中国山東省・烟台日本語学校・記録
−2003年8月31日・開校−
<目次>
1,呼びかけー日本人教師募集
2,開校式(2003年8月)
3,烟台日本語学校−黄宗建氏との再会(2003年11月)
4,烟台訪問(2005年10月)
5,烟台訪問(2006年12月)
6,烟台訪問(2007年12月)
7,烟台日本語学校より(2008年9月)
8,烟台訪問(2008年10月)
9,伊藤長和・烟台の風(2009年4月)
→■
10、烟台日本語学校の休校(2010年)
1,烟台日本語学校の設立経過、日本人教師の募集!
−志ある方を歓迎、いい方をご紹介ください−
小林 文人(名誉校長)
中国・山東省、渤海に近い黄海に面して、烟台という古い港町があります。現在の人口は約600万、中心部が120万人。朝鮮・韓国に近く、古来“黄海明珠”と称されてきたところです。避暑・リゾート地でもあり、中国要人がこの地によく滞在し、海を楽しんできたと聞いています。中国では珍しくワインで有名。
烟台に数年前「新景賓館」というホテルがオープンしました。もと政府関係施設の払い下げ?を受けて、南の風メンバーでもある張林新が経営しています。従業員は100名近く、料理人の腕が見事、なかなかの山東料理・薬膳料理(美味しくて食べ過ぎにご注意!)を出してくれます。賓館名「新景」は、彼ら夫婦の名からそれぞれ一文字をとって付けたそうです。張林新がまだ和光大学々生だったころ、東京・西新宿に北京家庭料理(ここでTOAFAEC
の交流会を開いたこともある)の店をもち、そこで出会った二人です。
2002年3月、上海訪問の後、烟台に飛んで、数日この新景賓館に滞在したことがあります。すぐ隣りの大きな韓国系学校の活気が印象的でした。仁川から定期船が頻繁に通うほどの距離、ハングル学習への関心は当然のことでしょう。一方で本格的な日本語学校は1校もない(日本系企業は120社?)とのこと。当時、5年越しの上海・学校づくりが画餅に帰して、失意のなかにあった小生は、つい、張くんと烟台の学校づくりの話をしたのです。彼はもちろん合意!
というより、彼自身が前からその構想をもっていたようです。いち早く学校づくりの手続きが進められ、昨年の段階では「国際語言学校」という名称で準備が進み、その後いくつかの曲折を経て、今年に入って正式に「中国・烟台本州日本語学校」という新学校が政府から認可されました。名誉校長は小林文人、校長は張林新。開校(中等・学歴教育)は9月、社会人向けの日本語学校はすでにスタートしています。
この3月頃から中国行きの計画を練っていたのは、上海との研究交流の課題だけでなく、烟台の学校づくりに関わる仕事があったのです。しかし、ご承知のように
SARS 問題で自重を強いられています。5月に来日した張林新が10日間の拘束が解けて、先日ようやく会いに来てくれました。せっかくの機会だ、いい学校を創っていこうと話し合いました。
また追々とご報告もし、お知恵拝借の機会を得たいと思っていますが、当面まずは、誰かいい日本人教師をご紹介頂けないか、というお願いです。条件は次の通り。張林新が帰国する6月末までに、どなたかいい候補者があれば幸い、直接に面談できます。
1,採用:2003年8月(新学期は9月)〜2004年
2,期間:少なくとも半年、あるいは1年、長期でも可
3,人数:2〜3人
4,年齢・性別・資格:問わず(中国への関心、情熱、責任感ある方)
5,条件:食住(ホテル)保証、厚遇予定(月2000元〜3000元)
6,赴任旅費:日本−烟台の旅費支給
7,職務:日本語教師(中国人の日本語教師とペアで担当するかたち)
8,中国語:習得の意欲ある方であれば可
この機会に中国語を学びたい、中国文化に触れたい、中国(山東)料理・薬膳料理を知りたい、などのいい機会だと思います。仕事をめざして待機中の若者や、定年退職後の“旧”若者など、こういう仕事に関心ある方があれば、ぜひご紹介下さい。委細面談の上で、というお願いです。どうぞよろしく。 *南の風1073号記事(2003年6月5日)
▼烟台本州日本語学校・開学典礼(2003年8月31日)
2,烟台日本語学校の開校(2003年8月)
〜「南の風」記事より〜
1121号(8月29日)
■<山東省・青島から烟台へ>
