろい。愉しい「飲み放題」で、つい過ごしてしまいました。
翌日の水曜。夕刻、仕事を終えた町田市の松田裕幸さんが9階に訪ねてこられて、久しぶりに一献。学生に作らせたベーコン、鶴見川から摘んできたクレソンに、パン・チーズなどの冷たものばかりでしたが、美味。気づいたら11時で、安ワインの3リットル箱が空になっていました。松田さんが落語、とりわけ枝雀のファンと知れたことが、知り合って十年目の収穫でした。
昨晩は、川崎市と姉妹都市、韓国・富川の図書館交流グループの例会。韓国の進展ぶりが報告され、来訪が2013年に決定しました。思えばここ数年、交流を通じて図書館のありようを考えるきっかけをたくさん与えられました。昨年秋の図書館シンポジウムの記録を小田切正督さんがまとめてくれたものが配布されましたが、相変わらず完璧なできばえ。その後、小田切さんと月末で定年となる寺内藤雄さんの前途を祝して一献。鶴川駅に降り立ったのが、ちょうど深更12時。これから(16日夕)町田に繰り出します。
*南の風2846号
■(1) 首都圏の里山 (Mon, 12 Mar 2012 21:38)
この週末、私は里山づいていました。
首都圏周辺では、あたかも緑の島のように、都県境、市境の尾根筋や住宅地の狭間にかろうじて残っている雑木林を美しく手入れして、後世に伝えることを喜びとしている大勢の皆さんがいます。それぞれの緑地に集まった人たちが、里山グループを作っています。
10日に川崎市の麻生市民館(公民館)大会議室で開催された「2012里山フォーラムin麻生 集い、語ろう!みどりと農の文化を未来へ」は、私が着任する前の月(年度)に開始されて今年で11回目。この季節の定番行事です。
今年はお囃子のステージ、地域の小学校4校からの小学生の発表や、例によって市長の挨拶もあったそうですが、今回私が参加したのは午後の部から。多摩美グループの指導による「準備体操」のあと、参加団体約30団体の3分間トークリレー。引き続き風景写真の賞状授与式、神奈川県立相原高校食品科学班の実践報告(酒饅頭、養蚕復活、万福寺鮮紅大長ニンジン、高菜・からし菜交配の葉物野菜「相模グリーン」および在来種ダイズの商品化)、和光大学堂前さんの岡上における「かわ道楽」の環境保全と環境教育活動報告、昨秋に図書館シンポジウムでお世話になった明治大学倉本先生の黒川農場造成と学生の取り組み報告とたいへん充実していました。市民館の区役所移管に伴い、はじめて市長部局(地域振興)から市民館長となった入口茂さんは、特製「シイタケのほだ木」を賞状に添えて盛り上げてくれました。
久しぶりにお会いした海野芳彦さん。川崎市の緑政部長だった2004年(第3回)の里山フォーラムで、つくったばかりの緑地保全条例について紹介されました。そのとき学長補佐だった私が手を上げたことがきっかけで、一年後に和光大学裏山の保存緑地指定が実現したというご縁。つまり、私の「里山保全」の授業開講の恩人です。生田緑地の最近のことなどあれこれお話ができ、しかも、最近裏山で伐ったミズキでナメコ栽培に挑戦しようと思い立ちました。
明大倉本さんとは、じつは条例指定の際の実地検分で、緑政審議会委員としてお世話になっていたのが最初の出会い。あいにく二人とも報告が終わったところで中座しなくてはなりませんでしたが、小田急電車の中で話ができました。黒川農場では、温室暖房用に木材ペレット製造機も導入したそうですが、焼却灰のセシウム測定が難しい問題になっていると教わりました。なお倉本令夫人は、なんと国立市の社会教育職員で、月末にご退職なのだそう。4月からは大学院進学とのことでした。
11日は、日本女子大、田中雅文先生のお誘いで、地元町田の脱原発パレードには不義理をして、田中さんが会長を務める「武蔵野の森を育てる会」主催の里山講演会でした。講師はもと神奈川県林業試験場の職員で、退職して今は京都学園大学バイオ環境学部教授の中川重年さん。じつは、上記した2004年の麻生里山フォーラムの基調講演が彼だったのです。その後、息子さんの欅君に、当時の和光学生たちがお世話になったご縁もあります。
あさ、鶴川駅にて「里山保全の実際」の社会人学生と待ち合わせ、電車を乗り換えて「武蔵境」に繰り出しました。到着後、武蔵野の会が手入れしている駅南の「独歩の森」見学に向かったところ、講師と育てる会員による事前見学に思いがけず合流。1ヘクタール足らずの平地林で、手入れの行き届いたところでした。しかも、元は一角に東京都武蔵野青少年の家があったそう。撤去後、公園用樹木も植栽されていました。喬木化・老齢化の進行と、下草の貧困。ただしなぜかお茶の木が多いこと、隣接する住宅、排水などに目が行きましたが、こうした点については、中川さんも午後の講演で言及していました。
見学終了後、駅の反対側に回り、売り場にヒヨドリがやってくる程に椿売り場が充実した素敵な園芸店「船木園」を久しぶりに見学(冷やかし)、それから食事。そば屋で見た新聞の、「世界からの東日本震災支援」には、台湾がすこっと欠落していやな気持ち。こんなにありがたい隣人なのに。
午後から、「武蔵野プレイス」にて中川さん講演「森を知り森を楽しもう」に参加してきました。当初50人の予定だったのが、結局90人も参集。司会の川添さんは、娘さんが和光高校でと、後でおっしゃっていました。和光高校にも里山があります。
さすがに3・11らしく一分間の黙祷の後に始まった中川先生のお話は、被災地の石巻、大川小学校の写真にはじまり、里山成立の条件や瀬戸内海、石見銀山などの過去と雑木林化が進んでいる現状、さらに、燃料としての木材消費が、日本はアフリカの98パーセントに対して0.2パーセントと極端に低いこと(世界平均は55パーセント)、日本の木炭消費の変遷については1930年代に269万トン、すなわち、原材としてはその5倍の1500万トン(伐採面積にして神奈川県相当)もあったのに、現在の生産が3万トンに過ぎないことなどデータを紹介し(ちなみに私、岩本の長火鉢による今シーズンの木炭消費は、約20キロ)、さらに「独歩の森」の管理運営法へのコメント、材木ペレットの使用例、趣味の養蜂やおなじみのピザ焼き、バウムクーヘンなど薪を使った里山の楽しみ方、そして京都学園大学における学生と地域をつなぐ活動や、それをベースとした被災地支援の「千枚漬」作り、さらに間伐材によるアルペンホルン製作などの活動も紹介されて、農と里山と人がつながることの実り多さ、大切さをアピールするなど、聞いてはげみになる内容が盛りだくさん。小さいながら畑と里山に恵まれている和光大学だって、もっともっと頑張れるぞと大いに発奮した次第です。
帰途、中央線快速で神田まで回り道して、日本橋三越百貨店の屋上、園芸売り場に学生を案内(私は主に冷やかし)。しかしここで、思いがけずヤな情報を得ました。
売り場のバラの白いしみと独特のにおい。「そうだ、葉落ちのこの時季に私も」と、大学に植えた梅「思いの侭」のカイガラムシ退治と殺菌用に古典的な農薬「石灰硫黄合剤」を求めようと思い、棚にないので訊ねたら、品切れ。というのが、目的外使用(硫化水素自殺用)する人が増えて、ここ数年、扱えなくなったというのです。「農協に印鑑を持参したら買えるのでは」とのことでしたが、地震・大津波の死者を断然上回る、3万人超の自殺者が毎年出ている21世紀の日本ならでは。こういうとばっちりがあるとは、意表を衝かれました。
さらに古典的化学肥料「尿素」も。この窒素肥料は爆弾原料になるというので、毎月警察官が来て、購入者情報を得ていくそう。個人情報保護法との関係を私は知りませんが、思わぬところで市井における管理社会の進展ぶりを探知しました。土地を酸性化させず希釈液の葉面散布も出来る尿素。私は化学肥料はマグアンプKぐらいしか使いませんが、「もし即効性のある単肥を使うとしたら『硫安』でなくこれ」と、好意的にみていた肥料が尿素だったのです(ちなみに、保湿剤としてクリームに混ぜたものを、私は顔に塗りたいとは思いません)。
なら、石灰硫黄合剤と同じ組成の懐かしい入浴剤「ムトウハップ」や、私の好きなハム・ベーコンづくりに欠かせない「硝酸カリ」は今どうなっているのだろうと、俄然、薬局方面の調査意欲が沸いてしまったほどです。
余談になりますが、硝酸カリというものは、肉に重量比3パーセント前後まぶす塩に、防腐・発色剤として1パーセントほど添加します。(つまり、肉1キロにつき0.3グラム)。これは、今はどうか知りませんが、IRAの爆弾が記憶に新しかった頃の英国ではまったく入手困難。廃油石鹸を作る原料で、日本では劇物指定のため薬局で印鑑が必要な「苛性ソーダ」が、英国だと流しの詰まり取り用としてホームセンターでも買えるのと対照的でした。
ほんと、日本の薬局では硝酸カリウムはすぐに取り寄せてもらえて、「使うのはほんの少しだから」と言っても500グラムの大瓶しか売っていなかったことを記憶しています。私が愛して止まぬ線香花火に縒られた黒色火薬が、木炭・硫黄・硝酸カリウムの粉末で出来ていることは、旧版『広辞苑』にも書いてあったような。こうした火薬と、爆竹をほぐすと出てくる、銀色をした爆薬は違うということも、「火遊び少年」の安全基礎知識だったと私は思っているのですが。
もうひとつ。申し遅れましたが、社会教育職員をリタイアして、里山ボランティアとなっている中野陸奥子さんとの出会いをいただきました。「独歩の森」から駅に戻る道すがら、アプローチにモミジの老木が多いわけをお尋ねしたら、打てば響くように大正時代の来歴を解説してくださいました。現役時代には、社会教育「終焉論」をものした某学者が武蔵野在住だったそう。小林先生によろしくお伝えをとのご伝言でした。
*南の風2843号
★レディング通信V (2011) →■
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