8月27日 予定通りのスケジュールで成田から青島へ。空港に張林新(新設・烟台日本語学校・校長)と黄丹青さんが迎えてくれました。青島は旧制中学校時代の友人・中村八大がピアノに出会ったところ。海岸通りにしばし佇みながら、すでに世を去った旧友をはるかに偲びました。年々歳々、人は移りかわり、しかし緑も海も街も残っている。
一路ひたすら車を飛ばして烟台へ。新景飯店(張林新・経営)に着いたときはとっぷりと日も暮れて・・・旅愁を感じさせる夜。8月初めに赴任した工藤千佳良くんも交えて豪勢な夕食、沖縄から参加の宮城満さんがご機嫌でした。
8月28日 朝からテレビの取材(打ち合わせ)、烟台人民政府(教育局)へ表敬、局長さんなどと昼食の後、私立・清泉学校(幼稚園から高校まで)訪問、そして区政府(女性の副区長)へ挨拶、そんな一日でした。久しぶりの中国への旅、いよいよ始まりです。
烟台市の中心部、文化公園の一角、目抜き通りに面して新・日本語学校の大きな広告看板が建てられていました。ぶんじんの顔写真もあり、夜はライトアップとか。これには少々参りした。
1122号(8月31日)
■<竜口市・南山大仏の里、山東省のムラヤ>
8月29日 烟台の隣り竜口市へ。中国で最近はやり?の大仏(南山)観光の予定をパスして、山の麓、南山職業技術学院を訪問。実に面白いひとときでした。案内は、烟台市政策研究所科長の姜連強氏(テーマは「経済発展」)、新しい烟台日本語学校の後援会理事でもあります。
南山は1980年代前半まで戸数わずか100戸の寒村でした。ここに郷鎮企業が「起業」し(1986年前後)、九つの村(郷)と三つの町(鎮)が一緒になって、「南山集団」(企業団地)が発展し、これを基盤に学校づくりが進んだという経過です。ケ小平の改革開放政策を絵にしたような展開。聞き取りの簡単なメモをそのまま載せておきます(下記)。
烟台への帰路、大通りをちょっと入ったところの集落に立ち寄りました。姜連強さんの親戚があるとのこと。ついでに古い村を散策。大店村、戸数250戸、人口680人。中心部に村の「村民委員会」事務室があり、広場に売店や倉庫など。「活動中心」(ホール)ではおじさん、おばさんがテーブルをかこみ大きな牌で麻雀を楽しんでいました。沖縄の字公民館(ムラヤ)の雰囲気と共通するものあり。ただ、ホールはホコリが溜まっていましたが。
8月30日夜、石倉祐志(TOAFAEC)が北京経由で烟台に到着。8月31日9:00〜より、新学校の開校式。いい学校に育ってほしい。
付:同号記事
■<山東省竜口市・南山職業技術学院>
*2003年中国の旅ノート・メモ(8月29日)
南山職業技術学院は1991年の開校、二つのキャンパスをもち、現在の学生数12,000人。近く南山技術大学(4年制)として昇格見込み。
コンピューター、エレクトロニクス、管理、観光、商務、経理、服飾、外国語、貿易等の学科。スタッフは約1,000人(うち教員400人)。
南山は1980年代前半まで戸数わずか100戸の寒村。現在ここで生活する(働く)人口は約4万人。農村部の開発をめざした典型的な“郷鎮”企業の歩み。出発は1986年頃からの紡績工場、その後は1990年代以降に本格的な展開をみせ、アルミ、電力、旅行、建材、葡萄酒、教育、医療など30余の企業集団から成る「南山集団」となり、今や「山東省十強企業」に数えられるようになった。
「南山集団」の全面的な出資により「南山職業技術学院」は創設され、累積出資額は約5億元。国からの援助は2001年でわずか10万元程度。1年の経営費は企業グループによる約4000万元と学資収入による。営利目的の学校ではなく、企業の人材養成と、教育による社会的還元。
学費は学生1人年3,000元(平均以下)、毎月住宿費400元。(ちなみに日本語教師の給与月額は2,000元〜5,000元。)
奨学金制度があり、1年生は成績・生活状況により40%がなんらかの援助をうけており、1学期300〜1,000元、生活貧窮学生には2,000元。南山の奨学金は年間20万元。学長による奨学金の特別枠もある。2年生には学校の仕事(アルバイト)などを斡旋する。
新入生の応募率は高い(3,600枠に4,800人)。卒業生は「南山」だけでなく、周辺企業にも就職する。卒業生の進学・就職率は90%以上。
卒業生は30%が山東省の4年制大学へ進学、10%が自学(独学)試験、50%が就職する。
今後の課題は、何より教育の質を高めること、そのための教員の待遇をよくすること、若く優秀な教員を確保することである。(学校・弁公室主任からの聞取り。数字には若干の誤差があり得る。)
1123号(9月2日)
■<烟台日本語学校の開校式、そして上海へ>
8月31日9時よりめでたく開校式。烟台市、蓬莱市等の(副)市長や地元区など政府関係者、烟台の日本(企業)人、北京・大連や日本からの友人等で、会場の新景賓館ホールはいっぱいになりました。日本人は30人前後。うしろの方には、新入生の若々しい顔。概要次のような挨拶をしました。
「新しい学校の出発を来賓各位、新入生、ご父兄とともにお祝いします。いまから7年前、和光大学で張林新校長との出会いがあり、2年ほど前から烟台を訪問するようになりました。烟台は、日本と一衣帯水、古い歴史をもつと同時に現代的に大きく発展している都市。近年は日本企業が増加している(約600社)にもかかわらず、本格的な日本語学校がなく、ここに新しい学校を創ろうという新校長のひたむきな努力と若々しい情熱に打たれ、出来る限りの協力をしようと考えています。
今日から新しい歴史が始まります。学校の校舎やキャンパスの建設も1年後には完成する計画です。学校当局だけでなく教員と学生の皆さんで力を合わせて、いい学校を創っていきましょう。
施設・設備も大事ですが、何よりも学校の内容、その質が問われます。着実に、一歩ずつ、高い水準の評価を築いていきたい。それを通して新しい学校が、中国と日本の相互の、ほんものの友好と信頼の拠点となるよう期待しています。」
黄丹青さんの通訳がよく、好評。取材は、地元の烟台テレビ(当日夜のニュースで放映)、北京放送(ラジオ)日本語部。近く日本へ放送されるそうです。開校式の様子は2枚ほどHPに掲載。ご覧いただければ幸いです。
■
9月1日<午前、烟台を離れ、上海へ>
烟台からの飛行機は上海市内から遠く離れた浦東空港に着きます。閘北区・行建職業学院(社区大学)の袁允偉さん(副学長)が車をもって迎えてくれ、助かりました。閘北区の格安のホテル(上海鏡泊湖大酒店、1泊160元)に投宿。
ホテルでは、久しぶりの羅李争さんが「好久不見!1年半!」と出迎え。ここで鹿児島大学院生・陳蓉さん(武漢出身)とも合流。
学院の「小林国際交流閲覧室」へ。周静(院長弁公室秘書)、呉佳諺(日本語教師、新任)や学生の皆さんが待っていてくれました。「閲覧室」でしばし歓談、新しく制作された学校案内のビデオも見ました。
初めての上海訪問のメンバーもあり、浦東新区へ。テレビ塔近くで夕食。ここに朱榴芳さんがかけつけてくれました。あたかも学芸大学旧小林研究室の同窓会の雰囲気。
夜、ホテルでは、すぐ横のスーパーで宮城満さんが仕入れた白酒を傾けながら「小林国際交流閲覧室」のこれからについて、熱き語らいでした。(久しぶりの上海に目が冴え、眠られず、9月2日未明。)
3,烟台日本語学校訪問(2003年11月)
*黄宗建先生との再会
1175号(11月26日)■<上海から烟台へ>
上海から烟台(山東省)への空の旅は、いつもいろいろと話題が残ります。先回は上海・虹橋空港まで送ってもらって、上海・浦東空港からの便であることを知らされ唖然!移動に1時間以上かかりますから、もちろん乗り遅れ。なんとか別の便に切り替え、半日遅れやっとの思いで
烟台に着いたのでした。(昨年3月)
今回(25日)は、空港を確認し羅李争に送ってもらって無事に虹橋空港から出発できるかと思ったのもつかの間、手荷物の中国酒をとがめられ、また外に出されてパックに詰め直し、荷物として預けなければなりませんでした。中国では酒(瓶)類の機内持ち込みは認めないのです。パック料として25元。その上、かんじんの飛行機は機材整備不良?とかで3時間の遅れ。烟台に到着したのは午後3時近く。やれやれ、でした。迎えの張林新・校長の顔を見て一安心。
この夜、学校の主要メンバーが集まって夕食会。苦労して上海より持参した名酒をみんなで飲みました。この夏、東京から赴任した工藤千佳良君(和光大学・小林ゼミ卒)とも久しぶりの乾杯。歌もうたいました。
早速、ウエイバン(山東省)滞在中の黄宗建さんと電話。烟台に来たいとのこと。こちらからは(黄さんの方が先輩だから)ウエイバンへ表敬訪問しましょうと挨拶しましたが、来て頂くことになりそうです。ウエイバンから烟台まで列車で4〜5時間。日帰りは無理か?
お泊まりの部屋(新景賓館)を用意しよう、烟台をご案内する車の手配など、張林新・校長にお願いしたところです。山東省での二人の再会、思いがけない展開に。
烟台はさすがに上海より寒い。明日の気温次第ではコートを買おうかと思っています。
1176号(11月27日)
■<ホームページの更新>
TOAFAEC
のHPは、技巧的にはまったく拙劣ながら、ひとつ自慢できるところは1〜2日おきの更新。表紙の日付をご覧あれ。
ところが上海に渡った20日以降、FTPのアップ作業がうまく働かず、この1週間は、HP更新作業が停止しています。「南の風」末尾記事「ぶんじん日誌」も20日のまま。申し訳ありません。帰国したら誰かに教えてもらって、直ちに修復作業をしなければと思っています。
HPといえば、ここ1両年、中国のIT環境が急速に整備されていることに驚きます。上海滞在の最終日(24日)、訪問した閘北区・社区大学(行建職業学院)も立派なHPが出来上がっていました。
→
URL:
http://www.shxj.net
聞けば学生が制作したのだそうです。きわめて専門的、ほとんど玄人。図書館の頁に「中日文化交流中心」、また国際交流の頁には「日本教授・小林文人資助社区教育閲覧室」の記載があり、小生の写真も。
また社区大学(コミュニティ・カレッジ)として閘北区の社区教育研究センター、市民学習センターの動きが掲載(管理機構の頁)されています。閘北区の社区教育のホームページとも言えましょう。黄丹青さんに訳していただいて、TOAFAEC
のHPで紹介したいもの。
・・・と書いたところで、ウエイバンから黄宗建さんが烟台に到着されるという連絡が入りました。思いもかけない再会。以下は次号で。
1177号(11月29日)
■<黄先生の烟台訪問>
当方(小林と張林新)は27日にお待ちします、と伝えたのですが、黄先生は待てない感じで、26日午後の高速バスで烟台に現れました。3時間あまりのバス旅行だった由。学校の日本人教師(工藤君たち)を交えて、思いがけない日・韓・中による歓迎夕食会。食後は自習室の一室で、若い学生たちとの交流も。楽しいひとときでした。
27日は学校を一まわり。後ろに山、前に海の景観、元気よく(日本語で)挨拶する若者たちの声、家族学校のような雰囲気、黄先生はいたく気に入ったようでした。教室にも参加。
その後、車で烟台市内を一巡り。経済開発区等のいま急速に発展中(日本企業五百社あまり、韓国企業千社あまり)の様子に驚いた様子。昼食は文化大革命時代を思わせる「社会主義・新農村」。この飯店では「為人民服務」の腕章をまいた紅衛兵のような店員が、客を「同志」と呼び、当時の農村の食生活(野菜・芋・饅頭など)に逆もどりしたような料理で、いささか混乱、しかしなかなか美味でした。
この間に韓国本のミニ編集会議も。先日の川崎の編集会議で出た方向はすべて金済泰さんに伝えて、交渉が進んでいるとのこと。金さんは川崎からの資料送付(編集会議資料も含めて)を待っている、それをベースに韓国側の執筆体制を整えたい。アメリカの魯在化にはメールを送っているがまだ返事がない、識字教育運動はやはり(金済泰さんでなく)尹福南さんにお願いすることになろう、などなど。
「タゴール研究」が入手できないままに送付が遅れた経過を説明しておきました。タゴールは次の機会にして、まずは黄先生が託された資料・書籍を金牧師にお送り下さいませんか>伊藤長和さんへお願い。
烟台はあたかも雪が舞ってきそうな、寒いどんより曇った毎日でしたが、今日はいくぶん寒さも和らぎました。
1178号(12月1日)■<帰国しました。HPに画像アップ。>
29日夜、烟台より青島を経て、予定通り帰国しました。日本(東京)は暖かいところだと再認識。帰宅の途中に、なじみの「浜寿司」に寄って久しぶりに日本の味で一杯。お世話になった上海、烟台の皆様、いろいろと有り難うございました。あらためて御礼を申しあげます。
昨夜から今朝にかけて、たまっていたファイルと画像をHPにアップしました。ご覧ください。今回の上海訪問では、松本の矢久保さんがかなりの記録を撮ってくれました(と思っている)ので、小生のデジカメの枚数は少なく、そのなかから8枚ほどを選んで載せました。もし訪中関係者で、お好きでない肖像があれば、ご一報下さい。直ちに差し替えます。ついでにHP表紙の写真も深秋の景色に変えました。
今回とくに嬉しかったのは、上海市閘北区・社区大学の「ぶんじん文庫」に川崎、松本の地域・最新資料を寄贈して頂いたこと。重い資料を空路ご持参下さった伊藤長和さん、矢久保学さんに感謝いたします。日本語を読める人は少ないけれど、関心をもつ人少なからず、上海の皆さんたちも大いに興味をもって頂いているようです。歳月を重ねつつ、少しずつ充実した資料室に育てあげて、日本社会教育の最先端コーナーを創っていきたいもの。
4,烟台訪問(2005年10月)
南の風1550号(10月26日)
★<中国から帰って>
昨25日夜、予定の便で上海より無事帰国。各地で関係の皆様にいろいろとお世話になりました。御礼を申しあげます。今回の中国の旅、簡単な経過を記録しておきます。
まず20日、青島へ。烟台日本語学校の皆さんに迎えていただき1泊。久しぶりに渡邊裕也君(風・前号・本欄)とも再会。元気そうで何より。
21日昼に烟台着。午後は学校へ。2003年8月(開校式)に新入生だった学生たちが並んで歓迎。交流の席では、しっかりした日本語で自己紹介など聞くことができ、あらためてこの2年の歳月に思いを馳せました。5月から赴任していた伊波葉月さん(沖縄大学出身)はじめ日本人教師の皆さんにもお会いできました。
22日の深夜便で小生以外の一行8名は北京へ。富美は韓民さんご一家にお世話になったそうで、有り難うございました。
ぶんじんは23日に上海へ。呉遵民さんに迎えていただきました。夜は袁允偉さん、羅李争さんの二人と積もる話を。時間の経つのも忘れて。
24日は早朝に車を飛ばして、杭州育華学校(風1544号)へ。呉さんの通訳で講演。まずまずの成果か。杭州はいい季節でした。茶畑でのむ龍井茶もまた格別。
25日帰国当日。朝突然に(連絡していなかった)朱榴芳さんから電話あり、東京学芸大学留学当時の思い出話をしながら、浦東空港まで見送っていただくことになりました。
“桃杏満天下”とはこのことか、皆さんに囲まれての6日間でした。
この間にいろんなトピックスあり、いずれ折りを見て書くことにいたしましょう。とくに呉さんからは、新上海本の原稿のこと、くれぐれもよろしく、とのことでした。
5,烟台訪問(2006年12月)
「南の風」1760号 (2006年12月13日)
12月11日の日誌。週末には迷惑メールが氾濫し、その削除にたいへん。とくに旅先のホテルでの落ち着かない作業、大事なメールを一つ二つ、一緒に消してしまった?ようです。気になっています。
それでもホテルからのメール送受信がずいぶんと楽になりました。この十年来、ホテルに入ると、メールができるかどうか、まず電話回線を点検する習癖がついて四苦八苦したものです。今は部屋から簡単にインターネットへ。そんなホテルを選んでくれた張林新に感謝!
…(略)…
さて、久しぶりの烟台・日本語学校は、新しい校舎へ向けて、仮住まいでした。10日夜は学校関係者に迎えられ歓迎の夕食会。日本からの若い教師(竹田武司−函館出身、伊波葉月−沖縄出身、万徳智子−福岡出身)の皆さんも元気、安心しました。まさに異郷の地できっといろんな課題もあるでしょうが、頑張ってほしいと願って乾杯!
11日午後は、日本語を学んでいる学生たちとしばし歓談しました。みんな笑顔でVサインを出しながら記念の撮影。ちょうど3年前、烟台で合流した故黄宗建先生とこんなかたちで写真を撮ったことを思い出していました。人は去り、時はめぐり、そしてまた、新しい出会いの1日。
11日の訪問先。午前は烟台職業学院(烟台市立)、午後に山東城市服務技術学院(山東省立)。いずれも大規模な職業大学(3年制専門学校)です。溌剌とした技術実務系学院の雰囲気にふれ、日本の学校体系と比較して、あらためてその柔軟性と意気込みを実感しました。
12月12日の日誌。広州行きのフライトが早朝便のため、前夜に烟台より青島へ移動。早起きして空港へかけつけたのに、霧のため飛行機は3時間遅れ、広州へ着いたのは午後2時半でした。迎えてくれた李偉成の懐かしい笑顔。投宿した広州迎賓館は思い出深いホテルでした。たしか1992年、広州教育局(成人教育)に招かれ「日本の社会教育」についてはじめて講演した折に泊ったところ。…(後略)…
▼烟台日本語学校にて−12月11日、中央・伊藤武彦氏(和光大学)・小林文人(名誉校長)−
▼張林新(理事長)
6,烟台訪問(2007年12月)
▼烟台日本語学校スタッフの皆さんと(20071209)
7,烟台日本語学校・日本人教師の募集
【南の風】2089号(2008年9月7日)
■時永芳(Fri, 05 Sep 2008 14:37)
*山東省・烟台本州日本語学校、烟台海外金橋房屋租賃有限公司
(東京滞在中)
<烟台日本語学校・日本人教師ご紹介を! お願い>
はじめて「南の風」にメールいたします。先日、張林新校長に連れて行っていただいた時永芳です。…(略)…
いま山東省・烟台本州日本語学校では、日本人教師を募集中(2人〜3人)です。条件・待遇はこれまでとほぼ同じですが、給料は3000元からです。宿泊費・食費は保障(無料)、赴任の飛行機代を支給、一年後の帰国(休暇)の飛行機代も支給。一週間20コマ前後の授業、残業支給も有ります。皆様にどうぞよろしくご紹介お願いします。
また「烟台海外金橋房屋租賃有限公司」を報じた新聞記事(日本経済新聞、現地新聞記事・8月)も今日の郵便で送りました。どうぞよろしくお願いします。
■小林文人(名誉校長)
烟台日本語学校は2003年8月の開校、その設立経過は、TOAFAEC HP(本サイト)に載せていますので、ご覧頂ければ幸いです。
日本人教師は、必ずしも中国語ができることを条件にしていません。日本語での指導を担当していただきます。もちろん中国語習得の意欲ある方が望ましく、中国への関心と情熱をもつ方であれば大歓迎です。年令、性別、資格を問いません。採用期間は、少なくとも半年、できれば1年、またそれ以上の長期の方を期待しています。
この機会に中国語を学びたい、中国文化に触れたい、中国(山東)料理を知りたい、などのいい機会。仕事をめざして待機中の若者、定年退職後の団塊世代を含めて、関心ある方があれば、ご紹介下さい。採用時期等は委細ご相談の上で。問い合わせ先:
・張林新(校長):xjlngyz@yahoo.co.jp
・小林文人(名誉校長):bunjin-k@js4.so-net.ne.jp (ぶ)
8,烟台にて 【南の風】2089号(2008年9月7日)
■
【南の風】2089号(2008年9月7日)
<日中合弁の事業>
8月末の雨模様の一夜、烟台(山東省)から来日していた張林新さんと近所の焼肉店で食事しました。時永芳さん(烟台日本語学校)が一緒。張さんは帰国しましたが、日本に残っている時さんから「日本人教師ご紹介お願い」メール(上掲)と新聞記事が送られてきました。日本経済新聞の記事。「南の風」に経済記事などめったにないこと。この機会にご紹介いたしましょう。
タイトル:留学前に住まい紹介 中国人学生に賃貸物件。
「住友林業グループは中国人留学生向けに日本国内の賃貸住宅を紹介する事業を始める。中国・山東省に現地企業と合弁会社を設け、八月から物件の仲介を始めた。中国に居ながら日本の賃貸住宅を確保できる点を強調し、2009年に500件の紹介をめざす。
住友林業の全額出資子会社、サン・ステップ(東京・新宿)と中国の現地企業が合弁で烟台海外金環房屋租賃有限公司を設立した。現地企業代表者は日本語学校を経営し、留学希望者を多く抱えているため、共同仲介事業に乗り出すのが得策と判断した。(略)」
この「現地企業代表者」とは、いうまでもなく、同公司理事長・張林新(日本語学校校長)です。張さんは和光大学・小林ゼミ卒。企業世界で名をあげ始めました。日中合弁の新しい事業、これからの活躍に期待しつつ、学校経営にも力を抜かないようにと、激励しておきました。
■
【南の風】2118号(2008年10月31日)
<山東省・烟台にて>
ちょうど1年ぶりの烟台。今回は伊藤長和さん(川崎)がご一緒です。はじめて烟台を訪問して十年ちかく、「烟台日本語学校」が正式に開校したのがたしか2003年の夏でした。あれから、もう5年が経ったことになります。来るたびに、街は見違えるるほどの変化です。大きなビルが数を増し、かっての古い街並みは変貌してしまいました。
烟台については、「日本語学校・日本人教師ご紹介お願い」(時永芳さん)を載せた号(風2089号、9月7日)に、珍しく、経済記事「日中合弁」を書いたことがあります。留学生の支援と住居建設等をめぐって日本側企業(住友林業)と中国=烟台側の企業(社長・張林新)が協力し合う動き。今回の烟台訪問では、住友林業の皆さんと烟台市の政府・行政関係者と2日にわたって同席・懇談する機会となり、「社会的企業」について考える機会となりました。
重い「東アジア社会教育研究」第13号の包みを抱えています。明日(31日)午前には上海に向かいます。日本出発直前に、韓国・魯在化さんより電話があり、11月2日、上海訪問団に合流するとのこと。沖縄からの2人を加え、合計7〜8人の賑やかなメンバーとなる見込みです。呉遵民さんはじめ、上海の皆さまにお世話になることと思います。
もちろん今日(30日)は、烟台日本語学校も訪問しました。各クラスをまわって、名誉校長として挨拶。夜は先生方と会食し、ともに歌をうたいあいました。ぶんじんは酔って沖縄の「花」(喜納昌吉)を熱唱? 張淋新さんはじめ烟台の皆さま、熱烈!歓迎、有り難うございました。
▼日本語学校のスタッフと(20081030)
9,伊藤長和・烟台の風(2009年4月〜)→■
10、烟台本州日本語学校・一時休校のお知らせ
2010年3月 烟台本州日本語学校・理事長 張林新
謹啓 仲春の候 皆様方におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申しあげます。
さて、本校は2003年開校して以来、日本留学生を目指す中国の学生たちに、その夢を
実現すべく、高度な日本語教育と緻密な留学生支援を担ってまいりました。
しかしながら、昨年来の世界的不況により、日本経済は未だ出口が見えない状況です。
この状況下で、留学費用をアルバイトで親の負担を少しでも軽減したい留学生にとっては
アルバイト探しに苦慮しているびが現状です。またビザ取得につきましても、厳しい状況が
続いています。
このような背景のもと、日本留学を目指す学生の減少は避けられず、当校としましても、
学校経営上、大変厳しい状況に置かれています。
つきましては、大変残念な決断ではございますが、この状況が好転いたしますまで、し
ばらくの間、学校を休校にさせていただきたいと思います。
皆様方の長年のご支援ご協力には、心より御礼申しあげますとともに、皆様方のご健
康と益々のご繁栄をお祈りしつつ、お知らせに代えさせていただきます。 敬具
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